岩波文庫『百人一首』を読む(99) 後鳥羽院

99 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は  後鳥羽院御製


【訳】人もいとおしい、そして人も恨めしく思われる。世の成行きを思うがゆえに思い悩むこの身には。

【出典】続後撰集・巻十七・雑中・1202

   題しらず 


【解釈の要点】

①「をし」は愛惜する気持ちをいう形容詞で、ここでは「いとおしい」の意。「あぢきなし」は、よくないとわかっていても自身ではどうしようもない状態などをいう形容詞。『源氏物語』須磨の巻で、源氏の須磨への退去を心の内では同情しながら、時の権威を恐れて源氏に近付かない人々のことを、源氏は「人わろく恨めしき人多く、世中はあぢきなきものかなとのみ、よろづにつけて思す」と語る。「世を思ふ」という句を釈教的な意味ではなく、国政に関わりそうな意で用いた歌は、西行の『山家集』巻末百首の「述懐十首」の内、「古りにける心こそなほあはれなれ及ばぬ身にも世を思はする」という一首などが思い合わされる。

②建暦二年(1212)33歳になった後鳥羽院は、十二月の初めに四人の廷臣(藤原定家・同家隆・同秀能と不明の一名)に二十首歌を詠進させ、自らも春五首・秋十首・述懐五首の計二十首を詠み、廷臣たちの作品と合わせて、「五人百首」と称した。

③「人心うらみわびぬる袖のうへをあはれとや思ふ山の端の月」、「いかにせむ三十あまりの初霜をうちはらふほどになりにけるかな」、「人もをし人もうらめし……」などの「述懐五首」の他、「春」でも「なれなれて雲井の花を見し春の木の間もりこし月ぞ忘れぬ」と、帝位に在った幼い日を懐かしみ、「秋」でも「去年よりも秋の寝覚ぞなれにけるつもれる年のしるしにやあらん」、「年ふれば秋こそいたくかなしけれつもれる年のしるしにやあらん」、「年ふれば秋こそいたくかなしけれ露にかはれる色は見えねど」などと、老いの自覚を深めていた。そして年を経て、「人もをし」の歌が宝治二年(1248)真観(藤原光俊)初撰の私撰集『万代和歌集』に入り、次いで建長三年(1251)十月、定家の男為家が後嵯峨院に奏覧した『続後撰和歌集』巻十七・雑歌中の巻軸歌として、「題しらず」の詞書を付して載せられた。

④晋の潘岳と同じく、「三十あまりの初霜」を「いかにせむ」と二毛の嘆きをする院の心は、しばしば「人もをし人もうらめし」と反転を繰り返したのであろう。それを「世を思ふゆゑに物思ふ身」と自己の感情を合理化して院政を執り続けてゆくうちに、その政権は坂道を転げ出していたのだ。

⑤承久三年(1221)の兵乱の後、後堀河天皇の下命によって撰進作業が始まり、同院なき後の文暦二年(1235)三月に実質的成立を見た『新勅撰集』には、家隆の「五人百首」の歌も採られている。『新勅撰集』は成立の半年近く前に、摂関家の道家・教実監臨下で、百首ほどの歌が切り棄てられたと『百練抄』は記している。その中にこの「人もをし」や順徳院の「百敷や」の歌は含まれていたか。勅撰集からの抄出を方針としている『百人一首』では、この二首の出典を『続後撰集』とする。

⑥下河辺長流の『三奥抄』は、一首を私なく万民を憐れむべき王者としての反省の歌と解しつつ、頭書では、聖帝像とは相容れない事柄もあったとする。契沖の『改観抄』は『三奥抄』の主旨に近いが、聖帝像を疑うことはない。賀茂真淵の『宇比麻奈備』は『源氏物語』須磨の巻の記述、「かかるをりは人わろく恨めしき人多く……」の部分を引き、その部分を「用ゐさせ給ひて、一首となさせ給ひし成べし」と言う。香川景樹の『百首異見』はこの歌の詠出を「建暦二年の春にて大御齢三十三と申奉る時也」と、若干誤りつつ指摘した。一・二句での「人も」の反復、四・五句での「思ふ」の反復を、「わざとならぬ調べのいみじき也」と賞しているのはいかにも景樹らしい。

⑦後鳥羽院は隠岐に遷されて六十で生をおえるまで、隠岐で十八年、人生の三分の一近くを過ごした。その間の和歌に関わる産物は、隠岐本『新古今和歌集』の精撰以外にも、驚くほど豊かである。『後鳥羽院御集』所収「詠五百首和歌」は、古代以降院自身の近代までの和歌・歌人や物語から何を学ぼうとしたかを具体的に示しつつ、隠岐でのわびしい生活を写し出した。院の歌と本歌または意識した歌を二組掲げてみる。

  幾夜われ浦わの浪にそほつらん海人の縄たき漁りせねども(院)

  思ひきやひなの別れにおとろへて海人の縄たきいさりせむとは(古今集・小野篁)

  身に近きわが身の秋を歎くまに木の葉さへにぞ色かはりゆく(院)

  身に近く秋や来ぬらん見るままに青葉の山もうつろひにけり(源氏物語・紫上)


【補足】

378ページ4行目から5行目にかけて、訳が提示されていますが、この訳には三句目の「あぢきなく」の訳が漏れています。凡例で触れている『百人一首必携』(學燈社1989年刊)も同じです。念のため同じ著者の「日本の文学 古典編27」『百人一首 秀歌選』(ほるぷ出版1987年)を参照すると、「人も愛しい、また人が恨めしくも思われる。おもしろくないことに、この世のことを思うがゆえに物を思い悩むこの身は」とありますので、「あぢきなし」の訳として、「おもしろくないことに」を補うことができます。


【蛇足】

さて、ここからは、読んだ感想を「蛇足」という形で記して行きたいと思います。訳と出典はそのまま写しておりますが、解釈は勝手に要約して示してみました。岩波文庫『百人一首』の凡例には、1989年學燈社『百人一首必携』に基づきながら書き下ろしたとありますので、その『百人一首必携』と今回の岩波文庫版を比較することで、著者というか校注者の久保田淳氏の現在の考えを明らかにして行きたいと思います。その上で他の注釈書もぼちぼち参照して検証し、さらに私の考えも時には差し挟みたいと思います。

今回は訳に変更がありませんでした。學燈社『百人一首必携』執筆時から特に変更の必要がなかったということです。その特徴を見ると、「をし」を「いとおしい」と愛惜の意で訳しています。「うらめし」については「うらめしく思われる」と訳していますので「心の底で不満である」(岩波古語辞典)という憎悪の感情で訳しているようです。「をし」も「うらめし」も執着が含まれている感情かもしれません。三句目の「あぢきなく」は訳出されていませんが、【補足】で指摘したように、「おもしろくないことに」を補ってよいでしょう。四句目の「世を思ふゆゑに」は、「世の成行を思うがゆえに」と「成行」という補いがあります。帝王として未来を見据えているという解釈のようです。五句目の「物思ふ」は「思い悩む」とありますから、「苦悩する」という訳になっています。

次に、解釈と称する解説の部分は、「をし」「あぢきなし」「世を思ふ」の語義の説明と、内容のよく似た『源氏物語』須磨の巻の一節を紹介する①は今回の書下ろしです。出典である建暦二年の「五首百首」の紹介をする②、「五首百首」の述懐の歌を中心に後鳥羽院の詠みぶりを検証する③は、『必携』から受け継がれていますが、「人もをし」の歌が『続後撰集』に入集する経緯は今回の加筆です。上の句の「人もをし人もうらめし」という矛盾した心理を持った後鳥羽院が、下の句のよに「世を思ふゆゑに物思ふ身」と合理化したことが、政権の破綻の原因ではないかと指摘する④も『必携』と大筋同じですが、『必携』では「近臣を勘当するような形でそれを爆発させていた」「漠然たる不安に捉えられている」「危険な情熱と化して」「院を中心とする宮廷社会、京都の王権世界は」などと思い入れの強い表現が使われていましたが、今回これらは削ったようです。潘岳の話題は84清輔の所で出てきた、中国六朝時代の晋の藩安仁が文選・巻七・秋興賦序で「余春秋三十有二、始見二毛」と嘆じたというものです。なお、『新勅撰集』からこの院の歌が除かれたことを『百練抄』の記事を中心に述べる⑤、近世注釈書のこの歌に対する評価・鑑賞のスタンスを指摘する⑥、後鳥羽院の隠岐での後半生の和歌の営みを紹介する⑦、これらは今回の書下ろしです。


今回の岩波文庫版では、当該の歌が建暦二年(1212)の五人百首で詠まれた述懐五首の中の歌であることを指摘して、分析しております。一つは、帝位にあった過去を懐かしむ心情を汲み取り、もう一つは三十を過ぎての老いの自覚があることを読み取っています。その上で、「人もをし」の歌から周囲との軋轢による好悪の感情の揺れや、独断による院政の運営の行き詰まりを読み取るようです。承久の乱の九年前の段階での歌ですけれども、破局へと向かったのだろうと主張しています。三句目の「あぢきなく」は、引用されている『源氏物語』などを参照すると、四句目の「世を思ふ」に掛かると見てよさそうです。一般には、「あぢきなく」は四句目の「世を思ふ」に掛かるとするのが通説でありますが、これに対して五句目の「物思ふ」に掛かるという説もあります。『源氏物語』の須磨の巻についての著者の解説を利用するなら、「後鳥羽院の院政の行き詰まりを心の内では同情しながら、鎌倉幕府の権威を恐れて後鳥羽院の意向に従わない人々のことを」、後鳥羽院は「人もをし人も恨めし。あぢきなく世を思ふゆゑに、世を思ふ身は」と述べていると見ることができそうです。こうした後鳥羽院の感情の正当化が、承久の乱の破滅につながったと考えるのでしょう。ただし、それなら三句目の「あぢきなく」は連用形ではなくて、「あぢきなき」と連体形であるべきで、それだと『源氏物語』とも整合性が取れるかもしれませんが、後鳥羽院の歌はそうはなっていないと見えます。


著者は、これまでの『百人一首』の歌の扱い同様、この歌についても、倒置法の歌と指摘してはおりません。『源氏物語』須磨の巻の一節を利用して、歌を解読するという考えを貫徹すると、上二句の相反する愛憎の感情は、後鳥羽院の近臣や幕府への率直な感想であり、その結果「あぢきなく世を思ふ」ために苦悩しているという内容となるのかもしれません。しかしながら、倒置法であることを重視して、倒置を修正して歌の内容を吟味するなら、違った解釈の方向が見えてくるかもしれません。そこで、「あぢきなく」は四句目や五句目に掛かるのではなく、倒置して文末に位置する初句と二句に掛かるのではないかと、ここで提案しておきます。旧注釈が、「世を思ふ」に掛かるとするものと、「物思ふ」に掛かるとするものとで対立するということは、どちらも恣意的に考えているだけで、実は決め手を欠いていたということでありましょう。「あぢきなく」というのは、形容詞の副詞的用法で文頭に置かれたものだという指摘が今までなかったことに驚かされるんですが、近年の注釈書を見ても倒置法に対する理解が甘いままなのではないかと思います。


あぢきなく、世を思ふ故に物思ふ身は、人もをし。人も恨めし。(倒置修正)


それから、以前取り上げた『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』(風間書房1979年刊)において、著者の桑田明氏が、この歌は建永元年(1206)12月の松虫・鈴虫の出家事件が背景ではないかと指摘しています。この指摘に従うと、承久の乱の九年前の鎌倉幕府との軋轢を背景とするという説は、実は相容れないというか、非常に霞んでしまいます。掻い摘んで紹介すると、後鳥羽院の寵幸を得ていた松虫・鈴虫の二人の官女が、法然上人門下の鹿ケ谷念仏会に参じて発心し、剃髪して尼となりました。この事が院の逆鱗に触れ、二人の僧が斬刑に処せられ、法然は翌年に讃岐へと流されるという憂き目に遭っております。法然は、建暦二年(1212)1月25日に80歳でなくなっておりますけれども、「人もをし」の歌が詠まれた五人百首はその年建暦二年の12月に成立したものですから、九年後の承久の乱なんかよりも、こちらの方が述懐五首の歌の背景としては蓋然性が高いかもしれないのです。松虫・鈴虫の二人は尾道の光明坊という寺で余生を過ごしたそうですから、後鳥羽院がそのことを十分踏まえた上で歌に詠む可能性だってあったと言えそうです。つまり、九年も先の承久の乱のことを言い出さないで、最初から女官の出家事件を背景とした歌群として読み解くほうがよいのかもしれません。


この歌について本来の後鳥羽院の表現に即した訳を、以前取り上げた北原白秋の評釈の解釈から抽出しまして、その特色を考えてみたいと思います。昭和初期の白秋のような理解が、近代の注釈の特色がよく表れているからです。久保田淳氏の解説が、『必携』執筆時から比べても、かなり抑え気味になっているからでもあります。とは言え、白秋は実はほとんど元の歌の表現を無視していたので、直訳的なものから白秋の意図を探る事に意味がありませんでした。それでも、工夫して探ってみたところ、白秋の理解はこんなことでした。


多くの人を惜しくも思ふ。多くの人を恨めしくも思ふ。甲斐もなく、天下の政治を思うので、心にまかせず悶えてゐる朕は。


四句目の「世を思ふ」を、白秋は「いろいろこの世の事を思つて」と訳しているんですが、これでは意味が不明ですから、「この世の事」を「天下の政治」に置き換えて見ました。また、五句目の「物思ふ身は」という表現に合わせて、「朕は悶えている」の語順を入れ換え、「心にまかせず」を補って「物思ふ」に近づけて見ました。白秋は、三句目の「あぢきなく」について、「皇室の威光が衰へて、天下の政治は心にまかせぬ事ばかりで、そんなことを如何様に思ふとも甲斐のない事ではあるが」と具体化しておりまして、明らかに承久の乱を起こした心情を推測して、「あぢきなく」を鎌倉幕府への不満、政局への閉塞感を表明したものと考えていたようです。この理解は注釈書に多く見えるものです。後鳥羽院の歌を初句切れ、二句切れとして、三句目以降が倒置されているという前提に立ちまして、この白秋の訳から抽出した表現を、倒置を解除すると、次のようになるでしょうか。


甲斐もなく、天下の政治を思うので、心にまかせず悶えてゐる朕は、多くの人を惜しくも思ふ。多くの人を恨めしくも思ふ。(白秋の理解)


なるほど、こういう解釈が白秋の理解だとするなら、「心中に燃えるやうな悲憤の涙が流れてゐる」とするのも、ある程度分かる気がいたします。我が子に皇位を譲って上皇となり、今や院政を敷いて帝王として君臨しているはずですが、征夷大将軍を戴く鎌倉幕府を北条氏が切り盛りしまして、実は政治の実権は鎌倉が握っておりますので、人事だろうが荘園からの収入だろうが、そんなものは心にまかせないわけで、悩む甲斐もなく悶えるしかない立場なのであります。院に忠誠を誓いながら幕府に退けられる人々がおりますから、それを惜しいと思うわけです。そして、武力を背景に無理難題を押し付けて来る北条氏やその手先を、許せないとして恨めしく思うというのであります。分かったような気がいたしますが、本当にそういう内容の歌なのでありましょうか。


江戸時代の終りに王政復古が成就しまして、天皇が統治するという古代の政治システムが復活したのであります。古今伝授への反発から端を発した古典研究を「国学」と言うのですけれども、『万葉集』や『古事記』『日本書紀』などを読解し始めた国学者は、次第に国粋主義的な傾向を強めまして、これが討幕の下支えをしていたように思います。帝王を押さえて征夷大将軍が天下を掌握した悪しき伝統は鎌倉幕府から始まりましたので、それに反抗して隠岐に流された後鳥羽院や後醍醐天皇は、明治・大正・昭和初期から見たら、悪と戦う善玉であります。白秋はそういう時代の空気に乗っておりますから、後鳥羽院の『百人一首』の歌を見て、北条氏の世の中に悲憤慷慨して身悶えする帝王の姿を感知したのは仕方ないのかもしれません。以前取り上げた著書の筆者桑田明氏も、そうした流れの中で「人もをし」の歌を解しているのは間違いありませんでした。


天下の事はみな鎌倉のはからひにて、朝廷の衰へゆくを心外に思召して、いかでもとの御世にとなげかせ給へど、さる大御勢もありえねば、いふかひなきこの代のありさまを、いろいろと思ひ給ふ御心の内には、賢良の臣を挙げ用ひんと思へども、それもかなはねば、あたら良臣をと、それも惜しく、又邪曲無道を以てほしきままに、悪政を行ふ事と思へば、その臣下どもも恨めしくかたがたに、心外に思召す。(佐佐木信綱『百人一首講義』※一部誤植を訂正)


この信綱の解釈を下敷きにしていると思うならば、白秋の解釈が出て来ることも充分理解できるわけでありまして、後鳥羽院への同情というか思慕の念は強烈に見えます。そこからすると、後鳥羽院と大喧嘩して『後鳥羽院御口伝』でののしられた藤原定家は、ある意味朝廷の裏切り者、奸臣の最たるもののような気がしまして、その定家がこんな歌を選ぶという方向性が分からなくなったりすることでしょう。現代では、後鳥羽院を善玉として扱うことはないと思いますので、微妙に信綱や白秋の解釈は色褪せるような気がいたします。近年の注釈書も、幕府との軋轢を強調する方向は白秋なんかと同じであります。それに比べると、『百人一首一夕話』の尾崎雅嘉の解釈は、淡白でありまして、信綱や白秋はこういう訳も見ていたと思うんですが、歯止めとしては効かなかったようです。


今の世の有様にては、人ををしくも思ひまた人を恨めしくも思ふ事ぞ。かやうに思ふも無益なる事ながら、世の中の事をとやかくやと思ふ故に物思ひをする我が身なれば。

         (尾崎雅嘉『百人一首一夕話』)


『続後撰集』巻第十七・雑中 1202番

     題知らず      後鳥羽院御製

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は


後鳥羽院の歌も、源実朝の歌と同じでありまして、何かこう正面から味わったり口ずさんだりしにくいものがあるのであります。やっぱり痛ましい感じがぬぐえないのでありまして、だから後鳥羽院の歌の善し悪しを考えるという気分にならないわけです。近代日本の日本史、あるいは江戸時代以前の古代・中世史の扱いのぶれみたいな物が、学校の教科書にまとわりついていて、何だか靄が掛かるのであります。おそらく、教わった私たちは戦後世代も相当進んであっけらかんとしていたんですが、教えていた方は、自分の両親より年配でしたから、お国のために死を覚悟していた世代で、我々を教えにくかったことでありましょう。


後鳥羽院に関することで私が印象的なのは、後鳥羽天皇宸翰御手印置文というものであります。 「宸翰」というのは、天皇の御直筆というような意味のはずですが、ウィキペディアによると、「置文」のほうは遺言とほぼ同意ということなのであります。暦仁2年(1239)、隠岐に流されていた後鳥羽院が崩御を覚悟して、亡くなる13日前に書いた遺言状なのでありますが、私はこれを京都国立博物館の展示で見たことがございます。文面には後鳥羽院の手形が最後に押してあるんですけれども、ちょっとなまなましいのであります。見たところは鮮血のようでありまして、なにを手に塗りつけたのか、気になるほどの鮮明さなのであります。いまは、水無瀬神宮にあるようですが、手形の指のしなやかさ、大きさが何かを物語ってはいないでしょうか。


この歌は、出典が『続後撰集』雑中巻の巻軸歌(末尾の歌)でありまして、1202番に入っているのであります。次の順徳院の歌も同様で、藤原為家さんが撰者となった『続後撰集』から採用されていることから、ひょっとして為家さんが『百人一首』を撰んだという邪推も出来るわけです。為家さんというのは、最初の奥さんが宇都宮頼綱という鎌倉幕府のえらい方のお嬢さんでありまして、晩年に阿仏尼さんと同棲事件を起こしているんであります。頼綱の依頼で定家さんが作ったのが『百人秀歌』である可能性は高く、それをマイナーチェンジして作ったのが『百人一首』である場合、入れ替えた歌が『続後撰集』にあるということが問題になるわけです。一般には、『新勅撰集』を定家さんが作った時に、幕府の目を恐れて、後鳥羽院や順徳院の歌をやむなく除いた結果、除かれた歌を『続後撰集』に入れたのではないかと推定して、本来『新勅撰集』に入っていたはずだと考えるわけです。編者未詳の『百練抄』などに依拠しているということを、今回久保田淳氏が指摘しています。


『百人一首』の歌が、すべて勅撰集にあるものという限定の意味するところが大事なんでありますね。


ある程度、公的な場で披露することを前提にしているということなんでしょうか。天皇の下命で撰ぶ勅撰集の権威を改めて天下に披露しようとか、和歌の歴史をある程度公的な水準で作ってみようというような意図があったと言うことなのかもしれません。もし、そうだとすれば、それを素直に受け止めてありがたく頭を下げる人もいるでしょうが、私は裏を考えます。つまり、積み重なった伝統を今さら仰ぎ見ているわけで、そうした歴史の終焉をほんとうは予感していたということでもあります。かえって、危機感にさいなまされての行為のような気がするのです。


ところで、この歌の解釈に関して、非常に疑問を感じる点があります。すでに指摘はしましたが、この歌は、初句切れ、二句切れでありまして、その上倒置法でありますから、えいやっとひっくり返さないといけないわけです。ひょっとして「あぢきなく」できれる、三句切れかもしれないという疑惑を提示しておきたいと思います。なぜなら、帝王が「世を思ふ」「物思ふ」ことが、つまらないことだとは言えないでありましょうから、この「あじきなく」は「人もをし。人も恨めし。」というところに、倒置で掛かるのではないかと思うのです。だって、この時代は『万葉集』の頃ではありませんので、「五七・五七・七」のリズムではなく、「五七五・七七」のリズムでありましょう。そう言うことも見落としている諸注釈という物を「あぢきなし」と思うわけです。仮に二句切れだとしてもかまいませんから、そこでの倒置とみなして検討して見ます。


あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ 身は人もをし 人も恨めし

 (粗忽改作案、二句切れ倒置を修正)


「身は」のところを、四句目にずらしてみると、まんまと「五七五七七」の歌になりまして、ちゃんと和歌の形式には則したわけですが、こうしてみると、「あじきなく」の懸かりどころが、「世を思ふ」でも「物思ふ」でもなく、一番末尾の対句表現である「人もをし 人も恨めし」であると主張しても良さそうであります。諸説の中には、二つの「人」が別物であるというような「とんでも解釈」まであるんですが、そうではなくて、この人というのは、常識で考えれば自分以外の他人のことであり、治天の君に対する臣下並びに人民を包括する可能性が高いでしょう。それを言い換えれば、世の中と言うことであります。対句に示されているのは、人(臣下・人民)をいとおしんだり恨んだり、相反する複雑な感情を抱いてしまうと言ってるんですから、こうした不安定な心情を、後鳥羽院自身が「あぢきなく」感じているはずなのです。「うれしくも~」とか「いみじくも~」という例を考えてみれば分かるように、「あぢきなく」というのが、最も末尾の部分に響いていく副詞的用法のはずなのに、それを無視しているのは、倒置に対する理解の甘さが生み出していると見ていいでしょう。

やりましたね、この年まで考えなかった歌ですから、虚心坦懐に大手柄を挙げたようです。「世の中を思う故に、悩む我が身は、つまらなくも周囲を慈しんだり、恨めしく思ったり、揺れてしまう事よ、ああ情けない」というような、まさしく帝王ぶりの述懐なのであります。もう一度言いますが、「世を思ふ」ことが「あぢきなし」というのはたぶん駄目ですね。帝王は「世を思ふ」のがお仕事です。ここは、「世をあぢきなく思ふ」というような構文ではないはずです。改作案の第二を下に示します。


世を思ひ 物思ふ身は あぢきなく 人もいとほし 人も恨めし(粗忽改作案)


世を思ふ ゆゑに我が身は あぢきなく をし恨めしと 人を見るかな(粗忽改作案)


人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

    (『百人一首』第99番・後鳥羽院)


後鳥羽院の歌を眺めますと、「惜し(愛し)」「恨めし」「世」「物思ふ」と言葉が連なるわけで、ごく普通に『新古今集』の頃の歌として見るなら、当然恋の歌の匂いが立ち籠めます。


「世」とか「世の中」というのは、恋愛関係とか夫婦関係とか、二人の間柄を指しますので、これはまったく恋の歌として解することも出来まして、やはりもみもみとした謎かけのような歌でもあるのであります。これを仮に贈答歌の歌であると考えると、「人」というのは二人称で「あなた・汝」ということでありまして、恋人のあなたをいとしいと思ったり冷淡だと思ったり、落ち着かない心理が表現されています。だとしたら、これは恋愛心理としては、相当熱の入った状態でありまして、「世をあぢきなく思ふ」どころか、二人の関係を深く強く感じているわけで、添い遂げられるかどうか物思いは尽きないのでありましょう。その結果、相手の何気ない言葉、ちょっとした態度に心が揺れますから、ころころと変わる自分の感情を持てあまして、「あぢきなく」も「人もをし。人もうらめし。」と思うはずなのです。三句切れかも知れないと考えないと、この歌の解釈はぼやけてしまうんですが、さて、従来の注釈はどうなっているのでありましょう? 二人の関係を「あぢきなく思ふ」なら、もはや悩む必要はなく、相手のことを何とも思わないということになるでしょう。この歌の「世」を絶対「男女の仲」じゃないと指摘する注釈書もあるんですが、さて、そうすると恋の歌の解釈に行き詰まるのは確実でありますし、『百人一首』全体の歌の解釈で難渋するのは必至でありましょう。


もう一度繰り返しますが、後鳥羽院の「人もをし」の歌は、三句切れ倒置法の歌であります。そして、初句ならびに二句目に対して、三句目が倒置されているわけです。四五三一二という句の順番で解釈するのが一番分かりやすいということです。


世を思ふゆゑに物思ふ(我が)身は、あぢきなく(も)『人もをし。人も恨めし』(と思ふぞ)


というのが、倒置による強調を修正した、普通の散文調の表現でしょう。恋の風情を借りた、帝王による述懐の歌と考えるべきでしょう。


もともとは「述懐」の歌だというのですが、「述懐」が帝王と廷臣との関係で作られるなら、それは容易に男女間の「恋愛」の歌にも転換するのは当然なんですね。そう考えてわざと「恋愛」すなわち「恋」の歌として読み解くと、「あぢきなく」の掛かり所は明らかであります。そして、恋の歌と考えて見ると、初句と二句目の「人」というのは、二人称の「あなた」でありまして、同一の人に対して「をし」「恨めし」と相反する感情を抱くということが分かります。ならば、鎌倉幕府に対しても、その中枢にいる北条氏に対しても、そして京都にいる親幕派の貴族たちに対しても、時と場合に拠って愛憎が揺れたというのが、この歌の意味するところなのではないかと思います。みなさん、ご飯をちゃんと食べて考えていたんでしょうか?


今朕の御前に控えているそなた、心して朕の本音を聞くがよい。天下というものを帝王であるという立場から朕はあれこれと考えるが、それゆえ、物思いにふけることが多いのだ。そういう朕の立場では、何とも味気なくつまらないことに、そなたのことも時には愛おしく思うぞ。そしてまた、そなたのことを場合によっては憎く思うぞ。

    (粗忽謹訳 後鳥羽院に代わりてその御真意を)


人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

        (『百人一首』第99番・後鳥羽院)


10回くらい粗忽の謹訳を読んでから、後鳥羽院の元の歌を読むと、これが正しいと感じる方もいることでしょう。してやったり、ということでございます。 

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