瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(72) 浦より遠方に漕ぐ舟の(5) update ver.

いろんなものが発見されていて、発見というと何かすごいことのようですけれども、要するに、元から存在するものの所在を、誰かえらそうな人が「ここにある」と言ったと言うことであります。あくまで権威のある人が宣言するからいいわけで、その辺に転がっていたり、さほどえらくない人が持っていてもしょうがないんであります。発見した人が誰なのかによってニュースになったり、ならなかったりいたします。何の話かというと、森鴎外の論文発見のことであり、小林一茶の自筆稿本のことなんですが、よろしいでしょうか? 2012年の7月ころのブログ記事ですので、10年以上前の話題を記しています。


もちろん、素粒子の一つ「ヒッグス粒子」も発見されたんでありますが、持っていた人は今までよく隠していたものであります。……えっ、隠し持っているようなものじゃないの? 私どもの子供の頃には、物質はどこまでも小さくすると原子になりますよと教わったんですが、それより小さいものがあるんだという話でありまして、なんだそれならそうと最初から教えればいいのにと思ったんですが、40年くらい前に存在が予測されたと言うことでありますから、あの頃の最先端の研究者の頭の中に思い描いたものだったんですね。「作っちゃったんじゃないの?」って、疑いたくなりますが、どうやらもとからあったものだけど観測しにくいものだったということのようです。


だったら私も予測しますけれども、紫式部自筆『源氏物語』全54帖全巻揃いなどというのも、3セットくらい見つかってもよさそうであります。中宮彰子に披露した本と、草稿本と、推敲の跡も生々しいのと、それが全部見つかる日だってあるでしょう。前途有望な研究者を訪問して風呂敷に包んで売りに来る、という話もありまして、その場合は風呂敷包みをちょっとだけほどいて見せてくれるらしいのであります。


現代語訳で『源氏物語』を読んでおりますが、第14帖「澪標」の巻の山場は住吉参詣であります。


紫の上の嫉妬心をあおりにあおっている光源氏でありますが、五月雨の頃には花散里を訪問しております。何となくこの人の物語上の出現の仕方が唐突で、現代のテレビドラマで言えば、最初に登場した人物が事故で怪我をしたとか、仕事がダブルブッキングだったとか、そんなことで代わりに登場するキャラクターのような匂いであります。つまり、末摘花を最初は出す予定だったのに、調子に乗って無骨な女性にしてしまったために、とてもじゃないが普通のやりとりの場面には使えそうもないので、もうちょっと教養のある人物にすり替えたのであります。しかし、あまりに控え目で、その自己主張のなさは末摘花そのものでありまして、紫式部としては構想の失敗をなんとなく悔やんでいたかも知れません。


面白がって悪乗りし過ぎた結果、普通の社会生活には不適合な人格を描いてしまったのであります。


さていよいよ「澪標」の巻の山場が出て来るのですが、それはめでたく政界復帰を果たした光源氏が、住吉大社にお礼参りに行くと言うことなんですけれども、その時に実は明石の上の一行も住吉参詣をしていて、両者の一行がかち合うんですが、かたや飛ぶ取り落とす勢いの光源氏と、かたや辺鄙な播磨の豪族の娘でありまして、妻として名乗りを上げることも出来ずに、こそこそと参詣して引き返すという屈辱を味わうわけです。こういうところの描き方というのは上手で、紫の上を嫉妬させている明石の上が、必ずしもすべてうまく立ち回るわけではないと言う点で、この小説の渋みというか、リアリズムが感じられまして、『源氏物語』の持ち味ではないでしょうか。前半はある意味読者に迎合してコミカルなんですが、後半になるといきなり現実を突き付けて、読者をリアルな現場に引きずり込むようなところがあるのです。


みをつくし 恋ふるしるしに ここまでも めぐり逢ひける 縁は深しな

  (「澪標」の巻・光源氏)


惟光を通して光源氏が明石の上に届けた歌でありますが、掛詞と縁語がありながら、なかなか流暢な和歌でありまして、いい歌だと思います。「身を尽くし」と「澪標」、「験(しるし)」と「標」、「縁(えに)」と「江」が掛けてあり、「澪標」「標」「江」「深し」は縁語と言うことになるのかも知れません。どうしてこの歌を光源氏が書いたのかというと、実は惟光が光源氏に明石の上一行がいたことを告げたのであります。こういうところは惟光は気が利いていて、さりげなく大活躍する人なのでありまして、さらに光源氏が「わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ」という和歌を口ずさむと、携帯用の筆を惟光が差し出して催促したのであります。主人以上に気が利かないと家来としてはやって行けないはずですが、ここぞと言うときに活躍するのが惟光という人物なのであります。実は、原作者である紫式部の分身だと思えばいいのでしょう。


だとすれば、惟光を主人公にしたスピンオフ小説の一つや二つ、世の中にはありそうですね。


さて、瀬戸内寂聴さんが訳した『源氏物語』「澪標」の巻の後半を読んで考え込みました。天皇が代替わりしましたので、伊勢の斎宮が都に戻ってきております。母である六条御息所も当然帰京してくるわけでありますが、光源氏との関係は復活することがありません。しかし、六条御息所は、36歳のこの年病没してしまいます。葬儀の方は万事光源氏が取り仕切りまして、だとするとやはり光源氏と六条御息所の関係というのは公的に認められたものであったと考えていいようであります。後に残る斎宮は、御年20歳でありまして、実は明石の上と同い年、紫の上の一つ下ですから、当然のごとく光源氏は言い寄ることを真っ先に考えるとあるのです。この斎宮に関しては、兄の朱雀院がご執心でありまして、どうも朱雀院と光源氏は女性の好みが一緒というか、張り合うところがあるのであります。


斎宮に対する好色な気持ちを光源氏はぐっと抑えまして、彼は六条御息所のためにもと、この斎宮を後見して冷泉帝の後宮に入れて后妃にしてしまおうと考えるんであります。冷泉帝というのは、もちろん光源氏と藤壺の間に生まれた人でありまして、有力な貴族としてはそこに娘を送り込みたいんですけれども、光源氏には生まれたての赤ちゃんである明石の女の子しかおりません。じゃあ、20歳の斎宮を後見してみようというのですが、何と冷泉帝はまだ11歳という年齢でありまして、これは数え年ですから、実際は現在の9歳か10歳に過ぎないのであります。何とも無理があるのでありますが、これを光源氏は藤壺に持ち込みまして内諾を得てしまうのであります。藤原道長の娘彰子が入内したのが11くらいのはずでありまして、当時の人は同じような事情を汲み取ることが期待されていたのかも知れません。やむを得ないのだというニュアンスかも知れませんが、さて、かなり不自然でありまして、小説としての風向きは非常に奇妙なものになると思うのであります。


なんとなく、小説の当初の構想がゆがんでしまいまして、第2シーズンは帰着点が見えません。

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