瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(95) 興ざめなものの例(1) update ver.
講談社刊の現代語訳の『源氏物語』をずっと読んでおりまして、第20帖「朝顔」の巻もついに読了です。
現代語訳で30ページくらいでありまして、一つ前の第19帖「薄雲」の巻よりも短いのであります。何となく、今まで出て来た人物がおさらいされているような、あるいは、生じている状況が焼き直しのような感じでありまして、既視感に囚われるのであります。つまり、読み始めると節々で退屈するわけで、困ったなあと思うのでありますが、ところがどうも「薄雲」の巻のリフレインのように見えて、そのリフレインのおかげで小説が深いところに入って行くような感じがいたしました。どう言ったらいいのでしょうか、かゆいところに手が届き始めるのであります。
やはり気になりますのは、末摘花がまるで存在しないように展開していることであります。やはり、玉鬘系後記説は正しいのかと思うわけでありまして、光源氏が紫の上を相手に今までの妻妾の噂話を始めてしまうのでありますが、その中に末摘花がすっぽりと抜けているのであります。ただ、非常に奇妙な感じがするのでありますが、新たにこの巻で存在感を増す朝顔の姫君が、どうにも末摘花とキャラクターが被るのでありまして、花散里に次いで末摘花のクローンが登場した感じなのであります。
もともと、天皇の血を引く姫君である紫の上がおりまして、よく似た境遇で不器量だったのが末摘花ですから、末摘花もクローンだったと思うのであります。次第にクローンが繁殖しまして、それらに光源氏が唾を付けまくっているという図柄が出て来るのであります。マンネリを逆に利用し始めた原作者の紫式部でありまして、どうやら居直ってあれこれ第1シーズン(第10帖までを勝手にそう名付けております)の人物に落ちを付けまして、この巻がひょっとすると第2シーズンの締めくくりだったのかも知れません。これ以降の巻を読んで、それが第3シーズンと指摘できれば、『源氏物語』は10帖ずつ書き継がれたものと言うことができるのかも知れませんね。
瀬戸内寂聴さんの『源氏物語』(講談社)の単行本を読み進めて、第20帖「朝顔」まで辿り着きました。前斎宮を口説いたと思ったら、前斎院を口説きまして、もはや手当たり次第、光源氏は病気であります。ちなみに、斎宮は伊勢神宮に御奉仕しますが、斎院は賀茂神社に御奉仕いたしますので、区別をよろしくお願い申し上げます。
前斎宮というのは、もちろん六条御息所の娘でありまして、母と一緒に伊勢に下向した人であります。そして、光源氏は一つ前の「薄雲」の巻では口説いておりますが、本当は顔も見たことがないという設定であります。当時の風習がどうか分かりませんが、かつての愛人の娘を子供時代から知っていて顔を見ていないというのですから、それも何だか極端であります。前斎宮は朱雀帝の時に斎宮に任命されまして、朱雀帝の退位とともに京都に戻り、それから冷泉帝の後宮に入ったのであります。この人は、故東宮の一人娘のはずで、故東宮は桐壺帝の時の東宮でしたから、そのままなら桐壺帝の後を継いで皇位に就くはずの人だったのです。その辺の事情が、『源氏物語』の現在の全54帖では抜けておりまして、その結果「賢木」の巻の六条御息所の年齢について疑問が持たれていて、せっかくの主役級なのに何やら片手落ちなのであります。
まあ、「桐壷」の巻の前東宮に関わるあたりの本文の誤読が原因ですから、作者よりは近代の注釈者の杜撰さに問題があると前に指摘しました。北村季吟師匠が指摘するように「御息所」という呼称の秘密が鍵なのでしょう。
同じように、朱雀帝の時に斎院となったのが、この「朝顔」の巻で出てくる女性であります。斎院というのは、京都の賀茂神社の斎院というお巫女さんでありまして、有名なのは大斎院選子という人でありましょう。この人は村上天皇の皇女ですが、何代にもわたって斎院を努めたはずなのです。そっちは、世間に一目置かれていた実在の歴史上の人物です。こちらは小説ですから、実在の人ではありません。光源氏の兄の朱雀帝の時代が終わって、やはり斎院を降りたという設定のようですが、読んでいて突如出て来た感じですから、どういう人か人物像が結べません。どうやら「帚木」の巻の辺りにちらりと出て来るそうですが、まったく記憶にありません。だいたい「帚木」「空蝉」「夕顔」の三巻は玉鬘系でありますから、あとから補入されたのなら、この「朝顔」の巻の登場の仕方は唐突の極みでありましょう。小説作法として唐突に人物を出すのも、インパクト次第では「あり」ではありますが、さすがにとってつけなのであります。
桐壺帝の妹に女五の宮という人がいたと言い始めまして、そのおばあさんのところに同居しているとあります。お父さんは、前の巻で藤壺と相前後して亡くなった式部卿の宮ということになっております。誰かと同居しているというのは花散里に似ておりまして、慎み深すぎるのは末摘花と被ります。斎宮と斎院という巫女という点では、秋好中宮と被るんであります。当時の読者も、紫式部はもうアイデアが無いのかもしれない、さすがの才能も枯渇しそうなんだと疑ったことでしょうが、それが後半、思わぬ深みを見せるからすごいのであります。
マンネリの中の新境地でありまして、今はもうそういうテレビドラマも少なくなってしまいました。『ありがとう』とか、『細腕繁盛記』とか、思い浮かびますが、たぶんビデオのない時代なので世間からは忘れ去られるばかりですね。
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