瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(81) 羨ましきは、関守(3) update ver.
組織、会社、商店街、そして政党と、人間の営みも栄枯盛衰を繰り返しまして、時には絶滅します。2012年に書いたブログ記事を2023年に再び掲載していますので、内容が古い点はご了承ください。
手元に『源氏物語を読む』(吉川弘文館)という単行本がありまして、これは編者が山中裕さん(元東京大学史料編纂所教授)でありまして、平成5年(1993)3月1日に出版されたものです。その中に、「国司と荘園」という一節がありまして、小口雅史さん(現法政大学教授)という研究者の方が執筆したものがあるのであります。日本史の専門の方の書いたものでありますし、割と専門的なところからアプローチしているのでありますが、『源氏物語』を意識して執筆なさっておりますから、非常に有益なのであります。これを読むと、律令国家の地方支配というものの変遷と言いますか、支配形態の異常さと言いますか、現実によっていかに制度が曲げられてしまうかというようなことを感じさせられます。どうやら、昔習ったのよりは相当に詳しくて、ここまで読んだ現代語訳の『源氏物語』の場面が脳裏をかすめて行くのであります。
空蝉の夫は、伊予の介として登場しまして、後妻である空蝉を連れて任国の伊予に戻ったりしておりました。第16帖の関屋では常陸の介でありますが、次の任官をしたという話の無いまま亡くなっております。光源氏は若い時にこの人と対座したこともありますが、空蝉の夫として、ある意味嫉妬の対象として眺めていたように書いてありまして、政治的に光源氏と空蝉の夫がどのように関わり合うのか、普通に読んできただけでは明瞭ではありません。
しかし、『源氏物語を読む』の「国司と荘園」をちらりちらりと眺めて見ると、関わりがないわけはないのでありまして、いくつか気になってくるところが思い浮かぶのであります。光源氏の口添えで出世した人たちがいるとか、彼の口添えが失敗したようなことは無いというものでありまして、桐壺帝が生きていたときは、その寵愛の皇子である光源氏と親しいことが政界における立身出世と結びついていたことが分かったのであります。
『源氏物語』の第16帖「関屋」の巻は、国守の後妻である空蝉の運命を辿ります。皇族で源氏となって復帰も果たした光源氏と、国司階級の妻として彼になびかなかった女性の微妙な後日談なのです。
光源氏が、若い時に方違えを理由に伊予の介の邸を訪れて、その若い後妻である空蝉を知るというのが、玉鬘系の初めである第2帖「帚木」の巻のストーリーでありました。伊予の介がのちに任命されました常陸の介という役職は、赴任しない国守に代わって現地を統治するわけで、実質的な国守を指すのであります。常陸の国守は親王が任命されるわけでありまして、例の末摘花の父の呼び名にあった「常陸の宮」というのが名目上の国守を務め、次官である「常陸の介」が現地に行くわけです。こういう時には、何となく、大和朝廷と言いますか、国が適任者を選任して、各国の国守をローテンションしていくようなイメージを持つのですが、『源氏物語を読む』の「国司と荘園」を読んだら話が違うのでありまして、時の権力者である公卿に取り入らないと分け前にあずからないというのであります。ただ、一度成ってしまえば、収入は莫大でありまして、都に豪奢な邸宅を営めたとありますから、取り入るために労を厭わないとも言うのであります。
仮に光源氏が口添えをして、空蝉の夫が常陸の介となり得たのであれば、「関屋」の巻というのは、表面は男女の恋愛の話なんですが、実際は政争に伴って地位を得たり失ったりした国守の浮き沈みの話なのかも知れません。光源氏のお陰で常陸の介を拝命できたのに、光源氏が勅勘を受けたと知るや手のひらを返したとすれば、この巻は平常心で読んではいけないかも知れないのであります。どうしてかというと、原作者の紫式部やお仕えしている女房たちは、大概が父や夫は国守クラスでありまして、一方の読者の代表である中宮彰子や藤原道長は権力者であります。『源氏物語』ができた当時の読者たちの顔ぶれを考えると、そこには「関屋」の巻を平常心で読める人は一人もいないのであります。
常陸の介の一族では、一人右近の将監だけが光源氏の須磨退去に同行しただけでありまして、それ以外の者は光源氏に手をさしのべなかったとあるのであります。そうすると、常陸の介が帰京した後で国守に再任用されなかったとすれば、これこそしっぺ返しでありましょう。光源氏が権力の中枢に返り咲いた今、もはや常陸の介には次なる職は回ってこなくなったと言うことであります。空蝉という身持ちが堅くて賢かった女性は、夫と自分の命運が尽きたことをしみじみ実感したのでありましょう。実感せざるを得ない境遇であったと分かるはずです。逢坂の関での、光源氏一行と常陸の介一行のすれ違いというのは、貴族社会における皮肉な交錯の一瞬でありまして、もし空蝉というかつて思いを寄せた女性がいなければ、挨拶を交わす必要もなく、権力者は路傍に這いつくばる国守風情に砂煙を掛けて通過するだけなのであります。「惟光や、道端に誰かいた?」「いえ、誰もおりませんでしたよ。私の見たところ」というような塩梅です。
そこまで残酷なものなんでありましょうか。しかし、「関屋」はそう思って読む小説のようです。
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