瀬戸内寂聴『源氏物語』を読む(76) 早蕨の萌え出る春(4) update ver.

現代語訳で『源氏物語』を読みまして、思い付いたことをつらつら書いているわけであります。


 『源氏物語』の「蓬生」の巻でありますが、この巻の主人公は末摘花であります。穏やかに言うと常陸の宮と呼ばれた親王の娘で、天皇の血を引く女王でありますが、残念ながら利発ではなく、ちょっと不器量なのであります。過激に言いますと、超ひどいブスでありまして、光源氏はみじんも愛情を持っていないのであります。本文には書いてありませんが、物の怪になって紫の上などに祟りをなさないようにと、光源氏のほうは気に掛けてやむなく後見しているはずであります。しかし、光源氏は須磨へ向かったときから末摘花の存在を忘れまして、復帰してからもほんの少しも思い出さないのであります。


玉鬘系後記説に従えば、思い出さないも何も、紫の上系執筆の折には、末摘花などと言うキャラクターは存在しなかったと言うことになるのであります。なるほどと思うんですが、私は、玉鬘後記説は危ういのではないかと思うのでありまして、いつから思ったのかというと、今回「花散里」の巻を読んでからでありまして、ひょっとすると原作者紫式部は、第10帖くらいまでの第1シーズンを発表しながら、第2シーズンの構想を変更し、花散里というキャラクターを急遽登場させたように感じてしまうのであります。それは、末摘花では都と須磨の手紙のやりとりが成立しにくいので、平凡な女性を造形する必然性に迫られたのでありましょう。ということは、最初から玉鬘系は存在していた証拠になるかも知れないのであります。もちろん、詭弁でありまして、証明が出来るかどうかは不明であります。しかし、証明できたらすごいかも知れません。


念のため申し添えますが、「第1シーズン」とか「第2シーズン」という言い方は、このブログに限ってのかってな物言いですから、何かきまじめな議論であるとか学校の宿題であるとか、そういうところに引用しない方が身のためであります。つまり、なんの根拠もない、気ままな読書の感想から来た物言いと言うことなのでありますから。


ところで、「蓬生」の巻の末摘花の独白の中に、志貴皇子の「早蕨の萌え出づる春」という和歌が出て来るところがありまいて、少し気になったのであります。この歌は非常に印象的な歌でありまして、『万葉集』の名歌撰のようなものを選びましたら、必ずその中に入ってくる歌ではないでしょうか。中学生くらいの時に『万葉集』を習うと、必ずその中に入っておりまして、おそらく嫌いな人はいない、大好きという人が圧倒的な作品だろうと思うのであります。


志貴皇子という作者名も、字面から何か非常にフレッシュな感じを抱かせまして、古歌の人気投票なんかを試みたら、うっかりすると上位ベスト10くらいに入りそうな歌でありまして、文句のでない秀歌なんであります。しかし、その歌が末摘花の独白の中に出て来ると非常に違和感があります。つまり、平安半ばにこの歌はどう享受されていたのかという問題と、そういう歌を知っている人として末摘花は人物造形されていたろうか? というような疑問であります。


調べてみたら、仰天するような作者、仰天するような歌の形、作品の根幹に関わる問題があるんですが、私だけの疑問なんでありましょうか。ややややや、むむむむむ、これは! まあ、力むのはともかく、誰もが知っている歌の形をまず示しておきたいと思います。心安らぎますよね。


   『万葉集』巻第八(巻頭)春の雑歌 1418番(小学館・新編日本古典文学全集7『万葉集』2)


      志貴皇子の懽びの御歌一首

    石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも


         志貴皇子懽御歌一首

      石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨


念のため平仮名を示すと、「いはばしる たるみのうへの さわらびの もえいづるはるに なりにけるかも」でありまして、てっきりこの歌が踏まえられていると思ってしまうんですが、下に示した万葉仮名の本文は、平安時代にはほとんど流布していなかったのじゃないでしょうか。そういうこととは別に、本来の「石激」をどう読むかというのは、激論になりそうでありますね。「いはばしる」って、相当無理があるように思われます。


改めて確認いたしますが、『源氏物語』を講談社版の現代語訳で読んでおりますが、「早蕨の萌え出づる春」が気になります。


どうして気になったのかと言いますと、一つには私にも分かる『万葉集』の歌で有ると言うことが一つあります。乏しい知識で言うと、『万葉集』の表記法である万葉仮名というのは得体の知れないところがあるものでありまして、今でも難読歌と言って、読みようのない歌が10首くらい存在するのであります。さらに、近代において読み方が新たに提案されたものがいくらでもあるわけで、諸注釈を開いたら全部ばらばらって事だってあるわけで、習ったときと現在とで歌の形が違うなんて事はざらにあるのではないでしょうか。学校教育ではそういうことは、たぶん教わらないのであります。


本来の『万葉集』の姿を見たら、普通の人は一行も読めないかも知れません。そのことが問題になったのは、平安時代後半の院政期、だいたい12世紀のことでありまして、その頃一度『万葉集』を真似した歌の詠み方が流行するんであります。『古今集』を手本にして和歌を習得し、歌合という行事を目標にして歌を作ることが行き詰まりまして、そこで未知なるフロンティアとして『万葉集』に光が当たったというふうに、私の中では考えているんですが、正しいかどうか分かりません。ともかく、『源氏物語』が書かれた平安時代の半ばのころには、おそらく民間に伝承されていた歌の形で享受していたはずで、つまり私たちが学校で習った『万葉集』の歌とは、明らかに違うものであると言うことです。『百人一首』の歌で『万葉集』にルーツのあるものも、『万葉集』そのものの形ではないのであります。


それから、気になったもう一つの問題は、末摘花が心内語と言いますか、自分の内面の言葉の中に和歌を使う人なのかどうかと言うことなのであります。使う人だとすれば、「あの愚かな人が和歌を解するだって?」というふうに人格がぶれるのでありますが、これだけ有名な和歌ですから、春を迎える喜びを託すのには充分なんですけれども、しかし何か唐突だなあと言う気がいたしました。


それにしても、「早蕨の萌え出づる春」などという言い回しは、草深い田舎で生育した私にとっては胸にすとんと落ちる歌でありまして、蕨を摘んだことも、摘まれて持ち帰ったワラビを受け取ったこともあるわけで、実は川の畔に芽を出した蕨なんて見たことが無くても(そんな植生じゃないよね)、イメージは完璧な歌であります。つまり、今回引っかかるまでは、志貴皇子のこの歌と作者について何にも疑念を抱いたことが無いのであります。しかし、ちょっと調べてみたら、志貴皇子という人は光源氏の人物造形には無くてはならない人のようでありまして、その種明かしを末摘花の独白に込めたというのは大変なことなのであります。


ちょっと伺いますけれども、志貴皇子のこと知っている人っていらっしゃるもんなんですか? 光源氏のモデル論みたいなものは、たまに耳にしてきましたが、志貴皇子を「まさしくモデルはそれよ」と指摘するのは見たこと無いのでありますけれども、仮に無いなら今回大手柄かも知れません。まさか、私が本邦初の指摘をするなんて事がありうるでしょうか。きっと、江戸時代までさかのぼれば、専門家のご指摘がどこかにあることでしょう。


思わせぶりは止めまして、『源氏物語』の本来の読者が浮かべる歌の形をご紹介いたしましょう。


小学館の新編全集は、頭注で「ほら有名なあの歌だよ」って平気で『万葉集』の私たちが知っている形で掲示してありますが、ものすごく無神経であります。杜撰の極みでありまして、責めてもいいと思います。そういうことをやっていては、素人並みでありまして、ちょっとまずいのではないかと思うのであります。さすがに岩波の新大系の脚注は、慎重に『古今六帖』や『和漢朗詠集』の形を採用しておりまして、こうあるべきでありましょう。つまり、平安時代の真ん中辺り、『源氏物語』が描かれた頃の「早蕨の萌え出づる春」というフレーズで思い出される歌の形は、こんなだったんであります。


    『古今和歌六帖』第一・7番(『新編国歌大観』第2巻・私撰集編)

                  志貴王子 かがみの女王とも

   岩そそく たるひのうへの さわらびの もえ出づる春に なりにけるかな


    『和漢朗詠集』巻上・春・「早春」・15番(『新編国歌大観』第2巻・私撰集編)

   いはそそく たるひのうへの さわらびの もえいづるはるに なりにけるかな 志貴皇子


    『新古今和歌集』巻第一・春歌上・32番(新日本古典文学大系『新古今和歌集』)

        題しらず      志貴皇子

    いはそゝく たるみのうへの さわらびの もえいづる春に なりにけるかな


だから、平安時代はずっと「岩そそく」だと思われていたようでありまして、さらに紫式部の時代には「たるみ」ではなくて「たるひ」でありまして、「たるみ」は「垂れる水」で滝のことらしいのですが、もしそれが「たるひ」ならこれは「垂れている氷」すなわち「つらら」のことでありまして、随分趣が我々の知っている『万葉集』の歌とは違ってくるのであります。小学館の新編全集の頭注の不手際を見たら、おそらくこの和歌を末摘花の独白に使う原作者の狙いまでは思い至っていないはずですから、背筋が凍りつくのであります。毛を吹いて疵を求めるのが世の中でありますけれども、毛なんか吹かなくても疵が露わでありまして、素人が毛を生やしているのかと疑われるわけなのであります。そんなに言わなくてもと思う方がいるでしょうけれども、何と岩波のほうが先に出た本であります。後から出して、それが杜撰ではみっともないことおびただしいのであります。


ともかく、『万葉集』の原文を知ってしまえば、「たるひ」はありえないわけでありまして、「たるみ」のほうがいいと言うことは歴然ですから、『万葉集』のブームの後の『新古今和歌集』で修正されているのは当然のことでありましょう。それでも、「岩激」という初句については、『新古今和歌集』の編者たちも「いはそそく」のまま採用したのでありまして、「岩走る」という読みはどこから生じたものなのでありましょう。『学研漢和大字典』を見ますと、古訓に「そそく」はありますが「はしる」は無いのであります。ひょっとすると、有りもしない読み方を、昭和の時代に生きた私たちはまことしやかに学校で習ってきたと言うことなのでありましょう。ぞくぞくいたします。背筋が寒い方のぞくぞくでありますよ。


志貴皇子がどういう人生を歩まれたのかと言うことは、次回紹介してみますが、衝撃の事実がございます。

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