瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(83) 羨ましきは、関守(5) update ver.

『源氏物語』の第16帖「関屋」の巻は、400字詰めにして6枚くらいの短編であります。


紫式部の小説の構成を見ますと、必ずペアになるように人を配置しますが、この巻の空蝉を見ますと、明石の上を思い浮かべます。それはどうしてかと言いますと、状況が酷似しております。「澪標」の巻で摂津の国の住吉参詣がでてきまして、この巻では石山参詣でありますから、政界に復活できたお礼参りをほうぼうの寺社にしている中で、妻妾やかつての愛人とすれ違うことによって、光源氏の現在の境遇を鮮明に印象づけているわけです。二人の女性のうち、明石の上は現在のお気に入りでありまして、空蝉はかつてのお気に入りということになるのであります。どちらも身分は低く、それだけに光源氏の女性に対する嗜好がよくわかるのでありまして、複雑な小説でありながら、読んでいてこんがらかったりしないのは、登場人物のキャラクターをその場その場で上手に必要な側面に光を当てて描くからでありましょう。


つまり、この段階での明石の上と空蝉の共通点は、京の都に生活基盤を持たない、あるいは地方に在住していると言うことであります。明石の上は父の明石入道に扶養され、空蝉は常陸の介に扶養されているという点で、自立していない、言い換えると誰かに依存しているに過ぎない、社会的には弱い立場の女性なのであります。光源氏が政界に復帰すると、この二人の存在というのは身分的にはミスマッチでありまして、光源氏の寵愛の気持ちだけが関係継続の切り札であると言うことであります。


明石の上も空蝉も、光源氏の一行を見て空間的な距離が接近すればするほど、心理的には圧倒されて遠い存在であることに気付かされるのであります。紫式部のうまさは、そういう単純な構図を背景にしながら、現実的な場面を重ねて行く事でありまして、住吉大社とか石山寺とか、現世利益を祈念する場所の対比に読者が気付いたとしても、小説としての説得力が生まれる源泉が、対比的な登場人物を配置した構成のうまさだとはなかなか気付かないのであります。


もちろん、明石の上と空蝉の違いもあるわけで、明石の上は光源氏を夫として受け入れて一女を産んでいるわけですが、空蝉は光源氏を拒み二人の間には子供はいないのであります。さらに、夫の死後尼になると言う点に着目すると、空蝉と共通点を持つのは藤壺でありまして、いやはや、物語はその巻に登場しない人物も巻き込んで、まるで実人生のように複雑でありますが、映像で状況を説明するアニメや映画よりも、人の想像力や記憶を喚起する点で文学作品らしさが出ておりまして、非常に巧みでありましょう。


年の差婚の夫婦の死別の状況というものは、地味ではありますが、滋味豊かなものを感じさせます。


老いた常陸の介は、この巻のお終いの所で世を去るのでありますが、それはまるで長編小説のエピローグのようであります。ただし、この巻の前半の光源氏と空蝉の逢坂の関でのすれ違いや、お互いに真意を隠したやりとりの生々しさに比べて、淡々としたモノトーンの世界なのであります。じゃあ、色褪せてつまらないのかというと、意外や意外これがけっこう面白いのであります。なぜかというと、若い後妻を光源氏に寝取られたことがあるとも気付かない、割とお人好しの常陸の介は、この後妻の空蝉の事を心配に心配を重ねて、老いの繰り言のように周囲に頼みに頼んで死んで行くんであります。つまり、どんなに空蝉という女性が素敵であるかと言うことが間接的に伝わるわけで、若い日の光源氏から見たら容姿はイマイチなのですが、彼が執着した通り、やはり掘り出し物の女性であることが分かります。


最後に常陸の介の息子が言い寄ったことが、あっさりとした筆致で描かれまして、これに対して空蝉が出家して尼に成ってしまったために、言い寄った息子が後悔するというようなことで巻が閉じられます。まるで、讀賣新聞の人生相談とか、「教えてグー」というようなプロバイダーが用意した相談サイトの、相談者のお便りレベルなのでありますけれども、その余計な具体性を省いて筋書きだけを追ったところが、実は分かりやすくて面白いのであります。スピンオフ小説のあらすじを、どんなものかと楽しんで読むような感じと言いましょうか。この小説の原作者は、小説作法についていくつもの引き出しを持っておりまして、短い「関屋」の巻が短く感じない工夫がなされておりました。


気が付けば、全54帖の三分の一を読み終えようとしているではありませんか。いざ、いざ、いざ。 

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