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瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(102) 而して風の力蓋し寡し(4) update ver.

現代語で『源氏物語』を楽しんでおりますが、第21帖「乙女」の巻はこれは文句なく面白い。 内大臣は、姉の葵の上の忘れ形見である夕霧に笛を渡しまして、その笛に合わせて催馬楽を歌ったりして、これは非常にご機嫌なのであります。「湯漬けや果物などをお夜食に召し上がり」まして、このままなら完璧な夜だったんでありますが、そこでハプニングが起きるんであります。内大臣も光源氏に負けない艶聞家でありますから、母の大宮の邸に仕える女房の中に、愛人がいるんであります。帰るそぶりをしながら、その愛人の部屋に忍び込むんでありますが、そこで自分の噂話をしているのをふと耳にしたとあります。今時の核家族の住宅とは違いまして、人の出入りは盛んでありまして、お勤めしている女房の結婚相手だって夜になれば通ってきますから、まさか内大臣が忍んでいるとは思わずにいると言うことなんです。 どうやら、内大臣は知らないらしい。子供のことなんか全然分かってないわね。なんてことを宵の徒然にひそひとおしゃべりしているのであります。というか、もはや女房の陰口ですから、自分にまつわる不都合な真実だと口調で分かっちゃうと言うことなんであります。「しまった。夕霧と雲居雁はできておったのか」というようなことでありまして、自分の振る舞いなんかそっちのけで、この人はカンカンに怒り出します。 時流におもねることをしないで光源氏と付き合っていたからこその内大臣でありますが、だとすれば相当の堅物でありまして、考えて見れば葵の上だってカチカチの堅物だったわけで、この一家は優秀なんだけれども、人間関係においては柔軟性を欠くところがあるんであります。いとこだから結婚は可能だが、これはつまらん縁組みだ、というような感想でありまして、内大臣は12歳の男の子と14歳の女の子のカップルを引き離しにかかるわけであります。 あけすけにネタバレを書いているようでありますが、読んでみれば分かるように、ネタバレしていたって断然面白い巻なのであります。 さて、降って湧いたようないとこ同士の恋愛に、今をときめく内大臣は激怒いたします。12歳の夕霧というのは、これは数え年の年齢ですから実は10歳ちょっとの少年なのであります。こちらの方がおませでありまして、彼は積極的にいとこの女の子が好きなのであります。14歳の雲居雁というのは、これは今なら12歳ちょっとでありますから、お...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(101) 而して風の力蓋し寡し(3) update ver.

さてさて、『源氏物語』の第21帖「乙女」の巻の嵐の前の静けさというものはいかなるものなのか。 光源氏はかつての親友である頭の中将に対して、随分いろんな秘密を持っております。つまり、光源氏はいろいろとやらかしていて、頭の中将の知らない重大事が結構あるわけです。たとえば夕顔を光源氏が死なせているというのは、まったくもって内緒であります。さらに、光源氏が藤壺と密通して、二人の間に冷泉帝という息子までいるというのも、頭の中将は知らないはずなのです。よって、冷泉帝の後宮政策において、藤壺・光源氏連合が推奨する前斎宮の入内が成功し、さらに中宮冊立に及ぶ一連の出来事の真意が、かつての頭の中将、今の内大臣にはまったく見えてこないのかも知れません。 内大臣の北の方というのは、例の弘徽殿の女御の妹でありまして、その北の方の生んだ娘が冷泉帝に入内しまして、これが第2シーズン辺りの弘徽殿の女御なのであります。後宮の建物名である弘徽殿ですから、住んでいる人が入れ替わるのは当然です。第2シーズンというのは、第11帖「花散里」の巻から、第20帖「朝顔」の巻に至る10巻に付けた私の勝手なレッテルであります。第21帖「乙女」の巻からは雰囲気が変わりましたので、これを第3シーズンと考えていいと思います。第3シーズンの冒頭、太政大臣となった光源氏から政治の実権を譲られた内大臣は、肩を並べる者もいないような勢いでありますけれども、しかしその心中は深く傷つきまして、母の大宮の所で慰められているのであります。 そこでクローズアップされるのは、北の方の娘ではないもう一人の娘の存在でありまして、そうか「わしにはもう一人娘がいたではないか」となるのであります。読者としては「ええ? そんな子供の話ありましたっけ?」と虚を突かれてしまいます。要するに北の方に迫害されて夕顔が下町に姿を隠していたように、北の方に耐えかねて離婚したもう一人の妻が内大臣にはかつていたということなのでありましょう。その妻はとうに再婚を果たし、生んだ娘は内大臣の側に残されたので、それを大宮に預けていたという話なのであります。 第3シーズンになって登場する雲居の雁は、紫の上のクローンでもありますね。クローンだらけ。 記憶が間違っていなければ、葵の上というのは光源氏より4歳年長の「姉さん女房」でありますけれども、この俗語が意味する世話女房とは違って、...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(100) 而して風の力蓋し寡し(2) update ver.

 蔵書の中にも、もうこの本必要ないやと思っていても、処分できないものが残っております。 要らないものを処分するのかしないのかというところで、人はうじうじ悩むわけでありまして、引っ越しなんかをすると、妙に中途半端な品物がありまして、処分までは思い切れないが、引っ越し先に持ち込んでも無意味だろうというようなものが残ります。次の引っ越しまでダンボールの中だったりしまして、あーあ、捨てとけばよかった、なんて何年も後に反省するのであります。 中途半端なものを、どのように処理するかによって、もしかしたら人生というのは決まるのかも知れません。 そこで、私の師匠のことを思い出しまして、この方もものすごい蔵書を持っていた人でありまして、博覧強記の人でありますから、書斎の本棚はきちんと整理整頓して、うなるような蔵書の数でありましたが、ある時庭を潰してプレハブの六畳間をこしらえまして、そこに一部の本を移し始めたのであります。記憶をたどると事の発端は、隣家に済む母上が心配で、その介護用の寝室をこちらの家の書庫を改装して作ることにしましたので、そうなったら書庫の本をどうするかというのが師匠のその頃の課題だったのであります。その結果、居間の正面の庭の真ん中に、いかにも安普請な粗末なプレハブが建ちまして、当然ながら書生さんのように通い詰めていた私が本を移すのを手伝いましたが、「何だかおかしいなあ」という気持ちがしたのであります。 さらに、味を占めたのかどうか、道路を挟んだところに師匠の所有しているアパートがあったんですが、その一番奥に少し空き地があるというので、そこには三畳間くらいのプレハブを建てまして、そこにも蔵書の一部を移したのであります。しかし、六畳間も三畳間も、本棚を立ててみれば分かりますが、たいして収蔵量がないわけでありまして、あっという間に本で埋まって、たぶんそれきりであります。つまり、雨が降れば湿度が100%、夏に日射しがあれば40度を超すようなプレハブで、あれから30年、本はすべて駄目になったことでありましょう。そうなる前にどうにか処分したのかどうか。ひょっとすると、あの師匠の振る舞いを見て、何かを私は悟ったのかも知れません。今の私と同じくらいの年齢でしたが、今の私はプレハブの書庫は作りません。庭も空き地も持っていないということもありますが、それより高温多湿の日本でプレハ...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(99) 而して風の力蓋し寡し(1) update ver.

 さてさて、現代語の『源氏物語』は第21帖「乙女」の巻読了でありまして、これは見事な小説。 瀬戸内寂聴さんが訳して、講談社から10冊本で出た単行本を読んでおりますが、その四冊目もちょうど真ん中辺りであります。この巻は、正味65ページありまして、結構長いのでありますが、すらすら読めてなかなか面白いのであります。一つ前の「朝顔」の巻を受けてはいるのですが、飛躍的に面白みが増しまして、セカンドで走っていた車がいきなりギアチェンジでトップに入り、猛烈に走り出したような面白さであります。どうやら、ここから第3シーズンに突入した感がありまして、主役が光源氏の世代から、次の夕霧の世代に移りまして、映画なら脚本家を総入れ替えして万全を期したような見事さであります。 ただ不思議だなあと思うのは、この巻の中で3年が経過するんだそうでありますが、普通に読んでいると時間の経過がそんなにあるとは分からないのであります。速読して、いろんなところをすっ飛ばして読んでいるわけでありますから、私が悪いんですが、一巻で三年も経過する巻がこれまであったでありましょうか。何か約束を破ってずいずい事を進めているような感じがいたします。それと、変だなあと思いますのは、この巻の主人公は光源氏の息子の夕霧少年でありまして、それなのに「乙女」とは随分人を食ったようなタイトルであります。 夕霧のおばあちゃんというのは大宮という人でありますが、葵の上の母上であります。実は光源氏にとっては叔母さんでありまして、つまり桐壺帝の妹でありました。夕霧君からすると、母方のおばあちゃんが引き取って面倒を見てくれている状況ですから、心配は要らないのであります。大宮の息子の代表は、これはもちろんかつての頭の中将でありまして、一時は右大将になったりしてましたが、この巻では内大臣となっているんです。光源氏と同じで、ぐんぐん出世をしまして、えらさも半端ないのであります。世の中で押しも押されもしない大臣となっているわけで、さぞかし子孫繁栄のみぎりかと思うんですが、この内大臣一家のどたばた劇が非常に面白いのであります。 なんだか、行き詰まっていた連続ドラマを、有能な脚本家がリライトしてテコ入れしたような感じであります。例えを借りると、潰れかけたデパートが外国資本を入れて、全面改装、魅力的な商品を世界中から集めてリニューアルしたようなもの...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(98) 興ざめなものの例(4) update ver.

 「興ざめ」ということを古語で言うと何になるのかというと、「すさまじ」なのであります。「ぞっとする」とかそういうことでありまして、あんまりうれしくないものでありますね。『枕草子』にも「すさまじきもの」という一節がありまして、結構長い章段を構成しております。最初に出て来るのは、「昼ほゆる犬」でありまして、これは何となく分かります。次々といろんなものが挙げてありまして、たとえば、「牛死にたる牛飼い」「火おこさぬ炭櫃、地火炉」「方違へに行きたるに主せぬ所」などというのは、要するに無用の長物を言うのでありましょう。 牛が死んだら牛飼いは不要でありまして、リストラの対象。冬に重宝した暖房器具は、シーズンが終われば無用であります。でもって、貴族というのは占いによって、行ってはいけない方角が発生しまして、それを避けるために方違へというお泊まりをして、目的地に行けるように手を打つわけです。泊めてもらったのに食事も出さないとなれば、もはや赤の他人、全くの敵でありますから、そんなところに泊まるんじゃなかったと悔やむのでありましょう。 『源氏物語』を現代語で読み進めて第20帖も読了ですが、光源氏は「冬の月をいいものだ」というのです。 雪の夜に簾を巻き上げて冬の月を見ながら、「すさまじき例に言ひおきけむ人の心浅さよ」なんて強弁するんですけれども、ここのところが問題のようです。冬の月を「すさまじき例に言ひおきけむ人」は、注釈書などは『枕草子』の筆者清少納言を想定するわけですが、これはとんだ濡れ衣で、現在の『枕草子』の「すさまじきもの」の段にはそんなものは出て来ないのであります。記憶は定かではありませんが、同じような場面が『宇治十帖』にもあったはずでありまして、だとすれば冬の月を興ざめだとするのは世間の言い習わしだったのかも知れません。春の朧月夜や秋の仲秋の名月に比べたら、寒空の下で月を見てもうれしかろうはずはないのであります。 この第20帖「朝顔」の巻の末尾は、冬の月は興ざめではないと言いながら、どうしたことか光源氏は興ざめな女性評を始めてしまうのであります。藤壺の女御の話を始めて、さらに前斎院「朝顔」の姫君を話題にし、その結果紫の上から朧月夜のことを持ち出されて話をし、さらに明石の上のことまで言及しまして、ここで隠しているのは前斎宮である梅壺女御を口説いていることであります。 とも...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(97) 興ざめなものの例(3) update ver.

『源氏物語』の第20帖「朝顔」の巻は、問題が多くて何となく戦略的な気がするのであります。 気ままに現代語訳を読み進めているわけでありまして、自分がこの長編小説を読み通して、楽しむと言うことだけを念頭に置いているのであります。これまでいろんな巻がありましたが、今回のこの巻は何だか怪しい秘密を抱えた巻のように思えるのであります。一つは、現在の54帖の順番で読んだ場合に、光源氏の行為が繰り返しに堕しておりまして、小説としては二番煎じの寄せ集めであります。神様に奉仕している皇女をかどわかすとか、同居している年配の女性に挨拶してから、本命のところを訪問するとか、あるいは源内侍という老女が出て来て光源氏に若い女と同じ扱いを強要するんであります。 さらに、噂を聞いて紫の上が嫉妬しましてそれを光源氏がいなしたりすると言うのも、これも二番煎じなのであります。そういう点では、原作者の紫式部に限界が来てしまっているようにも感じるんですが、しかし、繰り返しがくどくならないところで叙述を切り上げておりまして、そこで浮かび上がるのは、相も変わらず昔のパターンで行動する光源氏の愚かさでありまして、なんとなく戦略的に描いているような気がするのであります。違っているのは、嫉妬している紫の上が内面を獲得しておりまして、自分のアイデンティティのようなものを自覚し、夫の行動次第で自分の寄って立つところが崩れてしまう危うさを語ることでありまして、ここでいきなりかゆいところに手が届くような雰囲気がありまして、第11帖「花散里」のあたりからを『源氏物語』の第2シーズンと見なしてみると、これはこれで完結して行きまして、夫の波瀾万丈の時にはむしろ正妻として確固とした地位にあった紫の上が、夫が立身出世のコースに戻ると彼女の地位が危うくなると言う、なかなか面白い筋立ての第2幕だったような気がします。仮に玉鬘系後記説が成立したとしても、現在の配列になったのには必然性があるような気がするのでありますが、ひょっとしてこの「朝顔」の巻をうまく分析すると、あの後記補入説が崩れるような気がするのは、なぜなんでありましょうどこが崩れるのかと問われると答えられませんが、これを書いた後で「あれ」を書くかどうか、ということです。 瀬戸内寂聴さん訳の『源氏物語』もはや第20帖「朝顔」の巻でありますが、気になるところがまだまだ。 朝顔の姫君が...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(96) 興ざめなものの例(2) update ver.

 『源氏物語』の現代語訳も第20帖「朝顔」の巻でありまして、どうも腑に落ちないのであります。 冷泉帝の后となっている前斎宮を口説きますと、これは不倫でありまして、それは内緒のことであります。だいたい親代わりで自分の邸に里帰りをしている人を口説くなんて、前斎宮も不愉快でありましょう。光源氏が、母の六条御息所と関係があったこともこの人は知っているはずであります。物の怪がまた出るかも知れないのに、そういうことが分かっていながら光源氏は欲望が抑えられないのであります。それが、第19帖の「薄雲」の巻の後半でありました。 それが、この第20帖で独身の前斎院「朝顔」を口説き始めまして、これは世間にはお似合いというような話なのであります。若い時の二人の贈答歌も有名だなんて、どこからそんなことを捏造して既成事実化をはかっているのかと思うような叙述が出て来るのであります。その噂を元にして、紫の上と自分の関係した女性たちのことを話題にしますから、悪乗りもいいところなんですが、「何で朧月夜に手を出したの?」なんて紫の上に皮肉を言われております。朧月夜の話の前に、うっかり藤壺のことを話題に出しているわけで、そうすると夢の中に藤壺が出て来て、しっかり恨み言を言われるのであります。 そうか、藤壺との関係を隠蔽するために朧月夜との浮き名をわざと流したなら、前斎宮「秋好」との関係を隠蔽するために、こちらもまたわざと前斎院「朝顔」と関係するのを喧伝するのはあり得るのであります。そういうことが次第に分かるように話が進められていまして、短いながら第1シーズンをまとめ、第2シーズンを整理しているようであります。それにしても、藤壺に恨まれ、紫の上に愛想を尽かされて、この光源氏は主人公の座から転落して留まるところがありませんから、原作者に見放されたようであります。じゃあ、「誰が主人公なの?」と聞きたくなるような、混迷ぶりなのです。 瀬戸内寂聴さんの訳した『源氏物語』を読み進めまして、第20帖「朝顔」の巻であります。読書自体はスムーズに進んでいますが、余計なことを知っているために、あれこれ考えているわけです。 桐壺帝の妹という女五の宮が登場しまして、おばあさんの新登場であります。桐壺帝の兄弟というのは、六条御息所の嫁いだ前東宮が、どうやら弟でありまして、それから朝顔の姫君の父である式部卿の宮くらいしか話に...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(95) 興ざめなものの例(1) update ver.

講談社刊の現代語訳の『源氏物語』をずっと読んでおりまして、第20帖「朝顔」の巻もついに読了です。 現代語訳で30ページくらいでありまして、一つ前の第19帖「薄雲」の巻よりも短いのであります。何となく、今まで出て来た人物がおさらいされているような、あるいは、生じている状況が焼き直しのような感じでありまして、既視感に囚われるのであります。つまり、読み始めると節々で退屈するわけで、困ったなあと思うのでありますが、ところがどうも「薄雲」の巻のリフレインのように見えて、そのリフレインのおかげで小説が深いところに入って行くような感じがいたしました。どう言ったらいいのでしょうか、かゆいところに手が届き始めるのであります。 やはり気になりますのは、末摘花がまるで存在しないように展開していることであります。やはり、玉鬘系後記説は正しいのかと思うわけでありまして、光源氏が紫の上を相手に今までの妻妾の噂話を始めてしまうのでありますが、その中に末摘花がすっぽりと抜けているのであります。ただ、非常に奇妙な感じがするのでありますが、新たにこの巻で存在感を増す朝顔の姫君が、どうにも末摘花とキャラクターが被るのでありまして、花散里に次いで末摘花のクローンが登場した感じなのであります。 もともと、天皇の血を引く姫君である紫の上がおりまして、よく似た境遇で不器量だったのが末摘花ですから、末摘花もクローンだったと思うのであります。次第にクローンが繁殖しまして、それらに光源氏が唾を付けまくっているという図柄が出て来るのであります。マンネリを逆に利用し始めた原作者の紫式部でありまして、どうやら居直ってあれこれ第1シーズン(第10帖までを勝手にそう名付けております)の人物に落ちを付けまして、この巻がひょっとすると第2シーズンの締めくくりだったのかも知れません。これ以降の巻を読んで、それが第3シーズンと指摘できれば、『源氏物語』は10帖ずつ書き継がれたものと言うことができるのかも知れませんね。 瀬戸内寂聴さんの『源氏物語』(講談社)の単行本を読み進めて、第20帖「朝顔」まで辿り着きました。前斎宮を口説いたと思ったら、前斎院を口説きまして、もはや手当たり次第、光源氏は病気であります。ちなみに、斎宮は伊勢神宮に御奉仕しますが、斎院は賀茂神社に御奉仕いたしますので、区別をよろしくお願い申し上げます。   前斎...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(94) 柑子みかんのようなもの(5) update ver.

 わんこそばの思い出というのもあります。これは岩手県の盛岡の名物なので、ご存知の方も多いと思います。 大学のサークル仲間と盛岡市内を観光しまして、有名な不来方城(盛岡城?)を見物した後で、わんこそばの名店に繰り出したわけであります。これは、お椀に一口サイズのおつゆを含んだそばを入れて貰って食べるものでありまして、食卓にはおかずもたくさん用意されて、お腹いっぱい食べるという食べ方なのであります。お店の女性が客の周囲にはりつき、おそばをお椀から口に運んだら、すかさずお椀におそばを放り込むというルールでありまして、客の方は満腹しましたら、お椀に蓋をして「ノー・サンキュー」の合図をするという趣向なのであります。 話としては簡単でありますが、一つ問題がありまして、お椀を左手に、お箸を右手に持ちまして、お椀の中のおそばをすすりますと、蓋をする手が無いのであります。もう一本手が無いと、お椀の蓋が閉まりませんので、客は永久にお蕎麦を食べ続けることになるのであります。お店の女性は、お客三人くらいを分担しまして、2、3メートル先からおつゆの付いたおそばの塊を投げ込むのでありまして、いやはや、楽しい食事の場が、あっという間に修羅場のようになるのであります。 問題なのは、おかずもおそばも超おいしくて、どっさりたべてぐっと満腹することです。さて、蓋は? ここからは、もう秘密の部分に属するのでありますが、お店の方は蓋の閉め方をちゃんと教えてくれます。とても親切に教えてくれまして、「ああなあんだそうするのか」「どうもどうも、ありがとう」というふうに思うんでありますが、ここからが修羅場どころか地獄に変わるのであります。いくら食べても値段は一定でありますから、たくさん食べた方がいいという大原則がありまして、次に蓋を閉めたら終了というルールを受け入れてしまっております。入店した段階で、普通の人はその場のルールに従順に従おうといたします。そうすると、人間としてはもはやお椀に入ったら食べることが義務になり、蓋を閉められない自分の責任を痛感するんであります。 さて、教わった通り蓋が閉まるかというと、ここからが地獄の中の地獄であります。お店の女性のコントロールは正確でありまして、時には4メートルくらい向こうから、閉まりつつあるお椀の蓋の数㎝の隙間におそばが投じられるのであります。おそばをすすってから蓋...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(93) 柑子みかんのようなもの(4) update ver.

 2012年に掲載していた記事のアップデートを続けていますが、もう『源氏物語』第19帖「薄雲」の巻であります。 37歳を迎えた藤壺中宮は、すでに尼となっている人でありますが、光源氏との過ちで生まれた皇子は、今は冷泉帝という治天の君であります。数え年で14歳といいますから、今なら12歳から13歳、どちらにしても中学生くらいの思春期の男の子であります。父だと仰いでいた桐壺帝はすでに亡く、今や母上の藤壺が亡くなりましたけれども、この時精神的な支えとなったのが70近い老僧なんでありますが、ある時この僧が人気のないタイミングで、冷泉帝誕生の秘密を教えてしまうのであります。胸に秘めたまま往生してもよかったんでしょうけれども、宗教人としての深い思いもあるのでしょう、あるいは重大な秘密を隠し通すことに単に堪えられなかったのかも知れません。その辺は書いてありますが、老僧の動揺が読んでるこちらにも伝染しまして、よく分からないような書き方ですから、まあ気になる方はどうぞご自身でお確かめ下さい。 こうして、冷泉帝は自分が今最も頼りにしている源氏の内大臣が、実は自分の実の父だと知ってしまいまして、動揺が収まりません。冷泉帝はりりしい、素敵な男子でありまして、父をかしずかせていることを気に病んだりするのであります。ふーん、そう来るのか、子供が実の父がこの人だと知るとこういう反応をするのか、などと感じさせまして、このあたりは原作者の面目躍如、考え抜いた展開なのでありましょう。当時の読者は、こういった場面をどのように受け止めたのか、これで面白かったのか、近代の読者はこのあたりをどう評価するのか、何だかよく分からない感じがするのであります。 むかし、『源氏物語』のアニメーションが作られたこともありました。映画も何度か作られたりしたと思うのでありますが、果たして光源氏に瓜二つの冷泉帝を正面から描き、その煩悶する姿を原作通り描いたものなんてあるんでしょうか。うっかりすると、物語の主人公は冷泉帝にすり替わってしまってもいいわけで、冷泉帝が決然と帝位を降りて舟に乗り天竺目指して放浪の旅に出たっていいかもしれません。亡き母の生まれ変わりがネパールだかブータンにおりまして、その母に会いに行くのだなどとすると、ロマンチックな冒険小説がスピンオフしそうであります。今は南海の龍王となっている桐壺帝が嵐を起こし...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(92) 柑子みかんのようなもの(3) update ver.

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さて、現代語訳の『源氏物語』を読み進めておりますが、第19帖「薄雲」の巻の中で年が改まります。 光源氏は幾つになったのかと、「年立」というような便利なものを注釈書の付録などで見て確認してみますと、光源氏は32歳、紫の上が24歳、明石の上が23歳なのであります。藤壺中宮は37歳となっておりまして、冷泉帝が14歳、そこに嫁した前斎宮が23歳ということのようでありまして、こうしてあげた中に男性は2人、女性が6人ですけれども、これだけで幾つの三角関係が潜んでいるか、あれこれ考えて見ると面白いような、ちっとも面白くないような妙な気分が味わえます。ドラマとしては、第1帖の「桐壺」の巻からずうっと三角関係の愛憎劇でありまして、眺める風景はちっとも変わらないのであります。ただし、主人公の光源氏の心境というものは大きく変化しておりまして、そのことをついうっかり見逃してしまいそうであります。 どうやら光源氏は内大臣のようなんですが、左大臣が誰で右大臣が誰というようなことがぼんやりしていてはっきりしないのであります。それでも、彼は藤壺と一緒に冷泉帝を後見しておりまして、親代わりとなって前斎宮を冷泉帝の後宮に入れているわけで、政治的にはほぼ盤石の構えであります。政治的には完璧な冷血漢になっているはずでありまして、須磨下りのころの腹心の部下を重用して、日和見の中間派やかつての弘徽殿の女御一派に関しては、表立って敵対しない代わりに、勢力を削ぐことは怠っていないことでしょう。 その代表は、紫の上の父の兵部卿の宮(式部卿の宮?)の扱いでありまして、この人とは没交渉になっていたはずであります。以上のようなことが、実はこの巻ではまったく触れられておりません。小説ですから作者は自分が書きたいことを書くだけのことで、読者の疑問に答えるようなことをいちいち書く必要は無いのですが、実は光源氏はそうとう須磨下り以前と精神構造が違ってきているはずで、もしかしたらもう誰のことも信用していない可能性があるのであります。気になるのは、正月になって明石の上を訪問するんですが、相変わらず紫の上は嫉妬の炎を遠慮しませんけれども、それをやり過ごして明石の上と仲良くするんです。その時に、あれほど世話になった明石の入道の存在を疎ましく思っているという一節が入ります。「あれは偏屈でいかん」「あれがなければ、この女性が身分が低かろうと...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(91) 柑子みかんのようなもの(2) update ver.

『源氏物語』の第19帖「薄雲」の巻でありますが、幼い姫君は実母とお別れして養女になってしまいます。 皇族や貴族の場合に、その血統であると言うことは、あんまり意味がないのであります。つまり、皇族なら東宮になるとか兵部卿の宮、常陸の宮というような役職のある位置に就くとか、皇女なら斎宮・斎院などに指名されないと、その子孫であるだけでは重く見られないようであります。貴族も、親が大臣の場合には、たとえ大納言・中納言になっても成り下がったとして軽んじられたようであります。曾祖父が皇族であろうと、祖父が大臣であろうと、明石の入道が無位無冠である以上、娘の明石の上は身分がないものですから、光源氏は彼女が生んだ姫君を、将来のお后候補にするために二条邸にできるだけ早く迎えようとするのであります。 つまり、光源氏が用意している二条邸に、明石の上が姫君を伴って引っ越さないと言うことが、ここでの問題なんですが、原因はこの一家の身分コンプレックスなのであります。明石の上と光源氏の婚姻関係を世間に明かすことに対して、明石入道一家というのはある意味慎重であり、ある意味頑固に拒んでいるのであります。軽薄なところが無いことは、美点にもなれば欠点にもなりますが、ここは裏目に出て母子が別れるはめに陥っております。光源氏が悪い奴なら、家来の好色な国守などに言い寄らせて、明石の上を籠絡して地方へ連れ出してしまえば、母の出自を隠すこともおそらく容易にできるのであります。そう思って見ると、はじめて光源氏が明石の上を寵愛していることが分かるわけで、親がかりの洗練された女性に光源氏が非常に魅力を感じることが分かります。だから、親がかりでたしなみのある六条御息所や朧月夜内侍、前斎宮(梅壺女御)、そして明石の上が愛されるわけです。ここは、しつけの行き届かなかった、あるいは自分でしつけを施した紫の上との差でありまして、こういうふうに露わに言わないと、紫の上は主人公だと誤解されるのであります。原作者・紫式部は、奥歯に物が挟まったような文章を書きながら、目指すゴールへと突進しているんでありまして、胸突き八丁かも知れません。 ところで、連れてこられた姫君が紫の上の元で食べた「お菓子」が気になります。原文は「くだもの」。 瀬戸内寂聴さんの現代語訳した『源氏物語』も三分の一に迫り、第19帖「薄雲」の巻までやって参りました。この巻で、...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(90) 柑子みかんのようなもの(1) update ver.

さて、瀬戸内寂聴さんの『源氏物語』ですが、いよいよ巻四に入りまして、第19帖「薄雲」の巻を読了です。 寂聴版の巻四は、第19帖の「薄雲」の巻から第24帖の「胡蝶」の巻まで、6帖を収めていまして、奥付を見ると刊行されたのは、平成9年(1997)の5月24日なのであります。全部で300ページありますけれども、小説の本文だけなら245ページありまして、残りは目次とか奥付の他は、参考資料や語句の解説が付いているんですが、挿絵がよく装丁がしっかりしていて、読み進めて行くのに過不足がないという点では、魂の籠もったシリーズであったのかと、鈍くて気の利かない私でも今頃分かるわけであります。「薄雲」の巻は、約40ページあります。 「薄雲」の巻を読んだ感想として出て来るのは、何となく薄気味悪いと言いますか、後味の悪さがじわじわと出て来る巻なのであります。まず、紫の上・光源氏・明石の上という、物語の骨格をなす三角関係の中で、幼い姫君が実母の明石の上の手元を離れて紫の上の養女になると言う、劇的な展開があるのであります。誰でもご存知の展開でありましょう。紫の上は姫君を上手にあやし、明石の上は娘を手放した悲しみをこらえる、というようなことでありますから、主人公はどう見ても明石の上でありますが、二人の女性の反応が優等生で型通りのために波乱が起きないのでありますけれども、もはや点けっぱなしのテレビの陳腐なホームドラマの趣を呈しております。工夫はされておりますし、読んでいてストリーそのものは齟齬はきたさないのでありますが、どうも読むのは時間の無駄のような気もいたします。 養女に優しい正妻と、我が子を取られてもじっと我慢の妾、現代のドラマであったとしたら、視聴率は5%くらいを推移するはずで、これで打ち切りにならないなら何かおかしい。2023年で考えると、生田斗真さん演じる光源氏に対して、正妻の紫の上を広瀬すずさん、子供を手放す明石の上を永野芽郁さんでキャスティングしても、挽回は難しいことでしょう。 それから、政界の大物である太政大臣が亡くなりますが、たぶんこの人は葵の上の父上で、夕霧の祖父、なぜかずっと光源氏の味方でありますが、どちらかというと張りぼてのような上の世代の人物でありますから、亡くなったことを知らされても、何ら共感できません。光源氏もせいせいしたのかも知れませんが、そうも書いてないのです。...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(89) 島隠れ行く舟(3) update ver.

   ほのぼのと ほのぼのと 冷たい浮世に 灯をともす 一人の男♪            (『桃太郎侍の歌』・三波春夫) 脳髄の奥まで染みておりまして、高熱を発して多少おかしくなっても、たぶん歌えてしまう歌であります。三波春夫さんの歌声を同時代に体験したものとしては、ああいう歌声がまた出て来ないものなのか、音楽学校は何を教えているのか、いやいや、教えて歌えるものじゃないんだ、と当たり前の結論にすぐに到達してしまうのであります。物まねで三波春夫さんを演じる人というのはあるでしょうけれど、うまくて似ている人というのには記憶が無いわけであります。それにしても、出だしの「ほのぼのと」の陰影だけでも聞く方としては気分がよくなってしまいますから、どういう発声の結果なのか気になるところであります。ボーカロイドを開発する方は、ぜひ三波春夫さんふうのボーカロイドを開発して欲しいものであります。あの心地よさを出すためには、恐らくはものすごい工夫が必要なわけでありますから、開発できたら賞讃の嵐になることは間違いないのであります。 『桃太郎侍の歌』は作詞が三波春夫さん自身でありまして、作曲が平尾昌晃さんであります。調べてみると、三波春夫さんは浪曲師でありまして、ご自身でも浪曲を書いてしまう人ですから、作詞も手がけるのは苦ではなかったのでありましょう。そこでふと思いますのは、三波春夫さんの歌を聞いている時に、それを誰が作詞したとか作曲したとかそういうことを子供時代にはまったく意識しておりませんでしたね。歌と歌手が溶け合ってしまって、『桃太郎侍の歌』を歌うと言うことは、三波春夫になって歌うとか、三波春夫を歌うと言うことでありました。それから『東京五輪音頭』と言いますのは、複数の歌手による競作だったんだそうですが、私は三波春夫さんのバージョンしか記憶に残っていないのであります。    四年たったら また会いましょと かたい約束 夢じゃない♪      (『東京五輪音頭』) 『東京五輪音頭』というものが発売されたのが昭和38年(1963)のようでありまして、50年前の歌であります。こういう古い歌を若い人が知らないのかというと、実はそうでもないのであります。中学・高校の吹奏楽団などというのはコンクールを目指しては当然新曲だったり、ク...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(88) 島隠れ行く舟(2) update ver.

ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ          (『古今集』巻第9・羇旅・409番) 明石の浦を詠んだ名歌であります。順当ならば、おそらく『百人一首』に入っていた歌のはずですが、残念なことに『古今集』での扱いは「詠み人知らず」でありまして、左注で「この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり」とあるのであります。余計なことを申しますと、『古今集』の巻第9「羇旅」(きりょ)の巻というのは、全部で歌が16首しかないんですが、そこから『百人一首』に3首も入っているのであります。すごい確率でありますね。その3首というのは、安倍仲麿の「天の原」と小野篁の「わたの原」、そして菅原道真「このたびは」でありまして、強烈な歌ばかりであります。人麿の歌かどうかもわからない「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝ん」なんかよりも、こっちのほうがよかったんじゃないでしょうか。ともかく、明石入道の妻と娘、さらに孫娘の三人は、明石の入道を明石に置いて、京都西郊の大堰川にある邸宅に身を寄せるため、住み慣れた明石を出発するんですが、その場面の背景にこの歌が出て参ります。これがなかなかいいのであります。 舟の中には、長年苦楽をともにして連れ添ってくれた老妻、そしてありったけの智恵を振り絞って育てた明石の上、そして光源氏の血を引く姫君、愛しい女三代の揃い踏みでありまして、それを見送る明石の入道の心境と、この『古今集』の歌の大らかさ、柄の大きさが重なりまして、これはなかなか見事な場面と言えるでしょう。どうして、明石の入道は一緒に上京しないのかという疑問は残るのですが、ある意味何となく自然な感じもするシチュエーションなのであります。ここでの、女三代の行動のよいところは、光源氏に招かれるがままではなくて、明石入道の努力によって大堰川の所有地を見出し、そこへ身を寄せて行こうとした積極性でありまして、それが物語の行く末を明るくしております。しっかりとした家族愛の中から出て来た女性を描いておりまして、明石の上が光源氏の寵愛ナンバーワンの女性たりうる性質であることを、充分にアピールしているような気がいたします。 『源氏物語』を現代語訳で気楽に読み進めておりますが、第18帖「松風」の巻まで参りまして、ここに来て、物語のヒロインが...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(87) 島隠れ行く舟(1) update ver.

さて、現代語で読み進める『源氏物語』第18帖「松風」の巻、読了であります。読み終わるまでの時間は、20分くらいですから、あっという間の読書であります。 講談社から出ている10冊もののシリーズでありまして、最近文庫本になって出たように思うんですが、今読んでいるのは単行本の三巻目であります。三巻目の最後が「松風」の巻なのであります。『源氏物語』は全54帖でありますから、巻の数で言うと3分の1を読破したことになりますが、どうも残り36帖の分量が多いようでありまして、そう言えば、後に控えている「若菜」の上・下の巻なんかはものすごく長いよなあ、などと思うわけであります。「松風」の巻は、この本で言いますと31ページに過ぎないわけでありまして、何か物足りない巻であります。 建物の話が出て来まして、二条院の東にどうやら新築もしくは増築したような話なのであります。ここに、まず花散里を移し、ゆくゆくは明石の上を招き寄せる算段をしているのであります。これとは別に、京都の西郊、嵯峨野辺りに土地を求めてお寺を造営するのでありまして、大臣クラスになると桁違いの財力でありますから、自分や一族の来世のためにお寺を造る余裕まで生まれるという事なのであります。明石の入道の所では、明石の上と姫君を京都にやらねばならないというので、所有していた土地を思い出して、大堰川のほとりにすまいを確保するんですが、それが光源氏の建てているお寺と目と鼻の先という好都合であります。 ああ、それで「絵合」の巻の最後に発心が兆したなんて書いておいたことが分かります。 しかし、お寺に参詣するついでに愛人の元に寄ったのでは、仏様は許さないのではないでしょうか。なんだか、矛盾だらけの巻でありまして、どうも原作者の計算が「微妙に」というよりは、「あからさまに」狂ってしまっている感じがいたします。ただし、毎回1帖ずつ発表していたなら、矛盾があったとしても、当時の読者には気にならなかったことかと思います。冷泉帝の後宮の話から、光源氏の家庭生活の話題に焦点が移動しておりまして、ようやく明石の上や明石の姫君が表舞台に登場して来たんですから、話は華やぎます。 瀬戸内寂聴さんの訳した『源氏物語』第18帖「松風」の巻を読了しましたが、色々気になります。 一つは明石の入道夫妻の、特に北の方の素姓が明らかになる点でありまして、どうも皇族の血を引く人ら...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(86) 絵日記提出(3) update ver.

瀬戸内寂聴さんの訳した『源氏物語』も、はや第17帖「絵合」の巻ですが、三角関係が気になります。 ここまで、あまり物語の中心に出て来なかった藤壺が、冷泉帝の後宮に前斎宮を入れようと強く光源氏に働きかけたことが分かります。このあたりが、分かったような分からないことでありまして、いろいろ考えて見る余地がありそうです。『源氏物語』の始めというのは、桐壺帝の後宮の確執でありまして、要するに弘徽殿の女御・桐壺帝・桐壺更衣という三角関係があったわけです。藤壺が入内した時に覚悟したのは、弘徽殿の女御・桐壺帝・藤壺女御という関係でありまして、いじめられたら困ると言うようなためらいがあったはずです。これが、光源氏の密通によって、とんでもないことになりまして、桐壺帝・藤壺女御・光源氏という親子と関わるはめに陥るわけであります。もし仮に藤壺が光源氏を愛していたとしますと、藤壺女御・光源氏・葵の上という構図になりまして、さらに実際の愛情が葵の上に無ければ、藤壺女御・光源氏・六条御息所というふうに流動化するわけです。六条御息所の場合は、この藤壺の存在に気が付かずに、妊娠した葵の上を祟ってみたわけで、ばれていたらどうなっていたのかということも考えてよいのでありましょう。 光源氏が冷泉帝の実の父親であるということが秘密である以上、光源氏が冷泉帝の治世に肩入れする必然性が藤壺は必要なのかも知れません。そこで、光源氏が公然と後見していた六条御息所母娘でありますから、娘の前斎宮を冷泉帝の後宮に入内させおおっぴらに肩入れさせようという目論見と言うことになります。冷泉帝は父の光源氏に似て絵が大好きというような事でありまして、前斎宮も絵が上手で、いきなり親密度が高まるというふうに描かれております。光源氏が絵がうまいというのは、「末摘花」の巻で紫の上に絵を描いてやるシーンがありますから、実は布石が打ってあったと言うことになります。もし、そのことがこれまで出て来てなかったら、なんだかとってつけたような話なのであります。光源氏の孫に当たる匂の宮が、絵を描いて浮舟をよろこばすと言うことが『宇治十帖』で出て来るはずですが、代々絵が上手という話になるのでありましょう。小説においては、絵が上手というのはそう言ってしまえば良いわけですから簡単ですが、これを映像化すると、その絵を見せなくてはなりませんから、相当力を入れて上手な...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(85) 絵日記提出(2) update ver.

現代語で読み進めている『源氏物語』でありますが、第17帖「絵合」の巻の構図を考えます。 まず、藤壺と光源氏の間に生まれて天皇に即位した冷泉帝の時代になっているのであります。「澪標」の巻で、11歳で即位しておりまして、一年とんだ「絵合」の巻では13歳と言うことなのです。かつての頭の中将は今は権中納言でありますが、この人のお嬢さんが入内していて、今は弘徽殿の女御は14歳の可憐な少女に入れ替わっております。このあたりは、実は世間ではもう読まれていない巻々でありまして、うかつに話を読もうと参加するとこんがらかることでしょう。この巻の骨格は三角関係を描く点でありますから、冷泉帝の后妃がもう一人登場いたします。藤壺と光源氏が結託して、前斎宮の入内が行われまして、ここに三角関係が成立いたします。ただし、前斎宮は22歳、冷泉帝は13歳、弘徽殿の女御は14歳ですから、妙なことになっているのであります。 実は前斎宮は、伊勢に赴任する時に当時の朱雀帝が対面していまして、彼女に彼は心を奪われたのであります。これはもう完全な世間で言う一目惚れした状態なのでありまして、伊勢から帰ってきたのを朱雀帝は迎え入れたくて仕方なかったのであります。だから、ここでも三角関係が発生しておりまして、朱雀院34歳、前斎宮22歳、冷泉帝13歳という具合であります。あれあれ、困ったことになりましたねえ。 ということで、両親がすでに亡くなって後見人がいない前斎宮の入内に際しては、悔し涙の朱雀院がたっぷりと贈り物をしまして、その中には「薫衣香」(くのえこう)という、衣裳をたきしめる聞き慣れないお香なんかが、朱雀院の誠意の証しとして加えられております。当時の人なら、「ああ、あれだ」「あの芳しいお香よね」と思うようなものでしょうけれども、現代生活の中では一度も耳にしたことがありません。「蓬生」の巻にちらりと出て来まして、このお香についてはひょっとすると何か秘密が隠れているのかも知れません。 こうやってみてみると、三角関係だらけでありますが、男女のベクトルというのはきれいに三角に収束しないものであります。つまり三角関係は、三角にきれいに収まらずに増殖いたします。誰もが、自分のことを好きな人には興味がわかず、自分が思いを寄せるあの人も誰か別の人を好きだったりするわけです。 どうしてかと言いますと、前斎宮の冷泉帝後宮への入内は、...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(84) 絵日記提出(1) update ver.

 さてさて、『源氏物語』の現代語訳も、第17帖『絵合』の巻であります。微妙な巻であります。 たぶん、これを丁寧に映画などにしたら、案外面白いのかも知れません。どうしてかというと、物語の書いてある絵巻物がぞろぞろ出て来まして、かいつまんで物語が紹介してありますから、映画ならそれぞれの絵を動かしまして、劇中劇のようにドラマを展開して、結構起伏のある小説なのであります。ただ、残念ながら、目の前の『源氏物語』のほうが有名になってしまいまして、紹介される物語がしょぼくれて感じられますから、どうしてももう一つ絢爛豪華な「絵合」という趣向に乗り切れない感じがするのであります。現代で言えば、手塚治虫の『鉄腕アトム』やら『ワンダースリー』『ブラックジャック』などを紹介しまして、それに対して宮崎アニメを対抗させまして、どっちがいいか激論するような趣向なのであります。面白そうだが、枠組みである『源氏物語』が偉大過ぎて、扱われる物語の面白みが伝わってこないわけで、隔靴掻痒といいますかもどかしさと言いますか、しっくりしない所が痛いのであります。 瀬戸内寂聴さんが講談社から出している10冊ものの単行本『源氏物語』で読み進めておりますが、この「絵合」の巻は24ページに過ぎないものでありまして、ほとんどが行事の前後の様子ですから、ドラマとしてあまり深みがないのであります。これまでの人間関係をなぞったり、現在の境遇とか地位を改めて確認しているような点がひどく目立ちまして、ある意味退屈なのであります。今までと違うのは、光源氏の弟である蛍兵部卿の宮が、絵合の判者として登場しまして、気になる存在に昇格することくらいでありましょうか。あとあと、大事なところで出て来る人物ですけれども、ここではまだ全くの脇役に過ぎません。この人物が、もうちょっと性格なり生活振りが書き込まれていたら面白かったのでありますが、いきなりという感じで出て来て、光源氏と面と向かって色々論じ合うと、どうにもついていけないのであります。「須磨」の巻で頭の中将と一緒に、謹慎中の光源氏を見舞った人らしいのでありますが、とんと記憶にないのであります。 瀬戸内寂聴さんの現代語訳『源氏物語』第17帖「絵合」の巻まで読了しました。この巻に関して、首をかしげたくなるというか、少々不思議に思うことがあります。 一つは、漢詩や和歌などの引歌のようなも...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(83) 羨ましきは、関守(5) update ver.

『源氏物語』の第16帖「関屋」の巻は、400字詰めにして6枚くらいの短編であります。 紫式部の小説の構成を見ますと、必ずペアになるように人を配置しますが、この巻の空蝉を見ますと、明石の上を思い浮かべます。それはどうしてかと言いますと、状況が酷似しております。「澪標」の巻で摂津の国の住吉参詣がでてきまして、この巻では石山参詣でありますから、政界に復活できたお礼参りをほうぼうの寺社にしている中で、妻妾やかつての愛人とすれ違うことによって、光源氏の現在の境遇を鮮明に印象づけているわけです。二人の女性のうち、明石の上は現在のお気に入りでありまして、空蝉はかつてのお気に入りということになるのであります。どちらも身分は低く、それだけに光源氏の女性に対する嗜好がよくわかるのでありまして、複雑な小説でありながら、読んでいてこんがらかったりしないのは、登場人物のキャラクターをその場その場で上手に必要な側面に光を当てて描くからでありましょう。 つまり、この段階での明石の上と空蝉の共通点は、京の都に生活基盤を持たない、あるいは地方に在住していると言うことであります。明石の上は父の明石入道に扶養され、空蝉は常陸の介に扶養されているという点で、自立していない、言い換えると誰かに依存しているに過ぎない、社会的には弱い立場の女性なのであります。光源氏が政界に復帰すると、この二人の存在というのは身分的にはミスマッチでありまして、光源氏の寵愛の気持ちだけが関係継続の切り札であると言うことであります。 明石の上も空蝉も、光源氏の一行を見て空間的な距離が接近すればするほど、心理的には圧倒されて遠い存在であることに気付かされるのであります。紫式部のうまさは、そういう単純な構図を背景にしながら、現実的な場面を重ねて行く事でありまして、住吉大社とか石山寺とか、現世利益を祈念する場所の対比に読者が気付いたとしても、小説としての説得力が生まれる源泉が、対比的な登場人物を配置した構成のうまさだとはなかなか気付かないのであります。 もちろん、明石の上と空蝉の違いもあるわけで、明石の上は光源氏を夫として受け入れて一女を産んでいるわけですが、空蝉は光源氏を拒み二人の間には子供はいないのであります。さらに、夫の死後尼になると言う点に着目すると、空蝉と共通点を持つのは藤壺でありまして、いやはや、物語はその巻に登場しない人物も...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(82) 羨ましきは、関守(4) update ver.

さてさて、『源氏物語』も第16帖でありまして、「関屋」の巻を考えております。 気にしていることの一点は、この巻にある三首の歌のうち、後の二首は贈答歌でありますが、最初の一首は独詠でありまして、空蝉の詠んだ歌と言うことになっております。「ほんとにそうなのか?」「実は、空蝉が詠んだのではないだろう」「注釈書は嘘をついている」という疑問を呈しているわけであります。それから、その問題の歌の初句のところ「行くと来と」の部分に対して解釈の対立があるわけで、岩波の新大系の脚注によると、おおもとは北村季吟の『湖月抄』と本居宣長の『玉の小櫛』の対立なんですが、近代ではどうやら後者すなわち宣長大先生の説を採用するようであります。『湖月抄』の説によると、この初句は「行く源氏と来る空蝉」と解釈するようでありますが、『玉の小櫛』は空蝉の事であって「常陸へ行くのと京に帰るのと」のように解釈するんであります。あれこれ言っても仕方ありませんから、原文をここに紹介してしまいましょう。      女も、人知れずむかしのこと忘れねば、とり返してものあはれなり。        行くと来とせきとめがたき涙をや 絶えぬ清水と人は見るらむ      え知り給はじかしと思ふに、いとかひなし。             (岩波書店、新日本古典文学大系20『源氏物語』2・160ページ) やっぱり、歌の後の続き方が、歌を詠んだとか、胸に思ったとか、そういう表現が無いのが気になるわけでありますけれども、こういう時にミュージカルのように、いきなり人の内面を歌ったり踊ったりしていると言うことは無いのでありましょうか。別に強く主張はしませんが、空蝉の内面を語り手が歌の形で提示するなんて事は無いのかどうか。探すと他にもあるような気がしまして、気になるんでありますが、いかがなもんでしょう。大手柄の予感がいたします。さて、肝心の歌の解釈はどうなのかということでありますが、それほど難しい表現もなく、簡単な歌だと思うんですが、『湖月抄』と『玉の小櫛』の対立というのがありまして、江戸時代の優れた読み手の間で意見が割れたら、どうもおかしいと考えてもいいかもしれません。 「来」のところは「く」と読みまして、カ変動詞の終止形の形であります。現代語と活用形が違うので面食らいますが、「く」で終止形です。 この歌を解釈する前提は、光源氏と空蝉が再会した...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(81) 羨ましきは、関守(3) update ver.

組織、会社、商店街、そして政党と、人間の営みも栄枯盛衰を繰り返しまして、時には絶滅します。2012年に書いたブログ記事を2023年に再び掲載していますので、内容が古い点はご了承ください。 手元に『源氏物語を読む』(吉川弘文館)という単行本がありまして、これは編者が山中裕さん(元東京大学史料編纂所教授)でありまして、平成5年(1993)3月1日に出版されたものです。その中に、「国司と荘園」という一節がありまして、小口雅史さん(現法政大学教授)という研究者の方が執筆したものがあるのであります。日本史の専門の方の書いたものでありますし、割と専門的なところからアプローチしているのでありますが、『源氏物語』を意識して執筆なさっておりますから、非常に有益なのであります。これを読むと、律令国家の地方支配というものの変遷と言いますか、支配形態の異常さと言いますか、現実によっていかに制度が曲げられてしまうかというようなことを感じさせられます。どうやら、昔習ったのよりは相当に詳しくて、ここまで読んだ現代語訳の『源氏物語』の場面が脳裏をかすめて行くのであります。 空蝉の夫は、伊予の介として登場しまして、後妻である空蝉を連れて任国の伊予に戻ったりしておりました。第16帖の関屋では常陸の介でありますが、次の任官をしたという話の無いまま亡くなっております。光源氏は若い時にこの人と対座したこともありますが、空蝉の夫として、ある意味嫉妬の対象として眺めていたように書いてありまして、政治的に光源氏と空蝉の夫がどのように関わり合うのか、普通に読んできただけでは明瞭ではありません。 しかし、『源氏物語を読む』の「国司と荘園」をちらりちらりと眺めて見ると、関わりがないわけはないのでありまして、いくつか気になってくるところが思い浮かぶのであります。光源氏の口添えで出世した人たちがいるとか、彼の口添えが失敗したようなことは無いというものでありまして、桐壺帝が生きていたときは、その寵愛の皇子である光源氏と親しいことが政界における立身出世と結びついていたことが分かったのであります。 『源氏物語』の第16帖「関屋」の巻は、国守の後妻である空蝉の運命を辿ります。皇族で源氏となって復帰も果たした光源氏と、国司階級の妻として彼になびかなかった女性の微妙な後日談なのです。 光源氏が、若い時に方違えを理由に伊予の介の邸を訪れ...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(80) 羨ましきは、関守(2) update ver.

瀬戸内寂聴さんの『源氏物語』(講談社)を読み進めて、第16帖「関屋」を読了です。 どうして巻の名前が「関屋」なのかという問題があるように感じます。逢坂の関の関守のいるのが関屋なんでありますが、一般にはこの関所は古代のもので、平安時代の古典を読む限り関所に留め置かれたとか、関所で検閲を受けたというような話は出て来ないように記憶しております。念のため、片桐洋一先生の『歌枕歌ことば辞典増訂版』(笠間書院)をのぞいてみますと、山城国と近江国の境界にあるものですが、関所は近江の国に属すようです。大化二年(646)に設置され、延暦14年(795)の平安遷都の時に一時設置されたそうですが、『文徳実録』によると天安元年(857)に再設置されたそうでありまして、どうも影の薄い関所ではありますが、実はちゃんと存在していたと言うことのようです。 交番のようなもので、存在することが治安維持や交通整理に役立つと考えれば、あって当然、歌に詠み込まれたり小説に背景として出て来てもちっとも変ではありません。勉強になりました。 巻の中で、光源氏が空蝉に手紙を寄越しまして、そこに空蝉の夫である常陸の介のことを「関守」と表現して、それが羨ましくて妬ましいなんてことをぬけぬけと言うのであります。こういう比喩をあれこれ考え巡らしますと、要するに光源氏は逢坂の関の通行人でありまして、自由に空蝉に逢いたいのに阻まれているということなのであります。そう考えると、「関屋」というのは、もちろん現実には東海道の逢坂の関に設置された関所の番屋でありますけれども、恋愛の道というふうに考えたときには、結婚によって築かれた夫婦関係と言いますか、家庭と言いますか、夫の存在を言うのでありましょう。「関屋」の巻で常陸の介は亡くなりますが、まもなく空蝉は出家してしまうのであります。「関屋」の巻は、自由な逢瀬を阻む関守の欠員を描くのですけれども、空蝉の出家によって「関屋」の機能が喪失したことも描いたようです。    行くと来と せきとめがたき 涙をや 絶えぬ清水と 人は見るらむ(「関屋」の巻) 「関屋」の巻には、この「行くと来と」の歌とは別に光源氏と空蝉の贈答歌がありますが、それはもはや儀礼的な挨拶でしかないのであります。光源氏はかつての伝言役である小君に手紙を託しますし、小君のほうも姉の空蝉に返事を催促したりするんであります。しかし、...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(79) 羨ましきは、関守(1) update ver.

さて、『源氏物語』第16帖「関屋」の巻でありますが、短い短い、現代語訳でも8ページであります。 前の記事を書くときに、「関屋」を18ページなどと書いておりまして、改めて読んだら非常に短いので、計算間違いに気が付きました。巻の終わりのページ数から、巻の初めの1ページ前の数字を引くんですけれども、一ケタ間違えてしまったようであります。あわてて修正をしましたが、根っからの粗忽者であります。講談社刊の単行本の『源氏物語』もすでに第3巻でありまして、「関屋」の巻のお終いのページが217ページ、そして始まりの前の、巻の名前だけが「関屋」とすり込まれたページが209ページ(ただし、ノンブルは付いておりません)ですから、どう考えても8ページなのであります。念のため、岩波書店の新日本古典文学大系で調べてみますと、一行35字で、70行丁度でありますから、2450字あまり、400字詰め原稿用紙で言うと6枚と3行くらいと言うことなのでありまして、「掌小説」と呼んでもいいと思います。小説として成立しているような、いないような微妙な感じであります。 通常「空蝉」と呼ばれる女性の後日談であります。本文では「帚木」と呼んでおりますから、昔の人はそそっかしかったわけで、近代の研究者ももっと大胆に人物呼称を改めてはどうかと思います。光源氏の執着ナンバーワンかも知れない人妻であります。この人を巡る話になると、非常にきめ細やかな筆さばきになりまして、読みごたえは充分にあるのであります。彼女が夫の赴任先である常陸に同行しているうちに、光源氏は落ちぶれたり復活したりしていまして、そのことが再会の時に影を落とすわけです。夫の一族の中には、光源氏と苦楽をともにした側近だった人がおりまして、そういう人の羽振りのいいのを見て、親戚一同はちょっと悩ましいのであります。「明石」「澪標」辺りの巻でも光源氏は随分人の心が当てにならないと痛感していて、トラウマのように須磨に退去した時の人々の冷たい反応を反芻しておりますが、ここでも同じことが出て来ます。 むかし、空蝉の連絡に使っていた小君という少年が成長しておりますが、これを見て不快に思うんだけれどもおくびにも出さないなんて書いてあるんであります。もう、光源氏は昔の光源氏ではないのであります。そういう点で、この小説は浮ついていないと言えるでしょう。人の心が頼みがたくて、言葉とい...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(78) 早蕨の萌え出る春(6) update ver.

残念なことというのは、世の中にもたくさんあります。自分の周囲にもありまして、もちろんのこと自分の人生にも無数に存在しているのであります。自分だけ損したかも知れない、タイミングがよければ今頃は……、なんてことはたぶん記憶を総ざらいしたら、次から次、思いが溢れて日常が営めないようなひどいことになるのかも知れません。いじめの問題だってそうでありまして、いじめたりいじめられたりするのは世の中の常のことですが、中学校の場合は、思春期まっただ中でありまして、先生が鈍感では太刀打ちできないことでしょう。 中学一年の時でありますが、ある特定の女の子に対する仕打ちが問題になりまして、ベテランの担任が調査に乗り出しました。私も穏やかで真面目な担任の聞き取りに答えて、「いじめはある」と答えたと思います。それ以降、少なくとも陰湿ないじめは影を潜めまして、大人が本気なら子供は態度を改めることでありましょう。実はその後日談があるのであります。 二学期のとある日、始業前のホームルームのために担任がやって来るのを待ちかねていた男子が一人いたのであります。彼は、その機会が到来したと思ったんでありましょう、前列の席から立ち上がると、最後尾に座っていた不良度ナンバーワンの男子にいきなり殴りかかったのであります。授業前の鐘が鳴るかならないかのタイミングでありまして、「起立、礼」の挨拶を号令するのは学級委員の私の仕事でありましたから、一方が立ち上がって後列に駆け寄るのを見ておりましたし、殴りかかるや受けて立つ不良の素早さも私なりに感知いたしました。一発か二発の応酬があって、教室の中に、あの温厚な教師が入ってきて、もみ合う二人を認めたのであります。たぶん、国語と社会と書道の先生でありまして、市街地の真ん中には書道教室を持っているような実力派の先生であります。教室は騒然となりましたが、すぐに騒ぎは収まりました。どうやら、番長格の不良のほうが、弱そうなやつを手下というか使い走りというか、子分にしようとして、いろいろとちょっかいするのを思いあぐねて、担任教師の力量を信じて事を表沙汰にしたかったようなのであります。不良は貧しくはない家の子弟でありますが、不良に絡まれていた方は貧しい家の子供でありまして、彼は子分になる屈辱には耐えられなかったのであります。 小学校からの同級生でありますから、私には二人のその時の心情や感...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(77) 早蕨の萌え出る春(5) update ver.

『源氏物語』を瀬戸内寂聴さんの現代語訳で読み進めまして、「蓬生」の巻に到達しました。 光源氏が須磨に流されていった時に、それを末摘花がどう思っていたか、ということが問題の一節であります。光源氏が都に帰ってきたあとで、末摘花はまったく見捨てられているわけでありますが、光源氏の零落にかつて胸を痛めていたことが分かるのであります。『源氏物語』の原文では次のように語られております。     年ごろ、あらぬさまなる御さまを悲しういみじきことを思ひながらも、 萌え出づる春 に     逢ひたまはなむと念じわたりつれど、……(小学館・新編日本古典文学全集21・334ページ)     (訳)これまで幾年か君のうって変わったご運勢を悲しく情けないことと思いながらも、     そのうちに 草木の萌え立つ春 にめぐりあっていただきたいと祈り続けてきたのだけれど、     …… (同) この箇所の頭注で、小学館の『源氏物語』は志貴皇子の『万葉集』の歌を引用しているわけでありますが、せっかくの引用が現在学校教育などで出て来る「石ばしる」という初句になっておりまして、がっかりすることおびただしいのであります。ここはやっぱり、紫式部の同時代人である藤原公任が撰んだという『和漢朗詠集』から引用しないと意味がないわけで、昨日紹介したようにその場合は初句が「いはそそく」だったのであります。『万葉集』の巻第十二・3025番の歌に「石走 垂水之水能 早敷八師 君尓恋良久 吾情柄」という例などもありますから、『万葉集』の研究上、「石激」を「石走」と同じ表現とみなして「いはばしる」に統一してみたのかも知れません。 歌論書を覗いてみましたら、平安時代後半の『俊頼髄脳』や『古来風躰抄』なんかでは、やはり志貴皇子の初句については「いはそそく」でありまして、『古来風体抄』は3025番の歌も掲示していますが、そちらは「いはばしる」とあって平安時代には現代のように全部「いはばしる」というふうには見ていなかったようであります。見ていて思ったのでありますが、「いはそそく」も「いはばしる」も何となく熟さない言葉でありまして、ひょっとして「石激」とか「石走」というのはこれで熟語でありまして、「ほとばしる」だったのかも知れないと感じるんでありますけれども、証明できるわけではありませんし、下手な考え休むに似たりでございましょう。でも...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(76) 早蕨の萌え出る春(4) update ver.

現代語訳で『源氏物語』を読みまして、思い付いたことをつらつら書いているわけであります。  『源氏物語』の「蓬生」の巻でありますが、この巻の主人公は末摘花であります。穏やかに言うと常陸の宮と呼ばれた親王の娘で、天皇の血を引く女王でありますが、残念ながら利発ではなく、ちょっと不器量なのであります。過激に言いますと、超ひどいブスでありまして、光源氏はみじんも愛情を持っていないのであります。本文には書いてありませんが、物の怪になって紫の上などに祟りをなさないようにと、光源氏のほうは気に掛けてやむなく後見しているはずであります。しかし、光源氏は須磨へ向かったときから末摘花の存在を忘れまして、復帰してからもほんの少しも思い出さないのであります。 玉鬘系後記説に従えば、思い出さないも何も、紫の上系執筆の折には、末摘花などと言うキャラクターは存在しなかったと言うことになるのであります。なるほどと思うんですが、私は、玉鬘後記説は危ういのではないかと思うのでありまして、いつから思ったのかというと、今回「花散里」の巻を読んでからでありまして、ひょっとすると原作者紫式部は、第10帖くらいまでの第1シーズンを発表しながら、第2シーズンの構想を変更し、花散里というキャラクターを急遽登場させたように感じてしまうのであります。それは、末摘花では都と須磨の手紙のやりとりが成立しにくいので、平凡な女性を造形する必然性に迫られたのでありましょう。ということは、最初から玉鬘系は存在していた証拠になるかも知れないのであります。もちろん、詭弁でありまして、証明が出来るかどうかは不明であります。しかし、証明できたらすごいかも知れません。 念のため申し添えますが、「第1シーズン」とか「第2シーズン」という言い方は、このブログに限ってのかってな物言いですから、何かきまじめな議論であるとか学校の宿題であるとか、そういうところに引用しない方が身のためであります。つまり、なんの根拠もない、気ままな読書の感想から来た物言いと言うことなのでありますから。 ところで、「蓬生」の巻の末摘花の独白の中に、志貴皇子の「早蕨の萌え出づる春」という和歌が出て来るところがありまいて、少し気になったのであります。この歌は非常に印象的な歌でありまして、『万葉集』の名歌撰のようなものを選びましたら、必ずその中に入ってくる歌ではないでしょ...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(75) 早蕨の萌え出る春(3) update ver.

さて、『源氏物語』第15帖「蓬生」の巻にでてくる「木霊」(こだま)とはなんぞやと言うことでありました。 実は、『徒然草』の第235段というのは、どうもこの「蓬生」の巻に触発されて書かれたもののようでありまして、安良岡康作さんの『徒然草全注釈』によると、『寿命院抄』という『徒然草』の注釈書に指摘があるというのであります。「木霊」そのものがどんなものなのかについては、ちょっと調べたくらいでは分からないのでありまして、調べて分かるくらいなら、いまでも「木霊」という言葉は使われていたことでありましょう。魑魅魍魎の類のようでありますが、一つ物を知ると、二つ三つ分からないことが増えるのであります。      もとより荒れたりし宮の内、いとど狐の住みかになりて、疎ましうけ遠き木立に、      梟の声を朝夕に耳馴らしつつ、人げにこそさやうのものもせかれて影隠しけれ、      木霊など、けしからぬ物ども所を得てやうやう形をあらはし、ものわびしきこと      のみ数知らぬに、……(小学館・新編日本古典文学全集「蓬生」から引用) 要するに末摘花の住むお邸の中に、得体の知れない物が跳梁跋扈すると言うことでありまして、それをあまり深入りもしないでさらりと紹介しているのでありますから、平安時代の読者ならなんら不自然にも思わないで読み進めるところだったのでありましょう。      主ある家には、すずろなる人、心のままに入り来ることなし。主なき所には、      道行き人みだりに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気にせかれねば、所得顔      に入り棲み、木霊などいふけしからぬかたちも、あらはるるものなり。……                 (小学館・新編日本古典文学全集『徒然草』第235段から引用) 非常によく似ていると言いますか、そっくりでありまして、兼好法師が『源氏物語』に馴染んでいたことがよくわかります。「木霊」(こだま)に関する話がリフレインしているわけで、要するに谺(こだま)しておりまして、面白いことであります。ちなみに『日本国語大辞典』(第二版)を見ますと、「木霊」と「谺」は、同じ「こだま」の項目の中にありまして、「語誌」という解説の所に、「木霊」は「人間にたたりをなす妖怪変化の類」であるという指摘があり、「谺」についても「山に住む妖怪が返事するもの」と古代の人が考えていたと書...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(74) 早蕨の萌え出る春(2) update ver.

さて、『源氏物語』を現代語訳で読んでみたら、第15帖「蓬生」の巻は非常に面白いと思いました。 玉鬘系後記説からすると、この巻というのはずっと後から書いたということになりまして、それはそれで非常に知的刺激に満ちた学説であることはすぐに分かるわけです。末摘花の存在が、あの「須磨」「明石」両巻にまったく触れられていないというのは、これはどう考えても非常に不自然でありまして、玉鬘系後記説を知っていると、ほうらやっぱりというような感じも抱くのであります。ただ、そこで頑固になってみまして、現在の配列で最初から発表されたと仮定してみると、この原作者は随分いろんな小説の書き方を会得しておりまして、まるで玉鬘系を書くために紫の上系をためしに書いてみたというような、懐の深さがあるようであります。書き手が二人いるような、妖しい感じがいたします。 今手元に『カラー図説日本大歳時記』(講談社)という歳時記がありまして、そこに「七箇の池」という項目があるのであります。秋の行事の中にありまして、実は「七夕」関連で出て来るものなのです。関森勝夫さんという方の解説を見ますと、「七夕に、七つの盥に水を張り、それぞれ鏡を浸し、星を写すことをいう」とあります。七という数字のこだわりは、7月7日という数字に引っかけたのでありますが、普通の家に盥(たらい)が七つもあるというのも今では考えにくいので、そういう行事の伝統に特ににこだわる場合のことかと思います。 実は、ネットで調べてみますと、冷泉家の行事などに七夕の日に盥を用意してそこに梶の葉を浮かべ、星空を写すというようなことも出て来ます。盥は、この場合は、王朝からの伝統で「角盥」(つのだらい)のことだと出て来るんですけれども、なんでも盥を揺すって、彦星・織姫の星を重ねてあげるなんてことまでありまして、ともかく、じっさいに盥に星を写したら、目の前の水面が川の水面みたいになりますから楽しそうでありますね。そう思って、一つ前の記事で紹介した「蓬生」の表現を見ると、何のことかよく分かるのであります。さては、この「蓬生」の巻というのは、7月7日に披露したのではないかと思われるんですが、いかがなものでしょう。これは、光源氏に後見を受けていた日を、末摘花が回想しているときの気分を表現したのであります。盥に空を写したら、こういう気分が味わえるのかどうか、旧暦の7月7日に実践し...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(73) 早蕨の萌え出る春(1) update ver.

二ヶ月近く『源氏物語』を現代語で読んでおりますが、第15帖「蓬生」、第16帖「関屋」、両巻読了です。 講談社から出た全10巻の『源氏物語』を読み進めておりますが、訳したのは瀬戸内寂聴さんです。このシリーズは、造本が非常に優れていて、活字も大きく、しかも紙質とか印刷の具合が非常に適切なので、読むのが非常に楽なのであります。一帖当たりはだいたい70ページくらいに収まっておりまして、黙読すれば30分くらいのことでありまして、別に精読するわけではなく、見開きのページを眺めるように速読しているのであります。あとでブログの記事を書く際には、付箋紙を持って気になるところに貼り付けながら読み返しておりますが、それでも小説を読む楽しみが味わえるのであります。 今回の二帖はどちらも短編でありまして、「蓬生」は30ページ、「関屋」は8ページでありますから、併せても他の巻の分量に届かないのであります。読むと、あっという間の短い読書ということなのです。 「蓬生」の巻は、主人公が末摘花でありまして、やはり末摘花が出て来ると話が精彩を帯びまして、非常に面白く感じるのであります。光源氏にひょんな事から世話を受けた末摘花でありますが、光源氏が須磨へ退去して以降は忘れ去られまして、そのままになってしまったと言うところから話が始まります。不遇の女性がどのようにおとしめられて行くのかということが、丁寧に丁寧に書かれておりまして、もし末摘花を演技する上手な女優さんが出て来ましたら、演出次第では、ひょっとすると涙をそそられてしまうかも知れないのであります。 そして、結論だけをいえば、例の花散里という不自然な登場を遂げた妻というのは、やはり末摘花でありまして、「須磨」「明石」の巻の雰囲気を壊さないために、わざと無個性な妻である花散里にすり替えたようであります。このことは、『源氏物語』の成立論などを考える際には非常に問題になるはずなんですが、そういうことをとんと聞いたことがなかったように思います。すでに誰かが立論していたり指摘しているなら大いに結構ですが、もしそうでないならこの指摘は大変な手柄かも知れません。 誰も言わないでしょうから、改めて言ってみますが、末摘花と花散里は同一人物をむりやり二人にしたものでありまして、このことは当たっていれば大手柄ということです。おそらく、花散里は末摘花のクローンであり、だから前...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(72) 浦より遠方に漕ぐ舟の(5) update ver.

いろんなものが発見されていて、発見というと何かすごいことのようですけれども、要するに、元から存在するものの所在を、誰かえらそうな人が「ここにある」と言ったと言うことであります。あくまで権威のある人が宣言するからいいわけで、その辺に転がっていたり、さほどえらくない人が持っていてもしょうがないんであります。発見した人が誰なのかによってニュースになったり、ならなかったりいたします。何の話かというと、森鴎外の論文発見のことであり、小林一茶の自筆稿本のことなんですが、よろしいでしょうか? 2012年の7月ころのブログ記事ですので、10年以上前の話題を記しています。 もちろん、素粒子の一つ「ヒッグス粒子」も発見されたんでありますが、持っていた人は今までよく隠していたものであります。……えっ、隠し持っているようなものじゃないの? 私どもの子供の頃には、物質はどこまでも小さくすると原子になりますよと教わったんですが、それより小さいものがあるんだという話でありまして、なんだそれならそうと最初から教えればいいのにと思ったんですが、40年くらい前に存在が予測されたと言うことでありますから、あの頃の最先端の研究者の頭の中に思い描いたものだったんですね。「作っちゃったんじゃないの?」って、疑いたくなりますが、どうやらもとからあったものだけど観測しにくいものだったということのようです。 だったら私も予測しますけれども、紫式部自筆『源氏物語』全54帖全巻揃いなどというのも、3セットくらい見つかってもよさそうであります。中宮彰子に披露した本と、草稿本と、推敲の跡も生々しいのと、それが全部見つかる日だってあるでしょう。前途有望な研究者を訪問して風呂敷に包んで売りに来る、という話もありまして、その場合は風呂敷包みをちょっとだけほどいて見せてくれるらしいのであります。 現代語訳で『源氏物語』を読んでおりますが、第14帖「澪標」の巻の山場は住吉参詣であります。 紫の上の嫉妬心をあおりにあおっている光源氏でありますが、五月雨の頃には花散里を訪問しております。何となくこの人の物語上の出現の仕方が唐突で、現代のテレビドラマで言えば、最初に登場した人物が事故で怪我をしたとか、仕事がダブルブッキングだったとか、そんなことで代わりに登場するキャラクターのような匂いであります。つまり、末摘花を最初は出す予定だったのに、...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(71) 浦より遠方に漕ぐ舟の(4) update ver.

 み熊野の 浦より遠方に 漕ぐ船の 我をばよそに 隔てつるかな       (『新古今集』巻第11・恋歌1・1048)※「遠方」は「をち」。 『源氏物語』が本当はいつ出来たのか、あんまりはっきりした証拠が無いのでしょうけれども、藤原彰子が一条天皇に嫁したのが長保元(999)年11月1日でありまして、寛弘5年(1008)9月11日に敦成親王を出産しますけれども、この間のどこかで成立して、出産後に親王を見に一条天皇がおいでの時に全巻清書本をお土産に持たせたような話でありました。しかし、これだけ有名な物語なのに、同時代の人に『源氏物語』の噂があんまり無くて、『更級日記』の作者がおばさんからプレゼントされた「五十余巻」くらいが手がかりでありまして、だとしたら衆人環視の晴の場で発表して、誰もが知っていたと言うことではないかと思います。ちょっとずつ世間に漏れたのなら、相当話題であったでしょうけれど、日を決めて天皇・中宮の御前で発表するくらいの事でないと、同時代の証言がない理由は付かないことでしょう。 さて、もし晴れの場で披露されていたんだとしますと、主立った人は耳にしたわけでありまして、昔のテレビと同じで1回こっきりの視聴ということであります。週刊漫画にコミック版が後で出たり、テレビ放送されたものがDVDになってレンタルされているなどという現代からは想像付きませんが、テレビ放送が開始されてまもなくの昔のテレビは、本放送で見るだけが基本でありまして、もう一回見ることが出来るとは誰も思っていなかったかも知れません。 『源氏物語』第14帖「澪標」の巻で、光源氏は明石の赤ちゃんに乳母を派遣しまして、我が子と認知しております。明石の上からは返事の手紙が来まして、それを光源氏は堂々と読みまして、これ見よがしに紫の上の前でため息をついたりするのであります。嫉妬の気持ちが抑えられない紫の上が口ずさんだのが上に紹介した「み熊野の」という歌でありまして、原文では「浦より遠方に漕ぐ船の」となっていて引歌の体裁であります。それで当時の人が分かったかというと、そうそう分かるわけありませんから、ひょっとすると歌全体を朗読者のバックで若い女房たちなどがフルコーラス歌ったかも知れません。勅撰集としての入集は『新古今集』になってからですが、もとは伊勢という有名な女流歌人の歌...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(70) 浦より遠方に漕ぐ舟の(3) update ver.

瀬戸内寂聴さんの現代語訳『源氏物語』(講談社)で「澪標」の巻に到達いたしました。第14帖に当たります。 第3巻の131ページから176ページまでありまして、131ページは「澪標」と巻の名前が真ん中にあるだけですので、正味は45ページ、一巻の分量としては少ない方だと思うんですが、あまりすらすらと読み進めることが出来ません。原文を400字詰め原稿用紙に直しても、たぶん40枚を超えるくらいのものだと思いますから、短いのでありまして、短い割には長く感じるような所がありまして、散漫なのであります。ただし、読んでいると面白く感じるところも少なくないのであります。明石で女児が生まれまして、占いに寄れば后になるはずの人ですから、光源氏は乳母を都から送り込む算段をいたします。事情は書き込まれておりませんが、参議の娘で両親に先立たれた上に、あまり幸福な状態でなく出産したばかりという女性が登場しまして、この人を光源氏が言い含めて明石に派遣するんであります。このときにちょっとこの女性を慰めてあげるようでありまして、そうして置いてはじめて信頼関係が構築されるのかということで、大人なら理解するでしょうけれども、学校で教えてはいけない事であります。 普通の日本語で言うと、その女性はお情けを頂戴したんであります。 それから、赤ちゃんが生まれちゃいましたので、紫の上に報告するんでありますが、ここで初めて紫の上の内面が出て来るのではないでしょうか。世間では『源氏物語』のヒロインは、この人「紫の上」と言うことになっておりますから、そう言うつもりで読んでしまうと、まあ一時の夫の過ちだから心の寛いヒロインは落ち着いているなあ、という印象のはずなんですが、実はそうではありません。まったく違います。「若紫」の巻の冒頭をちゃんと読んだら、この小説の本命のヒロインは明石の上に決まってまして、紫の上は当て馬なのであります。ここのところは、「当て馬」の意味も含めて『源氏物語』ファンの反発を食うことは間違いありませんから、あくまでも注意しておきたいと思いますが、ここまで普通に小説として読んできたら紫の上はけっして本命ではないことくらい分かるはずであります。 えらそうに書いておりますが、私だってついさっきまで紫の上がヒロインだよなと思っていたんですが、本当のヒロインは明石の上のはずなんです。はっきり言いますが、『源氏物語』...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(69) 浦より遠方に漕ぐ舟の(2) update ver.

私の実家の一角に井戸がありまして、それには厚いコンクリートの蓋がしてあるのであります。 もとは、搾った牛乳を集乳車が来るまで冷やすための井戸でありまして、それを飲み水にしたりしたことはないのであります。蓋が開いた状態というのは記憶にありまして、蓋をずらして中を見ることも出来るのであります。コンクリートは厚さが約10センチありまして、円形というよりは六角形だったはずで、井戸の直径は約90センチ、おそらく3尺ではなかったでしょうか。深さは、子供心には10メートルくらいあったように思うのですが、現在から考えると、実は5メートルくらいの深さで、水深はおそらく2メートルはあったはずなのです。実家には飲料水用の井戸も別にありましたし、牛の飼料を入れておくサイロもありまして、その手の穴というか、得体の知れないものは幾つもありましたので、井戸だけが恐いなんて事はないのでありますが、しかし誰かが落ちても変ではないなあという気もするのです。 井戸の蓋をずらしますと、鏡のような井戸の底の水面が見えまして、覗いている自分の顔が写るのです。 顔の周りに開いた蓋の分だけ、空といいますか、顔を中心にして背景が見えるわけで、それ以外は漆黒の闇に近いのであります。闇を凝視すると、そこに少しだけ水面の奥が見えるんでありますが、あるようなないような不思議な光景であります。小さいときに、まだその重い蓋がないときの記憶が残っておりまして、おそらく季節は真夏でありまして、涼しい気候の高原でありますが、梅雨が明けた七月下旬は真上から陽光が降り注ぎ、一年のうちでその時期だけ非常に明るい光景が出現するのであります。物陰が消えまして、明るく感じたんでありましょう。 さて、とりとめもない話を書いてしまいましたが、『源氏物語』の現代語訳の話を続けたいと思うのですが、第14帖の「澪標」には不思議なことがいくつか出て来るのであります。 二条院というのは桐壺更衣の実家だったはずで、光源氏の私邸であります。ここに紫の上を置きまして養育したんですけれども、桐壺更衣の実家にはほかにこの家を継承する人がいなかったことは、「桐壺」の巻に光源氏の祖母が光源氏と暮らした時期があるので何となく想像が付きます。その東隣にある邸宅が、この「澪標」の巻で話題に出て来まして、それが桐壺院すなわち桐壺帝の遺産だという話が出て来るのであります。桐壺帝の私...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(68) 浦より遠方に漕ぐ舟の(1) update ver.

現代語で『源氏物語』を読んでおりますが、第14帖「澪標」の巻を読了しました。4分の1まで来ました。 所々面白いのでありますが、一巻として完結したところがありませんから、イメージが結びにくいような気がいたします。何となく須磨に留謫(るたく)したあとの後始末編でありまして、政界に復帰して官位が元通り、むしろ出世が期待される状況なんですが、私生活では明石入道の姫君との浮気がありましたので、てんやわんやなのであります。正妻格になっている紫の上に事情を話さねばならず、一方浮気相手の姫君の方は出産しますけれども、赤ちゃんの顔を見に行くこともままならないありさまで、表向きとは違って、こちらは火の車状態でありましょう。こんな駄目男を世間があがめているのがどうもおかしいと思うような、実は辛辣な内容なのであります。 『源氏物語』を世間で語る時も同じでありまして、優雅な王朝絵巻ですよというような嘘八百で固めてしまいがちです。光源氏も貴公子の典型みたいに言うんですが、現在なら表舞台には立てない人格ですよね。 どうやら、この第14帖のあたりで長編小説としての方向が定まったようでありまして、一巻で完結させるという意欲が低下したようでありまして、だとすれば第10帖あたりまでが第1シーズンで、そこは相当無理をして面白くしたのでありましょう。第11帖あたりから第2シーズンなんですが、ここは無理をしないで刺激を小さくするように手法を改めているようであります。現代でもそうですが、人気が沸騰しますと、それまでのお話を整理して原作者の手法を検討する議論などが巻き起こりますから、次にどうなるか、この人物の造形はこれでいいのか、あんな事書いて許さない、よくも殺したわね、などといろんな雑音も生じるものであります。 ここで考えるべきなのは、本命中の本命である明石の姫君「明石の上」と、実は本来脇役だったかも知れない兵部卿の宮の姫君「紫の上」の位置関係が大丈夫なのかと言うこと。それから怪しいのは、どうも都合によって同一人物を二人にしてしまったと疑わしい、花散里と末摘花の関係であります。朧月夜に対する朱雀帝の執着というのもありまして、朧月夜は光源氏が好きですから、ここも三角関係なのであります。原作者紫式部の構想力が、どうやら三角関係を軸にして人物を対置するようだと見えて来ました。そう考えてみると、この巻は怨念だらけであり...

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(67) 清き渚に貝や拾はむ(4) update ver.

さて、瀬戸内寂聴さんの訳で読み進めている『源氏物語』ですが、「明石」の巻のツボを紹介します。 光源氏が須磨に蟄居して嵐に見舞われてさんざんだったわけですが、都の方に大きな変化が表れていて、その一番肝心なところは、弘徽殿女御の後ろ盾であった父の大臣が亡くなるという事態が生じます。このことは、朱雀帝の退位と冷泉帝の即位という事につながって行くわけですが、とりあえず光源氏の勅勘を解こうという話に発展しまして、光源氏を都に戻らせて復位させるということになります。「勅勘」という言葉は、「明石」の巻の冒頭に出て来るんですが、「須磨」「明石」の両巻になって、だんだん須磨に流れてきた理由が分かってくるようなところがありまして、このあたりは、ひょっとすると書き漏らしたとか、巻の内容を差し替えたなどと言うことが、もしかしたらあるかも知れません。「花散里」の巻の極端な短さというものは、非常に怪しいわけで、あの巻の内容が、女性の訪問の話だけに終始しているのは非常に異様だと思います。その辺りに、勅勘の場面などが本当はあったのじゃないかと思うわけです。削ったんでしょうね。削っては見たものの、話は不整合なのであります。 さて、光源氏が都に帰りますと、一番困るのは実は明石の入道でありまして、娘は悩んでしまいますし、奥さんには嫌みをさんざん言われるんであります。みんなから責められて、入道はボケ掛けてしまうのでありまして、お祈りに欠かせない数珠をどこかに忘れたりしまして、弟子たちにも馬鹿にされる始末なのであります。この場面で、庭石か何かに腰をぶつけて明石の入道が寝込むというシーンがあるんであります。したたかに打ち付けて痛いのでありますけれども、それによって光源氏が帰京してしまうと言うことが紛れるとありまして、分かるような気がいたします。本当に痛いのは胸でありまして、腰の痛みで胸の痛みを幾分か忘れることができるというのです。 やはり思うのですけれども、この明石の入道の描き方に精彩がありまして、この人が実は主人公なのであります。きっと。 

瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(66) 清き渚に貝や拾はむ(3) update ver.

「催馬楽」とは何なのかということを考えても分かりませんから、小西甚一さんの解説を引用します。 催馬楽とは、雅楽ふうに編曲された民謡のことである。もともと風俗歌だった歌謡を、外来音楽である雅楽の曲調に当てはめたもので、律と呂に分かれるのは、そのためにほかならない。まあ黒田節の類と思って下さればよろしい。黒田節は、雅楽「越天楽」のメロディによって編曲したものだから、二十巻本『倭名類聚抄』に、催馬楽と雅楽との対応が詳しく見える。少し抄出すると、      桜人……地久楽の破  美濃山……地久楽の急  高山……放鷹楽  酒を飲べて……胡徳楽      田中……胡徳楽の破  高砂……長生楽の破  伊勢の海……拾翠楽  庭に生ふる……喜春楽 などのごとくで、どこまで雅楽の曲と一致するかは確かではないけれど、だいたいはそれぞれの曲に基づいた編曲だったと認めてよい。(岩波古典大系『古代歌謡集』・催馬楽の解説から) これで分かったのは、黒田節のあのメロディーが実は雅楽の旋律だったと言うことであります。 そうすると、今で言うとこれはクラッシックの有名な一節に歌詞を当てはめて歌うようなものでありまして、たまに大ヒットを生み出すことがあったりします。要するに雅楽に馴染んでしまった貴族なんかが、酒の席なんかで俗謡を当てはめまして受けに受けたというようなことが繰り返されて、やがて曲調と歌詞がぴったりなものが生き残り、多少は固定化されて伝統となったんでありましょう。歌詞を見ると平易なものばかりですから、これが廃れたと言うことは、室町時代に朝廷が雲散霧消しかけて、雅楽を聞く機会がなくなり、パロディとして成立しなくなったと考えればいいのでありましょう。あるいは、もっと人気のある歌謡が流行れば、古くさいものは役割を終えたのかも知れないと言うことであります。ともかく、小西甚一さんの要領のいい説明によって、催馬楽というものが不勉強な私にも少し分かりまして、これをもとに『源氏物語』の場面を読み解けばいいと言うことが分かりました。 平原綾香さんのデビューシングル『Jupiter』(ジュピター)というのは、イギリスの作曲家・ホルスト(G. Holst)の組曲「惑星」の第4曲「木星 快楽をもたらす者」 (Jupiter,the bringer of Jollity) を原曲としたものだったというのは有名なことであ...