瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(69) 浦より遠方に漕ぐ舟の(2) update ver.
私の実家の一角に井戸がありまして、それには厚いコンクリートの蓋がしてあるのであります。
もとは、搾った牛乳を集乳車が来るまで冷やすための井戸でありまして、それを飲み水にしたりしたことはないのであります。蓋が開いた状態というのは記憶にありまして、蓋をずらして中を見ることも出来るのであります。コンクリートは厚さが約10センチありまして、円形というよりは六角形だったはずで、井戸の直径は約90センチ、おそらく3尺ではなかったでしょうか。深さは、子供心には10メートルくらいあったように思うのですが、現在から考えると、実は5メートルくらいの深さで、水深はおそらく2メートルはあったはずなのです。実家には飲料水用の井戸も別にありましたし、牛の飼料を入れておくサイロもありまして、その手の穴というか、得体の知れないものは幾つもありましたので、井戸だけが恐いなんて事はないのでありますが、しかし誰かが落ちても変ではないなあという気もするのです。
井戸の蓋をずらしますと、鏡のような井戸の底の水面が見えまして、覗いている自分の顔が写るのです。
顔の周りに開いた蓋の分だけ、空といいますか、顔を中心にして背景が見えるわけで、それ以外は漆黒の闇に近いのであります。闇を凝視すると、そこに少しだけ水面の奥が見えるんでありますが、あるようなないような不思議な光景であります。小さいときに、まだその重い蓋がないときの記憶が残っておりまして、おそらく季節は真夏でありまして、涼しい気候の高原でありますが、梅雨が明けた七月下旬は真上から陽光が降り注ぎ、一年のうちでその時期だけ非常に明るい光景が出現するのであります。物陰が消えまして、明るく感じたんでありましょう。
さて、とりとめもない話を書いてしまいましたが、『源氏物語』の現代語訳の話を続けたいと思うのですが、第14帖の「澪標」には不思議なことがいくつか出て来るのであります。
二条院というのは桐壺更衣の実家だったはずで、光源氏の私邸であります。ここに紫の上を置きまして養育したんですけれども、桐壺更衣の実家にはほかにこの家を継承する人がいなかったことは、「桐壺」の巻に光源氏の祖母が光源氏と暮らした時期があるので何となく想像が付きます。その東隣にある邸宅が、この「澪標」の巻で話題に出て来まして、それが桐壺院すなわち桐壺帝の遺産だという話が出て来るのであります。桐壺帝の私物が遺産として光源氏に渡ったという話でありますが、どうして急にそんなことが出て来たのか分かりませんが、そこに花散里を移そうという話が出て来るのです。二条院の隣に誰かの邸宅があっても構いませんけれども、それが桐壺院のものであったと急に振られても、はいはい了解、分かりました、「アイアイサー」とは行かないものであります。
何を藪から棒に原作者が持ち出してきて言うのか、意味が分かりません。
もう一つ、有名な占いの話も唐突に出て来ます。「御子は三人で、帝、后かならず揃って御誕生になるでしょう。そのうちの最も運勢の劣るお子は、太政大臣になって人臣最高の位を極めましょう」というものでありますが、これがさも前にあったように出て来ますが、そんな一節はあったようでなかったのであります。現在一般には、過去を振り返る振りをして事実めかしてみた小説技法として理解するようですが、そうでありましょうか。ここまで読んでくると、どうしても脱落した巻とか記事があって、具合が悪いような気がするのであります。いつかの占い師の予言が的中するみたいだなんて書いてあるんですけれども、何となく具合が悪いのであります。明石で生まれた女の子は后になるかも知れないから、例の二条院の東の邸を改修しなくっちゃって光源氏は思うのでありますが、そのためのこじつけなのかと感じたりして、この巻は突っ込みどころ満載であります。
子供の頃に覗いていた井戸の底のようであります。眺めていても水は動く様子は無いのですが、溜まっている水が腐りもしないわけであります。謎だらけ。大人になれば理屈は浮かびますが、子供の頃のまま疑問が胸の中に残っているわけです。井戸の縁から覗く『源氏物語』の闇。
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