瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(80) 羨ましきは、関守(2) update ver.
瀬戸内寂聴さんの『源氏物語』(講談社)を読み進めて、第16帖「関屋」を読了です。
どうして巻の名前が「関屋」なのかという問題があるように感じます。逢坂の関の関守のいるのが関屋なんでありますが、一般にはこの関所は古代のもので、平安時代の古典を読む限り関所に留め置かれたとか、関所で検閲を受けたというような話は出て来ないように記憶しております。念のため、片桐洋一先生の『歌枕歌ことば辞典増訂版』(笠間書院)をのぞいてみますと、山城国と近江国の境界にあるものですが、関所は近江の国に属すようです。大化二年(646)に設置され、延暦14年(795)の平安遷都の時に一時設置されたそうですが、『文徳実録』によると天安元年(857)に再設置されたそうでありまして、どうも影の薄い関所ではありますが、実はちゃんと存在していたと言うことのようです。
交番のようなもので、存在することが治安維持や交通整理に役立つと考えれば、あって当然、歌に詠み込まれたり小説に背景として出て来てもちっとも変ではありません。勉強になりました。
巻の中で、光源氏が空蝉に手紙を寄越しまして、そこに空蝉の夫である常陸の介のことを「関守」と表現して、それが羨ましくて妬ましいなんてことをぬけぬけと言うのであります。こういう比喩をあれこれ考え巡らしますと、要するに光源氏は逢坂の関の通行人でありまして、自由に空蝉に逢いたいのに阻まれているということなのであります。そう考えると、「関屋」というのは、もちろん現実には東海道の逢坂の関に設置された関所の番屋でありますけれども、恋愛の道というふうに考えたときには、結婚によって築かれた夫婦関係と言いますか、家庭と言いますか、夫の存在を言うのでありましょう。「関屋」の巻で常陸の介は亡くなりますが、まもなく空蝉は出家してしまうのであります。「関屋」の巻は、自由な逢瀬を阻む関守の欠員を描くのですけれども、空蝉の出家によって「関屋」の機能が喪失したことも描いたようです。
行くと来と せきとめがたき 涙をや 絶えぬ清水と 人は見るらむ(「関屋」の巻)
「関屋」の巻には、この「行くと来と」の歌とは別に光源氏と空蝉の贈答歌がありますが、それはもはや儀礼的な挨拶でしかないのであります。光源氏はかつての伝言役である小君に手紙を託しますし、小君のほうも姉の空蝉に返事を催促したりするんであります。しかし、光源氏も大人になっていて本気ではなく、今は右衛門の佐になっている小君も、礼儀を失しないように行動しているだけでありまして、この小説は人生の機微を描くになかなか巧みであり ます。人間の心というのは複雑でありますから、たまさか会った旧知の人に親愛の情を示すことによって、かえってお互いの現在の埋めがたい距離が測れたりすると言うことなのです。つまり、すでに時は過ぎ、赤の他人でしかないのであります。須磨に退去するという挫折を味わった光源氏は、そのころ自分の身を案じてくれなかった人たちをすでに内面で切り捨てておりますし、常陸の介の一族も復活した光源氏に今さら恥知らずにすり寄れないことを自覚しているといった塩梅なのであります。いやはや、見事に渋い小説であります。
問題なのは、上に掲げた歌が誰のものかと言うことであります。寂聴さんも、それから新大系とか新編全集というような注釈書も、これは空蝉の歌であるということで一致しておりますが、果たしてそれでいいのかどうかということなのであります。なぜかというと、寂聴さんはこの歌の後に「こうした歌を心ひそかに詠んだところで……」としているんですが、これは上の「行くと来と」の歌が誰が読んだとか何かに書き付けたという文言がないので、寂聴さんがわざわざ補ってくれたものであります。そうしないと宙ぶらりんの歌なのであります。つまり、宙ぶらりんであると分かった翻訳者の寂聴さんは、きっちりとけじめを付けまして、空蝉の歌であるように現代語で示してくれたのであります。だから、速読しているときは、作者が空蝉であることは疑いませんでしたが、その分、この歌が贈答されていない、独白と言いますか、孤詠であるということの重さが伝わりまして、この歌だけがこの巻で本心を吐露したものとなっているのであります。
さて、気になったのは、この歌は空蝉の歌ではあるまいという、ある意味間抜けな憶測に取り付かれたと言うことが一つあります。さらに、この歌の解釈はどうも注釈書が誤り、寂聴さんも引きずられていると言うことであります。『源氏物語』の研究者というのは、和歌の解釈が弱いのであります。いえ、古典の方はみんな。あはは。失礼だと怒る方もいるでしょうから、一言申し添えると、現代の学校教育とか研究者の育成システムを考えたら、『源氏物語』が読めるようになるとか、和歌が解釈できるようになるのは難しくて、そのことはちゃんとやっている人ほど痛感していることでしょう。一度疑う癖がつくと、注釈書は突っ込みどころ満載です。
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