足利将軍撰『新百人一首』を読む(6) 藤原菅根
6 秋風に声を帆にあげてくる舟は天の戸わたる雁にぞありける 藤原菅根朝臣
【標註】
声を帆にあげては声をたつるをいふ
【出典】
〇古今集・巻四・秋上212
寛平御時きさいの宮の歌合のうた 藤原菅根朝臣
秋風にこゑをほにあげてくる舟はあまのとわたるかりにぞありける
〇寛平御時后宮歌合 (秋歌二十番)
左 藤原菅根朝臣
110 あきかぜにこゑをほにあげてゆくふねはあまのとわたるかりにざりける
※伝宗尊親王筆では三句目「ゆく」に「くる」の異文を傍書。五句目「ざりける」。
【語釈】
〇こゑ 「声」と「音」は古語と現代語で用法が入れ替わっていることがある。『岩波古語辞典』は、特に「こゑ」の解説で、漢字「声」の用法の影響があると見ている。「鳴き声」は「鳴く音」と表現したりする。「浪の音」が現代では普通だが、「浪の声」と表現したりする。ここは、舟を漕ぐ櫓の音が第一義的に表現されていると見るべきだろう。〇ほにあげて 「ほ」は掛詞とされている。「舟」「わたる」の縁語である「帆」が掛けてある。これに対して、「ほにあげて」というイディオムの「ほ」は、「穂」または「秀」と漢字を当てるもので、「穂」は秋になると実るイネ科の植物の実が集まった部分、「秀」は他よりも目立ったものを指す抽象的な言葉。「声を秀に挙げる」で、「声を高らかに張り上げて」の意か。〇ふね 雁は列をなして空を渡るので、これを雁行と呼ぶ。その集団を舟に見立てた。〇あまのと 天の門。ここは空の通り道。天の門を指すこともある。「門(と)」は水の出入り口、瀬戸。「由良の門を渡る船人かぢをたえゆくへも知らぬ恋の道かな」(曽祢好忠・百人一首46番)。〇かり 雁はカモ科の水鳥。「がん」とも言う。冬を日本で過ごす渡り鳥で、春には北方へ去り、秋に戻って来る。秋になって初めて戻って来る雁を「はつかり」と呼び、その声を「はつかりがね」と称する。『白氏文集』「河亭晴望』の四句目に「秋雁櫓声来」とあるので、これにヒントを得た表現と考えられる。〇にぞありける 「AはBなりけり」という、断定の助動詞に詠嘆の助動詞を使った表現に、係助詞が絡んだもの。『万葉集』にも、「なりけり」「なりける」「にぞありける」「にこそありけれ」という表現は数例ずつあるが、『古今集』では70例ちかくあるので、爆増したと言えるだろう。これもその中の一例ということになる。
【作者】
藤原菅根(ふじわらのすがね) 良尚の子。斉衡二年(855)生。元慶八年(884)春、文章生。大内記・式部少輔・文章博士・蔵人頭を経て、延喜元年(901)正月、大宰少弐に左遷、同三年、蔵人頭に復官、同四年正月式部大輔、同六年十一月、従四位上、同八年正月、参議、七月七日没。従三位追贈。寛平御時后宮歌合作者。(ちくま学芸文庫『古今和歌集』2010年刊による)『江談抄』によると、宇多法皇が菅原道真を配流しようとする醍醐天皇のもとに参内するのを、藤原菅根が妨げた。それは、宮中での庚辰の夜に、道真から頬を打たれた恥辱を晴らすためだったという。雷に打たれて亡くなったが、それは『十訓抄』によると、菅根が藤原時平の一味で、道真の祟りであったらしい。なお、亡くなった日は10月7日とするのが正しい。菅根の次男の元方は『大鏡』に出てくる有名な怨霊で、藤原師輔や冷泉天皇・三条天皇に祟ったとされている。『今昔物語集』には、元方の子の致忠が、殺人の罪で佐渡の国に流刑に処せらた話が出てくる。致忠の子で有名なのは保昌で、和泉式部の夫で丹後守や摂津の守を務めた人物であるが、武人としての逸話がある。致忠の子でもう一人、悪名が高いのが保輔という人物で、強盗の罪で指名手配を受け、逮捕の際に切腹で自殺を図ったとか。『宇治拾遺物語』には、物を買うと言って商人を自邸に招き寄せては蔵に掘った穴に放り込んで殺害していたという話が出てくる。代々、気性が荒いのか、それともサイコパスなのか、この系統を考えると、「血は争えない」というような言葉を想起させる。
【訳】
秋風に吹かれて帆を揚げて櫓の音を響かせ海の瀬戸を渡る舟もあるだろうが、天空に浮かぶ舟と見えるものは、秋風に乗せて鳴く音を高らかに張り上げてくる、天の通り道を行き来する雁であることよ。
【参考】
〇『新撰万葉集』巻上(秋歌三十六首)
※元禄九年版本から。漢詩の返り点送り仮名は省略。漢詩の訓は原文にはない。
117 秋風丹 声緒帆丹挙手 来舩者 天之外亘 雁丹曽阿里芸留
アキカゼニ コヱヲホニアゲテ クルフネハ アマノトワタル カリニゾアリケル
唳唳秋雁乱碧空 濤音櫓響響相同
羇人挙楫櫂歌處 海上悠悠四遠通
らいらいたるあきのかりへきくうにみだる たうおんろきやうひびきあひおなじ
きじんかぢをあげてさをさしうたふところ かいじやういういうとししえんつうず
〇『白氏文集』河亭晴望九月九日 ※白居易が水郷として有名な蘇州の役人だった時の作か
風転雲頭斂 煙銷水面開 晴虹橋影出 秋雁櫓声来
郡静官初罷 郷遥信未廻 明朝是重九 誰勧菊花杯
かぜてんじてうんとうをさまり けぶりきえてすいめんひらく
せいこうけうえいいで しうがんろせいきたる
ぐんしづかにしてくわんはじめてやめ きやうはるかにしてしんいまだめぐらず
あくるあしたはこれちようきう たれかきくくわのはいをすすめん
【蛇足】
「雁が音」を主題にして、「帆」「舟」「門」「渡る」というような縁語を使って詠んでいるわけですが、やはりその面白さは、「帆を揚げて」と「声を秀に挙げて」が掛かっているところです。掛詞というのは駄洒落でありまして、平安時代にはこれを「秀句」と言ったりしましたので、本来は漢語と和語の同音を利用した遊びだったと思います。「菊」と「聞く」、「文」と「踏み」というのは、現代では日本語同士の掛詞のように感じますが、実は「菊」の「キク」も、「文」の「フミ」も、漢字音由来の名詞ですから、和語の「聞く」や「踏み」のような動詞由来の表現とは、本来まったく別物というわけです。和歌を耳にしたときには混乱するんですが、何度も唱えているうちに、修辞部分と主題部分が感得されて、やがて掛詞の部分が強調されているところとして感じられてくる、ということではないでしょうか。
「音にのみきくの白露夜はおきて昼はおもひにあへず消ぬべし」(古今集・恋一470・素性法師)などは、初めは「菊の白露夜は置きて昼は日に敢へず消ぬべし」という印象が勝りますが、やがて「音にのみ聞く夜は起きて昼は思ひに敢へず消ぬべし」という主題が見えて、まだ逢ったことのない人だと分かるわけです。
というようなことを考えているうちに、「帆(ほ)」というのはひょっとして漢字音の「ハン」から来たのではないかと、思い当たりました。「字」とか「文(ふみ)」というのは中国音由来の言葉ですが、「筆(ふで)」も「ヒツ」から来ていると聞いたことがあります。そうそう、「本(ほん)」というのも漢字音から来たものでありまして、いつのまにかちゃっかり日本語にしか見えなくなっているのであります。要するに文字の文化は中国由来ということです。だとすれば、風を受けて大型船を動かす「帆(ほ)」というのも、日本語ではない可能性があるでしょう。漢和辞典を引くと分かりますが、「帆」は「布」に「風」でありまして、「凡」というのは「風」の略字らしいのであります。考えてみれば、「出帆」というのは「シュッパン」でありまして、「ハン」のはずが「パン」という音で発音いたします。古代の日本語のハ行が「パピプペポ」という発音だったのは有名でありまして、だったらもはや「帆」というのは「ポ」でも構わないということです。さて、話を元に戻すと、「帆(ほ)」は中国語由来の漢字音、「秀・穂(ほ)」は日本語ということで、この掛詞は非常に意味があるのかもしれません。平凡な私が、一風変わったことを述べてみたわけです。
ちなみに、遣唐使というのは20回ほど計画されて、何回かは実行されませんでした。最後の遣唐使の計画は寛平6年(894)でありまして、大使は菅原道真、副詞は紀長谷雄でありまして、この顔ぶれならば同時代人の藤原菅根も(血の気の多い一族だけに)自ら志願していたかもしれません。ただ、道真は任命されてすぐに派遣に異議を唱えたそうです。結局、唐の滅亡によって遣唐使は見送られましたが、船の建造くらいはしていたかもしれません。
この歌を『新百人一首』に選んだ足利義尚公は、おそらく空行く雁を見て、それを舟に例えた柔軟な発想を面白いと感じたのかもしれません。そして、雁の鳴き声を「ほにあげて」と表現することで、そこに舟の縁語である「帆」を発見したことで、この一首が成立した奇跡を堪能したのだろうと思います。室町時代には勘合船によって遣明使が派遣されておりまして、応仁元年(1467)にも派遣があり、その時は雪舟等楊が随行したそうです。雪舟は北京で壁画を描いて有名になり、さらにあちこち遊歴してから、文明元年(1469)日本に戻ったそうです。義尚は寛正6年(1465)生まれですから、その時は赤ん坊ですけれども、長じては明との交易などには興味もあったろうし、勘合船に乗ることを想像したこともあったろうと思います。
吹く風に布を掲げて渡る船 秀に出づるものは帆にぞありける(粗忽)
ふくかぜに ぬのをかかげて わたるふね ほにいづるものは ほにぞありける
【訳】折から吹く潮風に、白い布をはためかせて海を渡ってゆく船が沖を通るよ、そうと分かるのは帆掛け船だからで、一番目立つのは、やはり何と言っても帆であることよ。「ほにいづる」の「ほ」というだけに。
※遣唐使船は、二本の帆柱を持つ帆船だっと考えられ、復元もされているようです。風のない時のために櫓で漕ぐこともあったと言われています。
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