瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(82) 羨ましきは、関守(4) update ver.
さてさて、『源氏物語』も第16帖でありまして、「関屋」の巻を考えております。
気にしていることの一点は、この巻にある三首の歌のうち、後の二首は贈答歌でありますが、最初の一首は独詠でありまして、空蝉の詠んだ歌と言うことになっております。「ほんとにそうなのか?」「実は、空蝉が詠んだのではないだろう」「注釈書は嘘をついている」という疑問を呈しているわけであります。それから、その問題の歌の初句のところ「行くと来と」の部分に対して解釈の対立があるわけで、岩波の新大系の脚注によると、おおもとは北村季吟の『湖月抄』と本居宣長の『玉の小櫛』の対立なんですが、近代ではどうやら後者すなわち宣長大先生の説を採用するようであります。『湖月抄』の説によると、この初句は「行く源氏と来る空蝉」と解釈するようでありますが、『玉の小櫛』は空蝉の事であって「常陸へ行くのと京に帰るのと」のように解釈するんであります。あれこれ言っても仕方ありませんから、原文をここに紹介してしまいましょう。
女も、人知れずむかしのこと忘れねば、とり返してものあはれなり。
行くと来とせきとめがたき涙をや 絶えぬ清水と人は見るらむ
え知り給はじかしと思ふに、いとかひなし。
(岩波書店、新日本古典文学大系20『源氏物語』2・160ページ)
やっぱり、歌の後の続き方が、歌を詠んだとか、胸に思ったとか、そういう表現が無いのが気になるわけでありますけれども、こういう時にミュージカルのように、いきなり人の内面を歌ったり踊ったりしていると言うことは無いのでありましょうか。別に強く主張はしませんが、空蝉の内面を語り手が歌の形で提示するなんて事は無いのかどうか。探すと他にもあるような気がしまして、気になるんでありますが、いかがなもんでしょう。大手柄の予感がいたします。さて、肝心の歌の解釈はどうなのかということでありますが、それほど難しい表現もなく、簡単な歌だと思うんですが、『湖月抄』と『玉の小櫛』の対立というのがありまして、江戸時代の優れた読み手の間で意見が割れたら、どうもおかしいと考えてもいいかもしれません。
「来」のところは「く」と読みまして、カ変動詞の終止形の形であります。現代語と活用形が違うので面食らいますが、「く」で終止形です。
この歌を解釈する前提は、光源氏と空蝉が再会した逢坂山が、「逢坂の関」という関所を持つ土地であるということであります。そして、そこには「関の清水」と称される泉がありまして、ずっと歌に詠まれてきたのであります。それに対して、この『源氏物語』「関屋」の巻のテーマは、逢坂山の自然を賞讃することではなく、因縁のある男女が互いに再会したことを意識しつつも、よりを戻すことはありえないと思うことでありまして、恋の歌、心情の歌で有ると言うことが解釈する際の大きな柱になるのであります。背景は関所であり、湧き水でありますけれども、そういう叙景の歌を装いながら、実はまったく叙情の歌であると言うことを見逃してはならないことでしょう。
ゆくとくと せきとめがたき なみだをや たえぬしみずと ひとはみるらむ
まず確かめたいのは、すらすら読めない歌で有るということであります。言いたいことが複雑であるために、歌の表現が修飾句だらけでありまして、その上引用のカギ括弧が複数必要なんですね。
○ 「行く」と「来」と、涙がせきとめがたし。……A
○ 清水が絶えず。……B
○ 人は「AをB」とや見るらむ。
こうして見ても、初句のところの語法は理解不能でありまして、果たして万人が納得の行く解釈に到達できるのかどうか、はなはだ心もとない歌であります。それから、この歌の四句目を注釈書も寂聴さんの現代語訳もそのまま「絶えない関の清水」としておりますから、結局叙景歌のような扱いに成ってしまうわけです。しかしなあ、誰かが涙を流して、それが湧き水みたいに流れていると見るだろうと言うなら、「え知り給はじかし(気付かないでしょう)」って後で言うのは矛盾してまして、どうにも具合が悪かろうと思うのは私だけでありましょうか。
昔のマンガを原作としたアニメ『巨人の星』で、伴宙太や星飛雄馬が涙を流すとダダ漏れの涙でしたが、現実には滑稽な表現でありましょう。
困りましたけれども、一応考えたことを述べておきましょう。まず、「行く」「来」「塞き止め」「清水」というのは「逢坂山」「逢坂の関」を背景にした縁語であります。つまり、歌全体は叙景歌を装っているのでありまして、だから普通に鑑賞しようとして見たら、そのまま訳しておきたいのはやまやまであります。でも、実はこれらは縁語でありますから、関所や泉をストレートに読み込んでいるわけではなくて、せいぜい比喩に過ぎないと言うことを、しっかり抑えてかからないといけないでしょう。一見、「涙」を「清水」に例えているように見えるわけですが、その「清水」が何かの比喩って事であります。さらに、「行くと来とせきとめがたき」という表現は、「絶えぬ」とまったく同じことを言っているはずであります。だから、念のため「涙」と「清水」を入れ替えてみると、一瞬分かったような気がすることでありましょう。
行くと来と せきとめがたき 清水をや 絶えぬ涙と 人は見るらむ
糠喜びしちゃあ駄目ですよ。あくまでも「涙」の位置と「清水」の位置を入れ替えるのは、これは禁じ手でありますから、そういう遊びを覚えても一円の得にもなりません。結論を言うと、「行く」「来」「塞き止め」「清水」を出来る限り恋愛の言葉に置き換えることで、本来の主旨が完結するのであります。かつて関係した男女が、もはや復縁のかなわない状況で再会したのであります。そうすると、清らかな喉を潤す「清水」というのは、相手を慕う一途な恋情と言うことでありましょう。字余りになりますが、縁語を消去してそこに適当に語句を入れると、次のようになるはずなんですが、よろしいでしょうか。
〔未来〕と〔過去〕と 〔抑えがたき〕 涙をや 絶えぬ〔恋心〕と 他人は見るらむ
もし仮に、もちろんまったく仮の話ですけれども、こうした処理が許されるとしたら、空蝉はあくまでも受領階級の後妻として生きている立場を堅持し、過去の過ちや己の中に生じる恋情を封印することを願っているのであります。自分が光源氏に言い寄られたことを、この女性は自慢しないのであります。だから、かつての過ちを回想して涙を流すけれども、それは世間には誤解をされるはずだ、と彼女は自覚しているんであります。そういう、自分の人生にきっちりと線を引いて生きている生き様を、かつての光源氏は理解していなかったし、今後も自分と同じようには理解しないだろうと思っているのであります。
赤の他人に説明不能で、誤解の生じる涙を流した経験が無いと、この空蝉の精神構造は理解できないのであります。紫式部は、この空蝉の精神構造を光源氏は理解し得ないものとして描き出しているわけでありまして、円地文子さんは空蝉を紫式部自身ではないかとエッセイの中で指摘しているんですが、充分あり得ることでありましょう。
空蝉は、物語の中に迷い込んだまともな人でありまして、この作品の鍵を握っていたわけです。
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