瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(91) 柑子みかんのようなもの(2) update ver.
『源氏物語』の第19帖「薄雲」の巻でありますが、幼い姫君は実母とお別れして養女になってしまいます。
皇族や貴族の場合に、その血統であると言うことは、あんまり意味がないのであります。つまり、皇族なら東宮になるとか兵部卿の宮、常陸の宮というような役職のある位置に就くとか、皇女なら斎宮・斎院などに指名されないと、その子孫であるだけでは重く見られないようであります。貴族も、親が大臣の場合には、たとえ大納言・中納言になっても成り下がったとして軽んじられたようであります。曾祖父が皇族であろうと、祖父が大臣であろうと、明石の入道が無位無冠である以上、娘の明石の上は身分がないものですから、光源氏は彼女が生んだ姫君を、将来のお后候補にするために二条邸にできるだけ早く迎えようとするのであります。
つまり、光源氏が用意している二条邸に、明石の上が姫君を伴って引っ越さないと言うことが、ここでの問題なんですが、原因はこの一家の身分コンプレックスなのであります。明石の上と光源氏の婚姻関係を世間に明かすことに対して、明石入道一家というのはある意味慎重であり、ある意味頑固に拒んでいるのであります。軽薄なところが無いことは、美点にもなれば欠点にもなりますが、ここは裏目に出て母子が別れるはめに陥っております。光源氏が悪い奴なら、家来の好色な国守などに言い寄らせて、明石の上を籠絡して地方へ連れ出してしまえば、母の出自を隠すこともおそらく容易にできるのであります。そう思って見ると、はじめて光源氏が明石の上を寵愛していることが分かるわけで、親がかりの洗練された女性に光源氏が非常に魅力を感じることが分かります。だから、親がかりでたしなみのある六条御息所や朧月夜内侍、前斎宮(梅壺女御)、そして明石の上が愛されるわけです。ここは、しつけの行き届かなかった、あるいは自分でしつけを施した紫の上との差でありまして、こういうふうに露わに言わないと、紫の上は主人公だと誤解されるのであります。原作者・紫式部は、奥歯に物が挟まったような文章を書きながら、目指すゴールへと突進しているんでありまして、胸突き八丁かも知れません。
ところで、連れてこられた姫君が紫の上の元で食べた「お菓子」が気になります。原文は「くだもの」。
瀬戸内寂聴さんの現代語訳した『源氏物語』も三分の一に迫り、第19帖「薄雲」の巻までやって参りました。この巻で、光源氏の娘である女の子が、実母の明石の上を離れて、二条院にいる紫の上のもとに引き取られて参ります。この前後の明石の上とその母の明石の尼上の悩み具合とか相談の様子、決断に至る経緯というものは、本当にうまく書き込まれているわけであります。ただ、残念なのは、その後どうなったかという結果を知っているために、もう一つ気乗りしないと言いますか、本気になれないのであります。ただ、これをライブで聞かされたり読んだりしていたら、たぶん非常にどきどきはらはら、読者の多くはもはや作中に紛れ込んで、明石の上を見守り、幼い姫君のかわいらしさに涙し、ことの行く末に息を詰めてページをめくり、語り手の朗読に聞き入ったはずであります。
だから、読み終えてみたら凡庸な結論、微温的な人間関係、進展しない事態であっても、そのことには決して反発しなかったことでありましょう。よからぬ出来事、奇想天外な事件、波瀾万丈な展開というようなものは、読者の頭の中に渦巻きまして、もはや光源氏の存在を疑うとか、明石の上なんて作り物、紫の上のような人物は架空の人、そう言う発想が消えてしまいます。引き取られた姫君が実母を捜して涙ぐむところで、おそらくこの物語を一番最初に鑑賞した人たちはほろりと涙し、誰もが自分の中にある善人の部分を発見して、どうしたものかとうろたえたのではないでしょうか。この姫君を慰めた「御くだもの」とある表現を、寂聴さんは「お菓子」と勇気を持って訳しておりまして、私はその中身が知りたい気がするのであります。「くだもの」が果実だけを指すようになったのは江戸時代中期からということで、それまでは「木の実」「餅菓子」の類だというのは耳にしたことがありますが、『日本国語大辞典』(第二版)も、解説はその域を出ないのであります。映画を作るなら、ぜひこのお菓子は接写してとろけるようなうまさを映像で見せるべきでしょう。幼い姫君が一口食べて、口元をほころばせて、「これはおいしうございます」と片言で可愛く言うのを聞きたいものです。紫の上はこの姫君が可愛いあまり、自分の乳首を含ませるというシーンまでありまして、なかなかどうしてこの小説はうまいのであります。
明石の姫君は「薄雲」の巻冒頭で数えの3歳とありまして、今なら、1歳半か、2歳くらいの赤ちゃんであります。
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