瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(77) 早蕨の萌え出る春(5) update ver.

『源氏物語』を瀬戸内寂聴さんの現代語訳で読み進めまして、「蓬生」の巻に到達しました。


光源氏が須磨に流されていった時に、それを末摘花がどう思っていたか、ということが問題の一節であります。光源氏が都に帰ってきたあとで、末摘花はまったく見捨てられているわけでありますが、光源氏の零落にかつて胸を痛めていたことが分かるのであります。『源氏物語』の原文では次のように語られております。


    年ごろ、あらぬさまなる御さまを悲しういみじきことを思ひながらも、萌え出づる春

    逢ひたまはなむと念じわたりつれど、……(小学館・新編日本古典文学全集21・334ページ)


    (訳)これまで幾年か君のうって変わったご運勢を悲しく情けないことと思いながらも、

    そのうちに草木の萌え立つ春にめぐりあっていただきたいと祈り続けてきたのだけれど、

    …… (同)


この箇所の頭注で、小学館の『源氏物語』は志貴皇子の『万葉集』の歌を引用しているわけでありますが、せっかくの引用が現在学校教育などで出て来る「石ばしる」という初句になっておりまして、がっかりすることおびただしいのであります。ここはやっぱり、紫式部の同時代人である藤原公任が撰んだという『和漢朗詠集』から引用しないと意味がないわけで、昨日紹介したようにその場合は初句が「いはそそく」だったのであります。『万葉集』の巻第十二・3025番の歌に「石走 垂水之水能 早敷八師 君尓恋良久 吾情柄」という例などもありますから、『万葉集』の研究上、「石激」を「石走」と同じ表現とみなして「いはばしる」に統一してみたのかも知れません。


歌論書を覗いてみましたら、平安時代後半の『俊頼髄脳』や『古来風躰抄』なんかでは、やはり志貴皇子の初句については「いはそそく」でありまして、『古来風体抄』は3025番の歌も掲示していますが、そちらは「いはばしる」とあって平安時代には現代のように全部「いはばしる」というふうには見ていなかったようであります。見ていて思ったのでありますが、「いはそそく」も「いはばしる」も何となく熟さない言葉でありまして、ひょっとして「石激」とか「石走」というのはこれで熟語でありまして、「ほとばしる」だったのかも知れないと感じるんでありますけれども、証明できるわけではありませんし、下手な考え休むに似たりでございましょう。でも、「ほとばしる」は名案でしょ? 結構いいセンスではないかと自画自賛しておきます。寂聴さんは、問題の箇所を次のように訳しておられました。


    これまで長い年月、源氏の君の思いもよらない御身の上をたまらなく悲しく存じあげ

    ながらも、やがてまた早蕨の萌え出る春のように何の屈託もない日を迎え、わたくし

    とお逢いして下さるようにと、ずっと祈り続けてきたけれど、……

                        (講談社『源氏物語』巻3・186ページ)


やはりこの場合は、志貴皇子の歌を踏まえるんでありますから、寂聴さんのように「早蕨の萌え出る春」と具体化しないと分からないわけであります。そう訳してくれていなかったら、今回のように志貴皇子の歌が下敷きであると気が付いたのかどうか分かりません。原文がほのかでありますから見過ごす可能性もありますが、近代の注釈書がこぞって指摘するなら、これは間違いなく志貴皇子の「早蕨の萌え出づる春」を踏まえたと、きちっと断定してよさそうであります。


しかし、この志貴皇子というのを誰しもが若々しくて素敵な皇子様で歌が上手で、早蕨みたいな人だと思っていることでありましょう。実は天皇として記録されているんですが、ご存じの方いらっしゃいます? 本来この方は、天智天皇の第七皇子であります。史実によると天武天皇や持統天皇に重んじられた人でありまして、没年が霊亀2年(716)なのであります。志貴皇子というふうに『万葉集』ではこの人を呼ぶんですが、施基皇子と表記する事もあるようです。気になるのは、この人の子供の一人白壁王が後に光仁天皇となりましたので、志貴皇子を宝亀元年(770)に春日宮天皇と称したことで、山陵に因んで田原天皇とも呼ぶんであります。びっくりしますよね。後から天皇と呼んだということなんです。白壁王というのは、天智天皇の孫に当たるから皇位を継いだんでありますが、実は年齢が62歳、大納言の職にあったというのであります。古代史は私にとっては謎だらけでありますね。


つまり、志貴皇子という人は、亡くなって55年くらい経過してから皇位に就いちゃったわけですが、実際に統治した時代があるわけではなくて、その治世は0日ということなんであります。ここで問題にしてきた「早蕨の萌え出づる春」の歌というのは、『万葉集』巻8の巻頭歌でありますが、なるほどこの歌が実際どういう時の歌だったかはともかく、『万葉集』を編纂していた人や、古代史に通じている人は、皇統の混乱を熟知していて、実際にその後の天皇の祖に当たる志貴皇子を意識していたのかも知れないと言うことであります。


「蓬生」の巻の末摘花の心内語の歌が、ただ単に春が来たのを喜んでいた歌じゃなかったのかも知れないと考えると、光源氏の子供が後で天皇になるという予言との関連で、あれこれ深読みも可能でありますね。原作者紫式部としては、勉強の成果がちらっと出てしまったのかも知れません。簡単な系図を示しておきますから、どうぞご覧下さい。数字は、それぞれ何代目の天皇と現在認定されているかというものでありますが、数字が飛んでいるのは、皇統が混乱した証しであります。


34舒明天皇―38天智天皇―春日宮天皇―49光仁天皇―50桓武天皇―52嵯峨天皇―54仁明天皇―58光孝天皇

                  

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