瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(88) 島隠れ行く舟(2) update ver.

ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ

         (『古今集』巻第9・羇旅・409番)


明石の浦を詠んだ名歌であります。順当ならば、おそらく『百人一首』に入っていた歌のはずですが、残念なことに『古今集』での扱いは「詠み人知らず」でありまして、左注で「この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり」とあるのであります。余計なことを申しますと、『古今集』の巻第9「羇旅」(きりょ)の巻というのは、全部で歌が16首しかないんですが、そこから『百人一首』に3首も入っているのであります。すごい確率でありますね。その3首というのは、安倍仲麿の「天の原」と小野篁の「わたの原」、そして菅原道真「このたびは」でありまして、強烈な歌ばかりであります。人麿の歌かどうかもわからない「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝ん」なんかよりも、こっちのほうがよかったんじゃないでしょうか。ともかく、明石入道の妻と娘、さらに孫娘の三人は、明石の入道を明石に置いて、京都西郊の大堰川にある邸宅に身を寄せるため、住み慣れた明石を出発するんですが、その場面の背景にこの歌が出て参ります。これがなかなかいいのであります。


舟の中には、長年苦楽をともにして連れ添ってくれた老妻、そしてありったけの智恵を振り絞って育てた明石の上、そして光源氏の血を引く姫君、愛しい女三代の揃い踏みでありまして、それを見送る明石の入道の心境と、この『古今集』の歌の大らかさ、柄の大きさが重なりまして、これはなかなか見事な場面と言えるでしょう。どうして、明石の入道は一緒に上京しないのかという疑問は残るのですが、ある意味何となく自然な感じもするシチュエーションなのであります。ここでの、女三代の行動のよいところは、光源氏に招かれるがままではなくて、明石入道の努力によって大堰川の所有地を見出し、そこへ身を寄せて行こうとした積極性でありまして、それが物語の行く末を明るくしております。しっかりとした家族愛の中から出て来た女性を描いておりまして、明石の上が光源氏の寵愛ナンバーワンの女性たりうる性質であることを、充分にアピールしているような気がいたします。


『源氏物語』を現代語訳で気楽に読み進めておりますが、第18帖「松風」の巻まで参りまして、ここに来て、物語のヒロインが明石にいることの意味が分かったような気がいたします。彼女を手塩に掛けて育てた入道が、老妻・愛娘・孫娘の三人を京都に送り出し、それを見送る光景を古歌をバックに描いたわけでありまして、非常にすがすがしい所があるのであります。だとすると生い立ちに陰のある紫の上というのは、いったいどういうポジションの女性なのかと、改めて疑問が涌いてもいいのであります。世間は、紫の上をヒロインに仕立てまして、紫の上系・玉鬘系などと分けて行くのでありますけれども、どうやら筆者の狙いと当時の読者の読みがずれまして、そこがなかなか埋まらないようであります。


ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ

  (『古今集』巻第9・羇旅・409番)


「ほのぼのと」の歌というのは、今回片桐洋一さんの『古今和歌集全評釈』という大著を見ると、思ったよりも人気のあった歌でありまして、実は古今伝授の世界などではとんでもない深読みがされていたことも分かりまして、まるで『ドラえもん』や『サザエさん』をめぐる都市伝説のような趣なのであります。もはや、単なる叙景の歌ではないと言うことでありまして、もし仮に紫式部の時代にもそういう風評があったとしたら、「松風」の巻の背景として深い意味を汲み取ることもできまして、滋味豊かになることかと思います。そう言うことと別に、ながらくこの歌の二句目の「明石」の所に掛詞があると思っておりました。なぜなら最初にどこかでそう習ったからであります。それを裏付けるような分析も片桐洋一さんはしておられるんですが、今回へそ曲がりにも、掛詞が無いかも知れないと言う妄想に取り付かれました。


普通は、明るいという意味の「明かし」と「明石の浦」の掛詞ですよと言ったり、場合によっては「ほのぼのと」は枕詞だなんて説まであるのであります。いやはや。これを、普通の日本語として解釈しようと読んでみると、初句の「ほのぼのと」というのは副詞として、末句の「思ふ」に掛かるだけで充分でありまして、要するに誰か大事な人を乗せた舟が行くのを「ほのぼのと、思ふ」ってことで、すべて完結するような気がいたします。駄目なの? 『百人一首』をいじっている時は、指摘されていない掛詞を探すのに血道をあげていたのでありますが、時々ふと正気に戻るわけです。


つまり、修辞技巧というものは、その気になればいくらでも見つかりますけれども、いい加減にしろと言いたい時もあります。


古今伝授の世界での深読みなんかを見ていると、もっといくらでも比喩したり、見立てたりできるだろうにと思いますし、単語レベルでいくらだって掛詞が読み取れてしまうのであります。たとえば、初句から二句目にかけてのつながりというのは、何も「明かし」と「明石の浦」というすれすれの叙景同士ではなくて、「ほのぼのと証しの裏」じゃあ駄目なのかどうか。そうなると「朝伐りに死魔隠れ征く」などとやると、もう今時のゲームの世界でありましょう。古今伝授に出て来るような解釈ともまた違った妙な解釈は、この歌を『古今集』の羇旅の巻という重しを取り除ければ、続々生み出すことは可能かも知れません。中学生くらい、あるいは高校生の時に二句目に掛詞がありますよというような説明を受けたか、参考書で読んだかして、せっせと覚えるまでもなく信じてきましたが、それって嘘っぱちだったかも知れませんね。たとえば、「ほのぼのと」という初句と、末句の「思ふ」までが遠すぎるじゃないのという反論があるかも知れません。しかし、この歌を10回くらい唱えていると、やがてこんなふうに見えてくるわけであります。


  明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ ほのぼのと ほのぼのと……

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