瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(97) 興ざめなものの例(3) update ver.

『源氏物語』の第20帖「朝顔」の巻は、問題が多くて何となく戦略的な気がするのであります。


気ままに現代語訳を読み進めているわけでありまして、自分がこの長編小説を読み通して、楽しむと言うことだけを念頭に置いているのであります。これまでいろんな巻がありましたが、今回のこの巻は何だか怪しい秘密を抱えた巻のように思えるのであります。一つは、現在の54帖の順番で読んだ場合に、光源氏の行為が繰り返しに堕しておりまして、小説としては二番煎じの寄せ集めであります。神様に奉仕している皇女をかどわかすとか、同居している年配の女性に挨拶してから、本命のところを訪問するとか、あるいは源内侍という老女が出て来て光源氏に若い女と同じ扱いを強要するんであります。


さらに、噂を聞いて紫の上が嫉妬しましてそれを光源氏がいなしたりすると言うのも、これも二番煎じなのであります。そういう点では、原作者の紫式部に限界が来てしまっているようにも感じるんですが、しかし、繰り返しがくどくならないところで叙述を切り上げておりまして、そこで浮かび上がるのは、相も変わらず昔のパターンで行動する光源氏の愚かさでありまして、なんとなく戦略的に描いているような気がするのであります。違っているのは、嫉妬している紫の上が内面を獲得しておりまして、自分のアイデンティティのようなものを自覚し、夫の行動次第で自分の寄って立つところが崩れてしまう危うさを語ることでありまして、ここでいきなりかゆいところに手が届くような雰囲気がありまして、第11帖「花散里」のあたりからを『源氏物語』の第2シーズンと見なしてみると、これはこれで完結して行きまして、夫の波瀾万丈の時にはむしろ正妻として確固とした地位にあった紫の上が、夫が立身出世のコースに戻ると彼女の地位が危うくなると言う、なかなか面白い筋立ての第2幕だったような気がします。仮に玉鬘系後記説が成立したとしても、現在の配列になったのには必然性があるような気がするのでありますが、ひょっとしてこの「朝顔」の巻をうまく分析すると、あの後記補入説が崩れるような気がするのは、なぜなんでありましょうどこが崩れるのかと問われると答えられませんが、これを書いた後で「あれ」を書くかどうか、ということです。


瀬戸内寂聴さん訳の『源氏物語』もはや第20帖「朝顔」の巻でありますが、気になるところがまだまだ。


朝顔の姫君が暮らす女五の宮のいる邸というのは、桃園にある故兵部卿の宮の邸宅でありますけれども、そこを冬の夕暮れに光源氏が訪問するという場面が出て来ます。紫の上に皮肉を言われるだけではなくて、女房たちにも陰口をたたかれる始末であります。行った先では、まさかこんな日に来るとは思わないので、門が閉まっておりまして、門番が開けるんですが、寒そうな門番の様子というのは、「末摘花」の巻に出て来たような気がしまして、繰り返しなのであります。繰り返しなんですが、繰り返されていることによって状況が連想されまして、そのことが不思議に効果的なのであります。


つまり、門がなかなか開かないと言うことの象徴的な意味合いは、訪問者がいない、主人がいない、すでに社会的に落魄して価値がない邸の風情なのであります。そういうところに懲りずに訪問する光源氏の姿というのは、『伊勢物語』の九十九髪の話を想像させまして、もし仮にこれが、「末摘花」の巻なしに出て来たとしたら、かえって成立しないような気がするのであります。若い日なら、珍しい光景を好奇心豊かに見守れますが、一度落ちぶれたことのある光源氏だと、もはや洒落にはならないはずです。案の定、邸内ではちぐはぐするわけで、桐壺帝の妹である女五の宮は老齢による杜撰な応対をしますし、さらに源内侍という好色な女房が出現しますし、気位の高い朝顔の姫君は光源氏を袖にするわけで、これは合わせ技で一本が取れるような光源氏の失敗譚なのであります。踏んだり蹴ったり。寒い日に薄ら寒いところへ出かけて、身震いして帰ってきたわけでありまして、これが32歳の大臣の恋愛の真相なのであります。


経験がありますけれども、身体の芯が冷えてしまいますと、まもなく風邪を引いて熱を出しますね。

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