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北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(42) 清原元輔

42 清原元輔 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは 〔評釈〕あの時、あれほど堅い約束をしたではないか、互いに涙に濡れた袖を絞りながら、あの末の松山を波が越す事のないやうに、二人の心は決して変らないと。それだのに今あなたの心の変つたのはあの約束を忘れたのか、よもや忘れはすまい。 との意で、女の心変りを怨んだ歌である。この歌は後拾遺集恋四に「心かはりてはべりける女に人に代りて」と題して出てゐる。表現法なども「契りきな」と最初にいつて強い調子で面白い。 〔句意〕▼契りきな=約束したがなあの意で、歎息の詞。「きな」は「けりな」の約つたのである。▼かたみに=互にの意。▼袖をしぼりつつ=涙にぬれること。▼末の松山=陸前国宮城郡の海岸の地名。末の松山は波の越えない山であるから、心の変りせぬことに用ひたのである。下の句は古今集の陸奥の歌に「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山浪もこえなん」によつたものであらう。 〔作者伝〕 祖父は深養父、父は下野守顕忠で代々歌の聞えが高いが元輔に至つて一層高くなつた。天暦五年河内権掾に、寛和二年に肥後守となり、永祚二年八十三歳で卒した。 天暦の頃和歌所の寄人をしてゐたが、坂上望城、紀時文、源順、大中臣能宣と共に万葉集の訓点を施し、又後撰集をも撰んだ。世に梨壺の五歌仙といふ。とにかく当代一流の歌人である。有名な清少納言はその娘である。 〔補記〕 句意のところで、「きな」は「けりな」の約であるという説明がありますが、現在は「き」を過去の助動詞の終止形として考えますので、白秋のような理解はしないことでしょう。 句意にある通り「末の松山」は陸奥の歌枕ですが、少し補足すると国守の屋形があった多賀城付近の丘陵で、海からは距離があったものの、貞観年間の津波が押し寄せて波に浸ったと思われます。 清原元輔は、延喜八年(908)の生まれで、永祚二年(990)に亡くなっているので、白秋の作者伝にありますように、享年83歳でよさそうです。佐佐木信綱『百人一首講義』では、これが63歳と出ていますが、信綱の誤りのようです。 なお、萩谷朴『枕草子解環』の考証によると、元輔と深養父の年齢差は27歳なので、深養父は元輔の父の可能性が高く、深養父は清少納言の祖父ということになります。 〔蛇足〕 元輔さんの歌は初句切れの歌であります。ですから、初句が実は五句目の後に回...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(41) 壬生忠見

 41 壬生忠見 恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 〔評釈〕私が恋をしてゐるといふ噂が早くも立つてしまつた。私は人に知られぬやうに心の中で恋し初めたのであつたのに。 といふ意で、恋の浮名の立ちやすいのを驚いて歎いた歌である。この歌は拾遺集恋一に「天暦の御時歌合に」として出てゐる。天暦は村上帝の御代の年号で、実は天徳年中禁中の歌合に、兼盛の「忍ぶれど……」の歌と優劣を競うた時、忠見は右方に兼盛は左方に衣冠を正して着席したが、「忍ぶれど」の歌が勝と聞くや兼盛は喜びのあまり、他の勝負は見ずに拝舞して家に帰つたといふ話のある歌である。共によい歌であるが、少しこの方はひびきがない様に感じられる。 〔句意〕▼すてふ=するといふの意。「てふ」は「といふ」の約。▼まだき=早くもの意。予めといふのが本義で、日本紀には「予」の字をあててゐる。▼思ひそめしか=思ひ初めたものをの意。宇比麻奈備に「初めしが」と濁りを訓むべしとあるが、「しか」は「こそ」とあるから用ひたので、やはり清みてよむがよからう。 〔作者伝〕 壬生忠岑の子で、幼名を「多多」と言つて摂津に住んだ。歌が巧みで宮中に召された時、乗物のないので辞退した。帝は戯れに「竹馬に乗つて」と仰せられたので「竹馬はふしかげにしていと弱し今夕かげに乗りてまゐらむ」といふ歌を捧げたといふ。後醍醐帝に召され蔵人所に勧め、天徳二年摂津権大目となつた。忠見は歌を以て出世したが、兼盛と歌を争つて負けて以来悶々として遂に発病して死んでしまつた。又歌のために死を早めたのも不思議である。 〔補記〕 作者伝の「竹馬は」の二句目は、佐佐木信綱『百人一首講義』では「ふしがちにして」とありますが、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』では「ふしかげにして」となっています。『袋草子』が元の逸話ですが、そこには「ふしがちにして」とあって、表記が揺れるようです。 また、句意の最後の項目、「しか」か「しが」かの問題は、近世の注釈書は濁って「しが」とするのを支持しておりますが、白秋の指摘のように近代では係り結びを重視し、濁らずに「しか」と読むことが一般的です。「こそ~已然形」に逆接の意味を認めることで、「しが」説は退けられたようです。 〔蛇足〕 天徳四年の内裏歌合で、平兼盛の歌とつがえられまして負けてしまった歌であります。たしかに、負けはしたんですけれども...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(40) 平兼盛

40 平兼盛 忍ぶれど色に出にけり我恋は物や思ふと人のとふまで 〔評釈〕自分の恋は誰にも知られない様にと包み隠して居たが、思ふ心は自然に顔かたちにもあらはれたと見える。何かもの思ひでもあるのかと、人が尋ねる程になつた。 といふ意で、恋を秘め悩んでゐるものの心持が歌はれてゐる。忍恋歌として有名で又百人一首中でも秀歌たるを失はぬ作である。この歌は拾遺集恋一に「天徳の御時歌合に」と題して出てゐる。しかし真淵はこの歌は万葉集巻十八の「安必意毛波受云々」とあるを改作したものであらうと云つてゐる。或はさうかも知れぬ。 〔句意〕▼忍ぶれど=包み隠してゐるけれどの意。▼色に出にけり=自然に顔色にあらはれたといふ意。▼物や思ふと=物思ひをしてゐるのかとの意。この歌を我が恋は、しのぶれど物や思ふと人の問ふまで色に出にけり。と順序を変へて見るとよく理解される。 〔作者伝〕 光孝天皇の皇子是貞親王の曾孫で、太宰少弐篤行の子である。幼時から学問を好み大学寮に入つた。天元二年には駿河守まで進んだが正暦元年に没した。歌の外に漢学にも秀で図書頭を勤めた事もある。駿河守として任地に在る時、或女がその夫が他の女の所へ往つて帰らぬと訴へた申し文を歌に詠んで見せたので、居合せた源重之が歌を以て答へたといふ話もあるが、此頃の官吏はすべて風流であつた。女赤染衛門も有名な歌人である。 〔補記〕 評釈のはじめにある訳出部分で、「顔かたちにもあらはれ」という訳は不審で、句意にあるように「顔かたち」を「顔色」に改めたほうがよさそうです。 同じ評釈の末尾、万葉集の歌の初句を引いていますが、この歌は「巻十八」に入っています。白秋の昭和5年版はこれを「巻八」と誤っておりますのが、「十」の脱字かと思います。 作者伝の二文目末にある「大学寮に入つた。」の部分は、昭和5年版では「大学寮に入つて。」とありました。句点を読点に直してもよさそうでしたが、「て」を「た」と改めるにとどめました。この部分は、佐佐木信綱『百人一首講義』を元にしていたようで、そこには次のように詳しく書かれています。これを見る限り、「入つて」の後に、「及第して昇進し」のような文言があったのが抜け落ちたとみてよいでしょう。 兼盛もとより、和歌をよくして、漢学にもわたり、文才ある人なりしかば、わかくして、大学寮に入り 及第して、天暦の頃より、次第に昇進して、遂に 駿...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(39) 源等

39 参議等 浅茅生の小野の篠原忍ぶれど余りてなどか人の恋しき 〔評釈〕今まで胸の中に包み隠して居たが、思ひあまつて堪へられない程あの人が恋しいのはどうした事であらうか、自分ながら自分の心が疑はしい程である。 といふ自分を疑つた歌で、又止み難い恋の切なさが詠みあらはされてゐる。調子のよい面白い歌である。この歌は後撰集恋一に「人に遣しける」と題して出て居る。 〔句意〕▼浅茅生=茅のまばらに生えた原。「浅茅」は茅がまばらにあることで「生」は生えてゐる原である。▼篠原=篠の生えてゐる原。ここは篠を「忍ぶ」に云ひかけたので上の句は忍ぶの序詞である。▼余りて=思ひがあまつての意。▼などか=どうしてか、何故かの意。 〔作者伝〕 姓は源で、嵯峨天皇の皇子大納言弘の孫で、父は中納言希といつた。天慶元年に参議に任ぜられ、天暦五年正四位下となり七十三歳で薨じた。歌人としては別にこれといふ人ではない。作も極めて少い。いはば平凡な一生を送つた人らしい。 〔補記〕 句意の「余りて」は、昭和5年版では、平仮名で「あまりて」とありましたので、和歌の表記に合わせてみました。 昭和5年版の評釈の末尾に次のような一節がありました。参議等の歌とは無関係なものの可能性が高いので、今回あえて削除しておきました。    為家卿は「この歌毎句、花麗、返々かくこそありたく候へ珍重々々」と称へてゐる。 この為家卿の言葉は、戸田茂睡『百人一首雑談』に見える言葉ですが、内容を明らかにするために少々長めに、茂睡の文章を次に引用してみます。     人に遣わしける、 後撰 浅茅生のをののしの原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき 浅茅生は、あさくちがやおふると書ども、必それには限らず、何草にても生たるを云、浅茅が原と云も同じ、 参議雅経歌、   ゆく秋のわかれし野べは跡もなしただ霜ふかき浅茅生の原 定家卿の判に云、「あさぢ生たらん原は、あさぢふのはら、ことはりにたがひ侍まじけれども、常には浅茅生あさぢが原と申なれて侍るかや」と有、古今集に、   浅茅生のをののしの原しのぶとも人しるらめやいふ人なしに 此歌にてよみたる歌也、本歌の詞二句のうへ二字三字をゆるすといふは、此歌あるゆへなり、さりながら当代はかやうに読まじきにや、宗尊親王の歌に、   音羽山花咲ぬらしあふさかの関のこなたににほふ春風 「此歌毎句花麗、返々かくこそあり...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(38) 右近

 38 右近 忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命のをしくもあるかな 〔評釈〕見捨てられた我身の事は少しも思はないが、いまでも変らないと神仏に誓を立てて約束した君が神罰を受けはなさらないかと思ふと、心からその人の命が惜しまれてならない。 といふ意で、自分を忘れて相手を思ふ心を歌つた女らしい可憐な歌である。想像作ではなく実際であるところに同情が涌く。この歌は拾遺集恋四に「題しらず」として出てゐるが、真淵は「女ながらををしきまことの心をもちたる歌にて、奈良朝の風あり」と非常に称へ、又他説には「これは忘れられた腹立ちに俗に言ふふてくされに詠める心なり」と評してゐる。 〔句意〕▼わすらるる身=自分の身を言つたので先方の人に忘れられるの意。▼誓ひてし=神仏に誓ひを立てて契つたの意で次の「人」にかかる。「誓ひでし」と濁るは誤。▼人の命=誓つた男、見棄てた男の生命を云ふ。 〔作者伝〕 交野少将とも云ふ。右近少将季縄の娘で父の官名を用ひて右近と云つた。七条の后穏子に仕へてゐる頃、権中納言敦忠を恋人としてゐたが、後にその男が右近を棄てたのでこの歌「忘らるる」を詠んだといふ。 拾遺集や後撰集や新勅撰集などに合せて十首程の歌が出てゐる。 〔補記〕 句意の最初の語句は、次のようになっていましたが、文意が不明瞭なので、修正したものを掲示しておきました。   ▼わすらるる=身分の身を言つたので先方の人に忘れられるの意。 「わすらるる」を「わすらるる身」とし、「身分の身」を「自分の身」と改めています。 〔蛇足〕 評釈の後半、「真淵が」以下は、佐佐木信綱『百人一首講義』の引き写しですが、信綱の趣旨が分かるように、信綱の文章を掲げておきます。 此歌真淵翁は、女ながらををしきまことの心をもちたる歌にて、奈良朝の風ありと、いたくめでられ、一説にはさにあらず、こは忘れられたるを腹立ちて、俗に言ふふてくされてよめる心なりといへり、いづれか正しからむ、合せ記して後人の考をまつ。 つまり、賀茂真淵はこの歌を「雄雄しい」と捉えるものの、別の説では「ふてくされてよめる」歌だと評されていたため、信綱は判断を保留したわけですが、白秋は相手を配慮する「可憐な」乙女心の歌として理解したことになります。たぶん、昭和5年発行の『小倉百人一首評釈』は若い女性向けの雑誌の付録として企画されたので、読者に配慮したのでしょう。そ...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(37) 文屋朝康

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37 文屋朝康 白露に風のふきしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞちりける 〔評釈〕秋の野の草葉の上一面におき渡した白露が、秋風の吹くのにつれてぱらぱらと光つて散る。その様は、まるで糸を通してない玉がぱらぱらぱらとこぼれるやうである。 といふので珍らしく秋の野を美しく見て歌つたものである。格別傑作でもないが、白露の風のために落ちる景色をあざやかに詠み出して凋落の気分をまぎれさせた所は趣の変つた歌ひ方である。後撰集秋に「延喜の御時歌召しければ」と題して出てゐる。 〔句意〕▼風のふきしく=風が吹き頻ること、即ち頻りに吹き渡ることである。紀に「しく」は重り、又及ぶとあつてここは敷くの意ではない。▼つらぬきとめぬ玉=糸を貫いてない玉。大てい玉は糸に通してあるが、露のころころしてゐるのを糸を通さぬ玉にたとへて言つたのである。 〔作者伝〕 先祖は分明でないが、諸説はかなり多い。文屋康秀の子といひ又光孝天皇の仁和年中の人ともいふ。寛平五年の后宮の歌合や是貞親王の歌合等にも出た事があるやうに記録に見えてゐるが、とにかく貞観から延喜の頃の人で位も低かつた人である。 歌も古今集と後撰集に一首づつあるばかりで多く出てゐない。 〔補記〕 句意のところに出て来る、「紀」は、『日本書紀』の事だろうと思います。 〔蛇足〕 白秋は評釈において後撰集のこの歌の詞書を引用しておりますが、江戸時代の契沖『百人一首改観抄』以来、この詞書が疑われております。この「白露に」の歌は、菅原道真の『新撰万葉集』上巻87番にも採られているんですが、実は上巻は道真が『寛平御時后宮歌合』(左)および『是貞親王家歌合』などから、春夏秋冬恋合わせて百十九首を抄録し、それぞれに七言絶句の訳詩を加えたものでありますから、寛平年間に詠まれた歌でなければならないわけです。それなのに、「延喜の御時」とあるので、間違っている可能性があるということです。いろんなところに、問題が隠れているものです。これを、白秋が先行する注釈書で知っていても、ここで無視したことは別に問題ではありません。 しかしながら、この文屋朝康の歌には、従来の研究が無視して来た重大な問題がありますので、そのことを申し述べまして、その不思議な状況を報告いたします。 念のため、岩波書店刊行の新日本古典文学大系の『後撰集』から引用してみますが、片桐洋一先生が校注を施した本でありまして...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(36) 清原深養父

36 清原深養父 夏の夜はまだ宵ながら明ぬるを雲のいづこに月やどるらん 〔評釈〕夏の夜は短い、まだ宵だと思うてゐるうちにもう明けてしまつたが、今まで見てゐた空の月も見えなくなつた。まだ西へは入つた筈はないが、いつたいどこのどの雲の中に姿を隠したのだらう。 といふ意で、子供らしい感情が見えて童謡の様な気持のする懐しい歌である。この歌は古今集夏に「月の面白かりける夜暁方に詠める」と題して出てゐる。全体の調子も内容もよく合つてすらすらすらとした歌で、夏の夜の短さを詠んだ多くの歌の中でも又百人一首中でも優秀のものといへよう。 〔句意〕▼宵ながら=宵のままでの意、美しい月を眺めて、宵の心地ですぐ暁になつたといふのである。夏夜の短い様が察せられる。万葉には「初夜」と書いて「よひ」と訓んである。▼雲のいづこに云々=雲のいずれの辺にかくれたのであらう。 〔作者伝〕 元来清原氏は舎人親王の後ではあるが、深養父の家系は分明でない。筑前介房則の子といはれてゐるが、世に知られた人ではない。山城国愛宕郡に小野に深養父の建立した補陀洛寺があつてここに住んだらしい。これは平家物語にも見えて居り確であらう。歌の上手であつた事は古今集の外勅撰集には多く出てゐるのを見ても察せられる。 〔補記〕 近年の研究によれば、深養父は元輔の父、紫式部の祖父に当たるそうです。 なお、補陀洛寺は、京都市左京区静市静原町辺りにあったという寺ですが、白秋の指摘通り、 「平家物語」の「大原御幸」に、「鞍馬どおりの御幸なれば、清原深養父が補陀落寺、小野の皇太后宮の旧跡叡覧ありて、それより御輿にめされけり」とあり、後白河法皇が建礼門院徳子を訪問する途中に立ち寄っていることがわかります。 〔蛇足〕 評釈を見ると分かりますけれども、白秋はこの深養父の歌を大絶賛しておりまして、歌のテーマである「夏の短夜」の歌として優れているとか、百人一首でも優れているとか高い評価を与えております。その結果、思い入れたっぷりに訳してありますので、試しに、元の歌の語句に即した白秋の訳を取り出してみます。 夏の夜はまだ宵のうちに明けてしまったが、どの雲の中に月は姿を隠したのだろう。 こういう解釈は注釈書類でも圧倒的多数でありますから、最初にこんなふうに教わったら、疑いもしないことでしょう。ともかく、これを踏まえた上で、白秋が味付けをした部分を考えて見ると...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(35) 紀貫之

35 紀貫之 人はいさこころも知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける 〔評釈〕なつかしい故郷のやうな思ひのする初瀬へ久しぶりで来て見ると、主人の心は変つたかどうかそれは知らない。だが、ここに咲く梅の花だけは昔のままに匂つてゐる。 といふ意である。久しぶりで宿を借りようと思つて行くと、宿の主人が貫之のあまり久しぶりであることを取次の者に咎めた顔をさせたので、かへつてこちらから主人をうらみ返した歌で、作者の機智が見える。古今集の春上に入れてある。 〔句意〕▼人はいさ「人」は宿の主人をさす「いさ」は「否」で万葉には「不知」としてある。「いざ」と訓むは誤である。▼こころも知らず=人の心はどうか知らぬ。即ち人の心は変つたかどうか分らぬの意。▼ふるさと=古郷、即ち初瀬の事。今日の出生地をさす故郷ではなく、第二の故郷などといふそれにあたる。▼昔の香に匂ふ=昔そのままの香で咲いてゐるの意。 〔作者伝〕 家系は詳ではないが、父は望之といふ、歌人であつたといふ。延喜年中に御書所預であつたが延長八年土佐守となり、天慶年中に従五位に進み同九年に没した。古今集の撰者の一人で、万葉抄五巻、新撰和歌集をも選んだ。延喜の歌人では最上で三十六歌仙では人麿を左、貫之を右の第一としてゐる。全く和歌については勝れてゐた。又文章もよくし有名仮名文土佐日記は、彼が土佐守の任満ちて京へ帰る道中記である。明治三十七年に従二位を追贈された。 〔補記〕 作者伝の始めのところに、「延喜年中」とあるのは、昭和5年版では「延喜中」とありましたので、脱字を補いました。 また、「延長八年土佐守となり」とありますが、昭和5年版では「同八年土佐守となり」とあって「同八年」は「延喜八年」という内容になりかねないので、訂正しました。 さらに、「天慶年中に従五位に進み」は、昭和5年版では「天暦年中に従五位に進み」とありましたが通説に従い訂正したものです。よって、紀貫之の没年も、天慶九年という文脈になります。なお、現在は天慶八年に紀貫之が没したとするのが定説です。 作者伝の末尾の記事が気になりますが、明治時代に従二位を追贈された歴史上の人物は多いようです。なお、紀貫之の次に追贈されたのは上杉謙信(明治41年)です。 〔蛇足〕 紀貫之の歌が詠まれた事情は白秋の説明通りですが、『古今集』巻第一・春上42番の詞書を引用すると、次のように書いてあ...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(34)  藤原興風

34 藤原興風 たれをかも知る人にせん高砂の松も昔の友ならなくに 〔評釈〕自分はひどく年をとつて、昔の友達も今は一人も生き残つてゐない。まあ誰を友として交つたらよからう。せめてあの高砂の松でも友として語りたいが、あの松とても昔ながらの友ではない。 といふ意で、老後に友達のない淋しさを嘆いた歌である。この老人の心には読者も同情するであらう。古今集雑上に「題しらず」として出てゐる。 〔句意〕▼誰をかも=誰をまあと云ふ意で「か」は疑意「も」は歎辞である。▼知る人=知己の義。▼高砂=播磨の国の名所とする地名説と、ただ山の事とする説があるが、ここはただ山の意に解して置く。▼友ならなくに=友でないからの意。「なく」は「ぬ」の延語で友ならぬにといふところである。 〔作者伝〕 参議浜成の曾孫で、正六位相模掾道成の子である。延喜十四年に下総権大掾に任ぜられて従五位を授けられた。特に逸話も遺つて居ないが拾芥抄によると琴の名手であつたやうである。 〔補記〕 特に誤植などは見つかりませんでした。 〔蛇足〕 白秋が句意の「高砂」のところで触れているように、高砂が播磨の国の名所か、普通名詞かという対立が古注釈に存在する。佐佐木信綱『百人一首講義』は、「高砂は播磨の国の名所なり」と言い切っているので、白秋はその意見を受け入れなかったようです。尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』も名所説をうちだしていて、どうやら白秋は契沖の『百人一首改観抄』などの意見を採用したようです。特定の名所の松を引き合いに出すのでないと、歌として成立しないような気がいたします。 さて、ここで取り上げる歌は、孤独を嘆いた歌でありますが、心配には及びません。この世に産声を上げて生まれた時も、知っている人なんていなかったわけですから、本人が気付かなかっただけで、死ぬまでずっと孤独だったかも知れませんね。角川ソフィア文庫に入っている『新版百人一首』(島津忠夫さん)をみると、異説はあるが鑑賞には問題にならないというようなまとめがしてありまして、そうかそうかと納得しようとして、まったく納得できなくなってしまいました。むしろ、もとの歌の見かけの簡単さに比べて、諸説紛々、こんな地味な歌なのにおさまりが付かないのを、島津先生はめんどくさいと思って切り捨てようとなさったみたいであります。 念のため、片桐洋一さんの『古今和歌集全評釈』を見てみたら、これ...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(33) 紀友則

33 紀友則 ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらん 〔評釈〕うららかな日の光。穏かで、風もないかうした長閑な春の日に、どうして花はあのやうに落ちついた心もなく、あわただしう散るのであらうか。 といふ意で、春に酔つた大宮人の姿が見えるやうである。調子ものんびりとして春の歌としては申し分ないものであらう。古今集春下に「桜の花の散ると見て詠める」と題してある。 〔句意〕▼ひさかたの=天、日、月等の枕詞であるが、ここは光の枕詞でなく太陽の意と解する方がわかりがよい。▼のどけき=長閑な意。▼しづ心なく=静心なくで、静かな落ついた心もなく気ぜはしくの意。▼散るらん=散るのであらうの意。何故にと疑ふ意で想像ではない。 〔作者伝〕 父は宮内権少輔有友といはれてゐる。延喜四年に大内記に進み従五位となつた。歌も巧みで古今集の選者の一人となつたが途中で没した。貫之や忠岑の悲んだ歌は古今集にある。嘗て歌合に「初雁」を題としたのに友則の歌の上の句「春がすみ」と講師が読み始めた。列席の人々は「秋だのに春がすみとは」と笑つたが、下の句「かすみて去にしかりがねの今ぞ鳴くなる秋霧の上」といふ名歌であつたので笑つた人々は大いに恥ぢ入つたといふ話もある。 〔補記〕 特に誤植というほどのものはありませんが、次の二箇所について言葉を補いました。 まず、句意の最初の語句「ひさかたの」は、昭和5年版では「ひさかた」とありましたので、「の」を補いました。なお、佐佐木信綱『百人一首講義』でも「久方は、もと日といふ事の枕詞なる」とありますので、補う必要はないのかもしれません。 次に、作者伝の後半、歌合の話題ですが、「講師が読み始めた」の部分は、昭和5年版では「読み初めた」とありましたので、主語を補い、漢字を「初」から「始」に代えました。「講師」は、詩歌の会の時に読み上げて披露する係の事で、旧仮名遣いで示すと「かうじ」です。友則本人が、その場で歌を詠み、自身で読み上げたわけではないはずです。 〔蛇足〕 白秋の解釈の特徴は句意の部分に尽きておりまして、基本的には佐佐木信綱『百人一首講義』を踏襲しております。例えば、信綱は「久方は、もと日といふ事の枕詞なるを、やがて日の事にもちひたるなり」と言っていて、枕詞ではないというようなニュアンスです。助動詞「らん」に関しても、白秋は現在推量ではなくて、原因推究と呼ばれ...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(32)  春道列樹

32 春道列樹 山川に風のかけたるしがらみはながれもあへぬ紅葉なりけり 〔評釈〕この山川にかけ渡した柵がある。よく見ると、それは吹き散らされた紅葉が水の上に溜つて流れ出ることが出来なくなつてゐるのである。ああ風が持つて来てかけたものだ。 といふ意で、風に吹かれて散つて来た紅葉が多いので流れ切れず、柵のやうになつてゐる様子を風のかけたしがらみと言つたのである。一寸南画のやうな趣がある、古今集秋下に「志賀の山ごえにてよめる」と題して出てゐる。 〔句意〕▼山川=山の中の川の意で「やまがは」と濁つてよむ事。「やまかは」と清むときは「山と川」といふ二つ並べた意味の時である。▼しがらみ=流を防ぐ為に川中に杭を打つて竹柴などをからみつけた垣の事。又川岸の崩れを防ぐためにも作る。ここは前の意。▼流れもあへぬ=流れることの出来ぬ、又流れも切れぬの意である。 〔作者伝〕 従五位下雅楽頭新名宿禰の長男であるといふ。祖先は宇比麻奈備には大和国の春道村に春道社があるから此処から出た氏だらうといつてゐる。 延喜二十年に文章生から壱岐守に任ぜられ、又出雲守に転じた。 歌はあまり名高くないが、古今集や後撰集には数首見えてゐる。 〔補記〕 特に誤植のようなものは、見当たりませんでした。 〔蛇足〕 白秋の句意の「しがらみ」は、取り上げた歌の解釈に必要な解説でありますが、現代的な「しがらみ」の解説を考えて見ると次のようなことになるでしょうか。 しがらみ……人間関係の中で生じたやっかいな関係で、人の気持ちや行動を制限するもの。本来は、木や竹などを組み合わせて、水の流れを抑制し、時には不要なものを留める造作。 「しがらみ」という言葉のニュアンスが、今現在使われるものと違うところが、面白く感じる歌であります。本来はそういうものでしょうが、我々は憂き世のしがらみにがんじがらめでありまして、好きなことを言ったり、好きなことだけをしていたり出来ないのであります。好きだったものがノルマになたったら重たいわけで、遊びが遊びでない、息抜きが息抜きでないこともあるわけです。このブログは、どうなんでありましょう。好きなことを好きなようにしていたら、暴れ馬でありまして、近代短歌における正岡子規さんは、古典の和歌を蹴散らす暴れ馬であったのでしょうか。 「しがらみ」というのは、漢字で書くと「柵」でありまして、柵(さく)のことなんで...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(31)  坂上是則

31 坂上是則 朝ぼらけ有明の月と見るまでによし野の里にふれる白雪 〔評釈〕吉野の里へ来て宿つて、明け方に起きて見ると、外は真白であつたが、これは有明の月の光であらうと思つてゐると、それは白雪の降り積つてゐるのであつた。 といふ意で、とりわけ技巧も用ひてないが、雪の降つた朝の景が、絵のやうに目に浮んで来て、感じの強い歌である。この歌は古今集冬に「大和の国にまかりける時、雪の降りけるを見てよめる」と題して出てゐる。 〔句意〕▼朝ぼらけ=夜明の事。夜がほのぼのと明け渡る頃を云ふ。▼有明の月=夜が明けてからまだ天に残つて居る月。▼見るまでに=見る位に、見るほどにの意。即ち雪の白く輝いてゐるのを、月の光と見るほどの意。 〔作者伝〕 坂上田村麿から四代目の好蔭の子で、醍醐朱雀の二朝に仕へた。初め御書所の役人であつたが、延長二年正月に従五位下となり、加賀介に任ぜられた。 才学に富み、又蹴鞠も巧みで、延喜五年に仁寿殿で二百六度まで連足に蹴つて一度も落さなかつたので帝の勧賞にあづかつて絹を賜つた事も書に見えてゐる。歌も勅撰集に多く出て居り、是則の誉が高かったため、子の望城は後撰集の撰者となつた程である。 〔補記〕 句意のところで、有明の月の説明がありますが、昭和5年版は「前に既に説明した故省く。」となっていました。一つ前の壬生忠岑の歌との重複を避けたようですが、修正しました。 作者伝には多くの問題があります。 蹴鞠の話題で出て来る「延喜五年」は、昭和5年版では「延長五年」とありました。延喜五年(905)は、蹴鞠の資料として知られる源高明『西宮記』に即しているので、延長五年(927)を誤りと見て直しました。 また、「連足」は「つづけあし」と読むと思われますが、昭和5年版では「連足」、佐佐木信綱『百人一首講義』は「連音」、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』では「連足」と表記が揺れていました。蹴鞠の専門用語には「連延足」(つづけのびあし)があるので、そのままにしました。 さらに、「帝の勧賞にあづかつて」は、昭和5年版は「帝の感賞にあづかつて」とありましたが慣用句に改めました。 作者伝の最後、昭和5年版では、「歌も勅撰集に多く出て居り、後撰集の選者となつた程である」となっていて、あたかも是則が後撰集撰者のような表現でありましたが、脱落があると見て信綱や雅嘉の記述を元に修正しました。「選者」も、「撰...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(30) 壬生忠岑

30 壬生忠岑 在明のつれなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし 〔評釈〕有明の月が夜の明けるのも知らぬやうな顔で空にあるやうに、あの女もつれない冷淡な態度をしてゐたので、すげなく別れて帰つたが、それ以来、その悲しかつた別れが思ひ出されて、明け方程いやなものはない様になつた。 といふ意で、思ひの遂げられずに帰る片恋の哀れさが身にしみ渡る様な歌である。 この歌は古今集恋三に「題しらず」として出てゐるが、古今第一の歌といはれてゐる。後鳥羽院が古今第一の歌をお尋ねになつた時、定家卿と家隆卿は共にこの歌を書き上げられ、又俊成卿も推選したといふ名誉の歌である。 〔句意〕▼在明の=ここではつれなくの枕詞に用ひた。夜が明けてからまだ天に残つて居る月。▼つれなく=無情である。何とも思はぬ事。憐れを見ても何も感ぜぬふりで平気で居ること。▼暁ばかり=暁ほどの意。▼うき=憂きで、辛い又せつないの意。 〔作者伝〕 姓氏録に「天足彦国押人命の後」と云ひ、又壬生部公は崇神天皇の後とあるが果して忠岑の祖であるかは分明でない。初め泉大将藤原定国の随身をしてゐた頃、歌を詠んで愛せられた事もある。又延喜年中の禁中歌合に「在明のつれなく…」を詠んで帝の御賞めに預つて昇殿を許され、貫之、躬恒と共に、古今集の撰者を仰せつけられてゐる。大変歌は上手であつた。康保二年九十八歳で没した。 〔補記〕 この歌の記事に関しては、昭和5年版は誤植が多くありました。 評釈の末尾のエピソード部分で、「後鳥羽院が」と言う部分は、「鳥羽院が」となっていましたので脱字「後」を補いました。定家・家隆は後鳥羽院時代の歌人です。 句意の最初の語句は、「在明の」という初句の引用ですが、ここが「在明の月」とありましたので、「月」を衍字と見て削りました。 作者伝の最初の所、「天足彦国押人命の後」とありますが、ここが「天足彦国押内命の後」となっていたので、「内」を「人」の改めました。「あめたらしひこくにおしひとのみこと」と呼ぶ皇族ですが、「あめ」は「あま」と呼ぶこともあるようです。 作者伝の後半、「延喜年中」とありますが、ここが「延喜中」となっていて脱字がありましたので「年」を補いました。 〔蛇足〕 白秋は思い入れたっぷりに訳しておりますが、句意によれば、「在明の」は「つれなく」の枕詞に過ぎず、また「つれなく」は、句意では「無情で」「平気で」...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(29)  凡河内躬恒

29 凡河内躬恒 心あてに折らばやをらむ初霜の置きまどはせる白菊の花 〔評釈〕若し菊を手折らうと思ふなら、ただ心で推し量つて折るより仕方があるまい。初霜が真白に降つて、どれが白菊の花やらさつぱり見分けがつかないから。 といふ意である。如何にも大霜らしく思はれる。この歌は古今集秋下に「白菊の花をよめる」と題して出てゐるが、大げさに奇抜な形容である。躬恒の特徴であらう。 〔句意〕▼心あてに=おしはかりに。大ていこれだらうと推量する意。▼折らばやをらむ=折つたら折られようかの意で強い疑問ではない。▼おきまどはせる=置き惑はせるで、「おき」は霜の降ること、「まどはせる」は霜と花との見分けのつかぬこと。とにかく大霜である。 〔作者伝〕 古事記や日本紀に、「天津彦根命是凡河内国造等祖也」とあるが、父祖は分明でない。 官は歌などによつて見ると寛平の頃甲斐少目となり、後御厨子所を兼ねたらしい。官の低い人であるが、歌人としては名声が高かつた。古今集を勅撰になつた時も、貫之、忠岑等と撰者を仰せつけられてゐる程で、延喜時代の代表歌人として知られてゐる。 〔補記〕 特に誤植のようなものは見当たりませんでした。 〔蛇足〕 白秋の評釈は、かなり意訳しておりまして、元の和歌と相違点がありますので、理解するのに少し工夫がいるかも知れません。注目は、句意で「まどはせる」を「霜と花との見分けのつかぬこと」と指摘し、そこを踏まえて「大げさに奇抜な形容」と断じているところでしょう。従来の注釈者も大同小異、白秋と同じ理解を示しているものです。この解釈の問題点は、「まどはせ」という動詞が補助動詞のはずなのに、そうではなく「見分けをつかせなくする」という意味にとるところと、もう一つ、躬恒の歌が倒置法であることに気付かず、下三句を上二句の理由を述べたものとして末尾に「から」を補うところです。分かりやすくするために、四段活用動詞の「まどわす」の已然形である「まどはせ」を省いて、完了存続の助動詞「り」の連体形である「る」を、同じ意味の助動詞「たり」の連体形「たる」に置き換えてみたいと思います。さらに、倒置法を汲んで、上下を逆転して、間に格助詞の「を」を補い、さらにさらに、語順を少々直してみると、次のようになるでしょう。   初霜の置きたる白菊の花を、折らばや、心あてに折らむ。 躬恒が言いたいのはこういう内容であります...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(28) 源宗于

28 源宗于朝臣 山里は冬ぞ淋しさまさりける人めも草もかれぬと思へば 〔評釈〕山里は四季を通じていつでも淋しいものだが、とりわけて冬になると淋しさが増す。草も枯れるし、訪ねて来る人も絶えてしまふ。全く淋しいことだ。 といふ意で、冬の景色の淋しさと共に作者の寂しい心持も現はれてゐる。この歌は古今集冬に「冬の歌とて詠める」として出てゐる。宇比麻奈備や改観抄には「草も」といふのを「草のみでなく草木の意だ」と言つてゐるが、その通りであらう。 〔句意〕▼人め=人目で、人が物を見る事。人目がかれるといへば、見る人がない事で即ちここは訪ねて来る人がなくなるの意に用ひたのである。▼と思へば=枯れたからといふ意味に軽くそへた言葉である。歎きの調子を加へたにすぎぬ。古い歌にはかなり用ひられてゐる。 〔作者伝〕 光孝天皇の皇子一品式部卿是忠親王の御子で御父親王は出家して南院宮と申した。 承平二年十月正義四位右京太夫となつたが天慶三年に卒した。歌才もあつたと見え、古今集を始め、勅撰集には多くの作が見えてゐる。 大和物語に「宇多の院の花おもしろかりける頃南院の公達これかれ集りて歌よみなどしけるに右京のかみ宗于のよまれたるうた「来てみれば心もゆかず故郷は昔ながらの花はちれども」とある。 〔補記〕 作者伝のところに二箇所修正したところがあります。 一つは、「古今集を始め」の部分で、昭和5年版では「古今集撰を始め」とあったので、「撰」を省きました。 もう一つは、「宗于のよまれたるうた」の部分で、昭和5年版には「宇于のよまれたるうた」とありましたので、「宇」を「宗」に改めました。 〔蛇足〕 非常に有名な歌であります。掛詞の例として度々使われますから、記憶している方もいるだろうと思うのであります。冬になると草も枯れて人目も離れるから、山里は寂しさがまさるというのが、もとの源宗于朝臣の歌でありまして、「人目も離れぬ」というのが、現代語ではないわけで、それを除けば非常に分かりやすい歌なのであります。白秋が訳の最初に補っているように、「山里は四季を通じていつでも淋しいものだ」というのが、この歌の前提でありまして、平安京の市街地に対して、山里を歌の舞台として発見し、そこに積極的な美を見出して行くというような時代の流れに即した歌です。 本居宣長や香川景樹が、この歌の末尾の「思へば」が不要であると噛み付いているら...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(27) 藤原兼輔

 27 中納言兼輔 みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ 〔評釈〕あの人を何時見たといふこともないのに、どうしてこのやうに恋しいのであらう。つい一度も見た事もない人を恋して心を悩ますことは、我ながら不思議でならない。 といふ意で、自分を咎めながら又思ひ止められぬ恋のあこがれが詠まれてゐる。調子も流麗で、面白い歌である。改観抄に「この歌もよみ人しらずなるを新古今集にあやまりて兼輔卿の歌として入られたるを、今はそれにより給へるなり」と言つてゐる。 〔句意〕▼みかの原=山城相楽郡甕の原の事、昔瓶を埋めたので川水が流れ入つて涌いて出るといふ伝説もある。▼泉川=同所で今の木津川の上流。泉は湧いて出るから、わきて流るるにつけたのである。▼いつみきとてか=いつ見た事があつての意。「泉川」の「泉」から言ひかけたのである。「いつ」を「いづ」と濁つてはならぬ。 〔作者伝〕 右中将利基の六男で延喜五年従三位中納言に進んだが、承平三年五十七歳で薨じた。加茂河の堤の下に家があつたので、堤中納言とも言つた。歌人としては相当名のあつた人で、歌集もある。又文章も巧みで堤中納言物語はこの人の作である。紫式部の父為時は兼輔の孫にあたる。 〔補記〕 句意の「甕の原」は「みかのはら」と読みます。「甕」は、「みか」であるが、「かめ」とも訓じることがあります。そのあとに出て来る「瓶」も、ここは「かめ」と訓じるつもりで使ったと思われます。現代では「びん」と読ませることがありますが、文意からしてここは「びん」ではないはずです。 中納言兼輔は藤原氏。紫式部からすると、兼輔は父方の曾祖父となります。 〔蛇足〕 「みかの原」というのは、忘れ去られた古都で、奈良の手前にある小さな盆地に位置していたといいますが、どこにあるのと言うような忘れられた場所です。「分きて」のところは「湧きて」が掛けてあり、「泉」と縁語になっています。それから「いつ見」のところに、「泉」が隠れていて、同音反復であり、上三句つまり五七五の部分が、序詞になっている、なかなか修辞技巧のきいた歌と言えましょう。最後の所は修辞疑問であり、「見たわけではないが恋しい」ということを言っています。白秋の訳も以上を踏まえていると見てよいでしょう。 これでも問題は山積していて、白秋が契沖の『百人一首改観抄』を引いて注意喚起するように、この歌は...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(26) 藤原忠平

26 貞信公 小倉山峰のもみぢ葉心あらば今一度のみゆきまたなむ 〔評釈〕小倉山の峯の紅葉よ、もし心があるならば、もう一度天皇の行幸もある事であらうから、それまでは散らずにお待ちしてゐてくれよ。 との意で、宇多天皇が御幸遊ばされて「今上帝の行幸があつてもよい所だ」と仰せられたのを貞信公がお供の中に居て、帰つてから奏聞いたしませうと言つて、この歌を詠まれたのである。拾遺集の雑秋に「亭子院大井川に御幸ありて行幸もあるべき所なりとおほせ給ふに事のよし奏せんと申して」と題して出てゐる。 〔句意〕▼小倉山=京都の西北大井川のほとり、嵐山に近い所にある紅葉の名所。一説に今の嵐山であるとも言ふ。▼みゆき=上皇のお出ましを御幸と書き、天皇のお出ましを行幸と書くが何れも「みゆき」と訓む。▼またなん=待つて居てくれよとの意。 〔作者伝〕 実名藤原忠平で、太政大臣基経の子である。延喜十四年右大臣に、承平六年に太政大臣に進んだ。天慶四年に摂政となり更に三宮に准ぜられた。小一条に住んだので小一条の太政大臣ともいふ。寛仁な人で政治上も熱心で醍醐朱雀村上の三帝に仕へ、信任が篤かつた。歌人としては別に申す程でもなかつたやうである。 〔補記〕 ここも、特に誤植のようなものも見当たらなかった。 〔蛇足〕 さすがに、問題がなさそうな歌であります。宇多上皇が紅葉の名所である大井川にお出ましになって、息子の醍醐天皇に見せたいというものですから、藤原忠平(貞信公)が醍醐天皇に奏上したという歌でありまして、紛れるところはありません。「みゆき」というのは、上皇の「御幸」やら天皇の「行幸」を指す言葉でありまして、要するに天皇のお出ましを待って散らずにいて欲しいと言うことなのでありますね。 この、最後の「なむ」というのは、願望・希望の終助詞などと言うものでありまして、白秋は「またなむ」を「お待ちしてゐてくれよ」と訳出し、句意としては「待つて居てくれよ」としています。この助詞は、成就しがたい無理な願いを頼むものでありまして、大概は止めることの出来ない自然の流れなどに対して、強引な要求をするものなのです。だから、待って欲しいとは言っていても、無理を承知している表現なのです。だとすれば、「小倉山のもみじ葉は、まもなく散ってしまいますから、お早めにお出まし下さい」というようなお誘いが裏に存在するわけです。「行かないと散りますよ...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(25) 藤原定方

25 三条右大臣 名にしおはば逢坂山のさねかづら人にしられでくるよしもがな 〔評釈〕逢坂山の逢ふといふ字が、その名の通りであるなら、その逢坂山に生えてゐるさねかづらを手にたぐるやうに、人に知られぬやうに、私の方へ忍んで来る仕方もないものだらうか。 といふ意で、或女の許へ送つた歌で、素直に穏健に出来てゐる。そして何となく懐しさがある。この歌は後撰集恋三に「女の許につかはしける」と題して出てゐる。人に知られでの「で」は必ず濁ること。 〔句意〕▼名にしおはば=名の通りならばの意。「し」は強めた助辞。▼逢坂山=山城と近江の境にある山で、「逢ふ」といふ詞にかけてある。▼さねかづら=五味子といふ実のなる草。美男かづらとも云ふ。「さね」は「小寝」で寝る事にかけた。「かづら」は蔦かづら等の様に長く延びてゐるから手で繰ることを、人の来るの意にかけたのである。▼くるよしもがな=来る方法もありたいものと願ふ意。 〔作者伝〕 本名は藤原定方、勧修寺家の祖、良門の孫で父は内大臣高藤である。醍醐帝の延長三年に大納言から右大臣に任ぜられその女は入つて宇多帝の女御となつた。承平二年八月六十歳で薨じた。三条に住んだので三条右大臣といつたのである。 〔補記〕 ひとつ前の歌と同様に、誤植の類は見られませんでした。ただし、作者伝の「その女は入って」は「その女は後宮に入って」などとあるほうがよさそうです。この場合、「女」は「むすめ」と訓じるのが普通です。 なお、「さねかづら」は、かつてはモクレン科に分類されていましたが、現在はマツブサ科に入っておりまして、その中でサネカズラ属に分類されているそうです。植物分類は、分子系統学の発達で刷新されておりまして、見た目による分類だった昔とは様変わりしております。 〔蛇足〕 尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』は、それぞれの歌人の逸話が盛りだくさんで、百人一首の注釈書というよりは、百人に関する説話集の趣をした楽しい読み物であります。ひとつ前の菅家すなわち菅原道真に関してもかなりのページを割いていたんですが、この三条右大臣すなわち藤原定方に関しては、書くことがなかったようであります。歌物語に分類される『大和物語』の中にいくつかエピソードがあるんですが、ひとつ紹介してみましょう。 三条の右の大臣、中将にいますかりける時、祭りの使にさされていでたちたまひけり。通ひたまひける女の、絶え...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(24) 菅原道真

24 菅家 このたびはぬさも取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに 〔評釈〕この度の旅は、朱雀院のお供の旅で取急いで出かけたので、途中で神々に奉る幣も持つて参りませぬ。それで、ただ今この山の神に手向け奉る幣は、とりあへずここに美しく紅葉してゐる紅葉の錦を、幣として置きますが、どうぞ神の御心まかせに幣として御覧下さい。 といふ意で、菅公の神を敬ふ精神と、当時の朝廷の御風がしのばれる。この歌は古今集覊旅部に「朱雀院奈良におはしましける時、手向山にてよみ侍りける」と題して出てゐる。朱雀院は宇多天皇の御事である。 〔句意〕▼このたびは=今度の意に「旅」をかけて用ひたのである。▼ぬさ=神にささげる色々の帛の事。絹布を細く刻んで、袋に入れて、途中の神々に捧げて、道中の安全を祈つたのである。▼とりあへず=とりもあはせずで、とる暇もなくの意。▼手向山=奈良にある山、幣を「手向ける」にかけた。▼まにまに=心まかせの意。 〔作者伝〕 菅家とは道真の事。その祖は土師氏で、父是善は参議従三位となつたよい家柄である。 幼時から学を好み、特に文学に秀で、賢明のほまれが高かつた。元慶元年に文章博士、昌泰二年に右大臣に昇り、宇多上皇、醍醐天皇の御信任を篤うしたが、藤原時平の讒によつて筑紫に流された。太宰府で悲しい月日を送り、五十九歳を以て配所で薨じた。詩歌の優れてゐた事は既に皆承知の事であらう。 〔補記〕 珍しく誤植などが見当たりませんでした。 〔蛇足〕 白秋の評釈における解釈は、「幣」という言葉が四回も繰り返されて錯綜しているので、元の道真の和歌の表現に即して簡単に示すと、次のようになります。 この度の旅は、幣も持って参りませぬ。手向け奉る(手向山の)紅葉の錦を、神の御心まかせに(幣としてご覧ください)。 白秋が句意で明らかにしているように、「たび」が「度」と「旅」の掛詞として二度訳してあります。「手向山」も地名と「(幣を)手向ける」の掛詞ということですけれども、白秋の訳には「手向山」が「この山」となっているので、「紅葉」の前に「手向山の」とかってに補ってみました。こうしてみると、「幣としてご覧ください」が元の和歌にない補いでありますが、これは尾崎雅嘉『百人一首一夕話』や佐佐木信綱『百人一首講義』に従ったもののようです。現代の注釈書では、この補いが「お受け取り下さい」でだいたい統一されておりまして...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(23) 大江千里

23 大江千里 月見れば千ぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど 〔評釈〕秋の月を見ると、色々な悲しみが胸に浮んで、悲しい心持がする。世の人は誰も秋の心にうたれてゐて吾身独りが寂しいのではないのだが。 といふ意で、秋の悲しみが身に迫るやうな心持がする。この歌は古今集秋上に「是定のみこの家の歌合の歌」と題して出てゐる。 改観抄に「千里は儒家で、白氏文集中秀句を題として詠まれたる歌多し。しかればこの歌も燕子樓中霜夜月、秋来只為一人長といふを翻案したるにや」といつてゐる。如何だらうか。とにかく歌は巧みに出来てゐる。 〔句意〕▼ちぢ=数多い事。「千ぢ」とも書き、「ぢ」は「よそぢ」(四十)「いそぢ」(五十)の「ぢ」にあたり、又「一つ」「二つの」「つ」にあたる。物を数へる詞である。「千々」「千千」と書くは誤。▼わが身ひとつ=自分一人の意で、上の千と下の一と対照させたところは上手な技巧である。 〔作者伝〕その祖は土師氏である、参議大江音人の第二子で文学のほまれの高い家柄に生れた。漢詩や和歌に秀で、古人の詩の句を選んで自分の歌を詠みそへた句題が百二十首もある。外に歌集もあり、和歌にかけては当代一流の名匠といへよう。官は元慶七年備中大丞に任ぜられ、延喜三年兵部大丞に進んだ。 〔補記〕 白秋の評釈の後半、「歌多し。しかれば」は、「歌多ししかれば」とあったので、読点を補いました。 また白氏文集の「為一人長」の部分に返り点や送り仮名が振ってありますが、残念なことに乱れております。恐らく、「一人ノ為ニ長シ」と詠ませたかったのでしょうけれど、「ノ」と「ニ」の位置が間違っておりました。校正が行き届かなかっただけでしょう。 また、作者伝の中にある「句題が百二十首もある」は、「句題が百二十首もる」と脱字があったので、「あ」を補いました。 〔蛇足〕 白秋は評釈において、契沖の『百人一首改観抄』を引用しておりますけれども、七言絶句の後半を出すにとどめておりまして、これは粉本の佐佐木信綱『百人一首講義』の孫引きですが、信綱は尾崎雅嘉『百人一首一夕話』から拝借しているようです。それではあんまりなので、白楽天の『白氏文集』巻15「燕子楼三首并序・其一」を丸ごと掲示してみます。 満窓明月満簾霜  窓に満ちる明月 簾(すだれ)に満ちる霜 被冷燈残払臥床  被(ふとん)は冷たく 燈(ともしび)残して臥床を...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(22) 文屋康秀

22 文屋康秀 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ 〔評釈〕山風が吹くと、すぐこんなに秋の草や木が、萎み枯れてしまふから、山風の事をあらしといふのは道理のある事だ。 といふ意で、その景を眼前に見て山風の嵐といふ理を感じたのである。古今集の秋の下に「是貞の親王の家の歌合のうた」として出てゐるが、古今六帖には二の句を「なべて草木の」とあり、古今集序には「野べの草木の」とある。作者も「ふむやのあさやす」とある。佐々木信綱も「この歌の作者は康秀にあらず康秀の子朝康なり」と断定してゐる。 〔句意〕▼吹くからに=吹くとその為にの意。▼しをる=木の葉が散り草が萎れて枯れる事。▼むべ=最もの意。又成る程、道理だ等の心。古書には「宇倍」又「烏米」とも書き、「宜」「応」「諾」にあたる。▼あらし=山から吹き下す風で、ここは物を荒す意と、山風と書いて嵐といふ事にかけたのである。 〔作者伝〕康秀の系譜は分明でないが、姓氏録に「天武天皇の皇子二品長親王之後也」とある。元慶五年には縫殿助に任ぜられた。清和陽成頃の人である。 貫之が「ふんやのやすひでは詞たくみにて、そのさま身におはずいはば商人のよき絹着たらんが如し」と評したのは、歌調の卑しい所があるからでせう。しかし三十六歌仙の一人であるから、相当の歌人に違ひない。 〔補記〕 白秋の評釈の中に、古今六帖の二句目を「なべて草木の」と指摘している部分は、昭和5年版では「なべての草木の」となっています。この部分、佐佐木信綱『百人一首講義』では、「なべて老木の」となっており、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』では「なべて草木の」とあります。古今六帖では一般に「なべて草木の」とあるので、それに従って「の」を一つ削りました。 また、古今集序の二句目「野辺の草木の」は、昭和5年版では「野辺の草木」とありますが、これは佐佐木信綱『百人一首講義』の引き写しで「の」を脱したらしく、なんとなく、校正が間に合っていない印象です。 白秋の句意の中に、「むべ」の説明がありますが、この「むべ」の前にある▼の記号が昭和5年版では抜けていたので補いました。 白秋の作者伝における古今集仮名序の引用部分にある「いはば」の「は」が、昭和5年版では「に」となっていたので、誤植とみて訂正しました。 〔蛇足〕 文屋康秀の歌は、一見すると非常に分かりやすい歌のようですが、実は解釈...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(21) 素性法師

21 素性法師 今来むといひしばかりに長月の有明の月をまち出でつるかな 〔評釈〕今すぐ来ようと一言いつたばかりに、それを信じて、この九月の末の長い夜を、今来るか今来るかと待ち侘びたが、約束の人は来ずに、待ちもしない明方の月が出た。ずゐ分待ち更かしたものだなあ。 といふ意である。この歌は古今集恋四に「題しらず」として出てゐる。下句などは短い言葉の中に余情のある歌ひ方である。 〔句意〕▼今来むと=今直ぐに来るとの意。先方の人から言へば「すぐ行く」の意となる。▼いひしばかりに=言つたばかりで、一言あつた為との意。▼長月=陰暦九月の事。▼有明の月=廿日過ぎの月、夜明まで空に残つて居るから有明の月といふ。▼待ち出でつる=待つて居て月が出たの意。百人一首抄に「二条家にては春夏を待ちくらし又秋の長月の有明まで待ちたるなり」とあるが、今すぐ来るといつた程の人を幾月も待つとは信じられぬ。「出でつる」は「出づる」ではない。 〔作者伝〕 僧正遍昭の出家前の子で、俗名良峯玄利といふ。清和帝に仕へ右近衛将監まで進んだが、後出家して素性と改名し、父の雲林寺や大和の石上の良因院に住んだ。昌泰元年宇多法皇が吉野の宮滝御覧の時召されて御案内申し上げ、又和歌を上つて旅の御心を慰め申した。和歌は巧みで延喜九年に天皇の御前の屏風に歌を書いた事もある。「素性法師集」といふ歌集も出てゐる。 〔蛇足〕 白秋も句意のところで触れている通り、素性法師のこの歌については、一夜だけ相手を待っていたのか、延々と待っていたのかと言う解釈の対立があります。さらに、この歌の中における、現在時刻についても、近年の注釈では混迷しているようです。ぱっと見には簡単な歌ですが、解釈する人によって思いがけない様々な情景が描かれてしまう歌と言えそうです。三十一文字の定型表現ですから、解釈が定まらない時も多いのです。 さて、「待ち出づ(まちいづ)」と言う動詞は、現代語なら「待ち出る(まちでる)」という動詞となるはずですが、『日本国語大辞典』(第二版)はその形での項目の掲示を見送ったようで、「まちいず」「まちず」として掲載しております。「まちいず」については、「待ち受けていて会う・出て来るのを待つ」と言い換えているんですが、そういうふうに「いず(出ず)」に重点を置くのはかなり疑問かと思います。 なぜなら、「月を待つ」という言い方は成立しますが、...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(20) 元良親王

20 元良親王 わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はんとぞ思ふ 〔評釈〕二人の秘密な恋が露はれて、大事となつてから、逢はれぬやうになつたので、心を苦しめ思ひ煩つてゐるが、かうして悩んでばかり居ては生きてゐる甲斐もない。どうせ同じ事なら命をすててでも逢はうと思ふ。 との意で、恋人が身も魂も投げ出した棄鉢の心持で恋した熱情がよく現はれてゐる。 この歌は後撰集恋五に「事出て来て後に京極の御息所につかはしける」と題して出してゐる。 京極の御息所は時平公の女藤原褒子で、宇多帝の女御である。元良親王がこの女御に逢はれた事が露れて問題になつたのである。拾遺集には「題知らず」として出てゐる。 〔句意〕▼わびぬれば=「侘」は物足らず、さびし悲し等の意で、ここは逢はれぬのをうらみ悲しむ意。▼今はた同じ=今はもう何事をなしても同じだとの意で棄鉢な心である。▼難波なる=みをつくしての枕詞、難波に澪標があるから。▼みをつくし=「尺寸をしるしたる木を立置て水の深浅をはかるものなれば水泳津籤の意なるべし」と宇比麻奈備にある。身を尽し=即ち命を終る意に言ひかけたのである。 〔作者伝〕 陽成天皇の第一皇子で元慶元年従四位上となり、次で三位兵部卿、式部卿に進まれた。 親王は歌人として有名なばかりでなく、好色の聞えも高い。親王の歌集を見ると、女との贈答歌が百六十余首も載つて居る。大日本史にさへ「好倭歌甚好色」とある。好色の程も察せられよう。天慶六年七月御年五十四歳で薨去になつた。 〔補記〕 句意の「みをつくし」の項目に賀茂真淵の『宇比麻奈備』の引用がありますが、天明元年の版本を参照し、脱字を補ってあります。「立置て」は現代なら「立て置きて」と送り仮名を送るものかと思います。ここが、白秋の昭和5年版では「立て置き」とあって、「て」が脱落していました。また、「水泳津籤」には、天明元年版本には仮名が振ってありまして、カタカナで「ミヲツクシ」とあります。白秋の昭和5年版では「籤」の字を脱落していて「水泳津」となっていましたので、漢字「籤」を補ってみました。さらに、引用の後に助詞の「と」がありませんでしたので、校正が不十分だったとみなして「と」を念のため補いました。 〔蛇足〕 句意のところで、賀茂真淵の『宇比麻奈備』が引用してありますが、これは白秋が利用していた佐佐木信綱『百人一首講義』の「わびぬれば」...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(19) 伊勢

19 伊勢 難波潟みじかき蘆のふしの間もあはでこの世をすごしてよとや 〔評釈〕難波潟に生えてゐる蘆の節の間はきはめて短いものだが、その節の間のやうな短い時間でも、思ふ人に逢はずに空しく此世を過せよとの御心中ですか。それはあんまり薄情すぎる。 といふ意で、たよりない恋人を恨めしく思つた恋歌である。新古今集恋一に「題しらず」として出てゐる。 〔参考〕宇比麻奈備に「短き蘆のふしの間のごときしばしばかりの逢うこともなきは、わが世をひたすらに恋つつ過せよとの心にあるらんと切にうらみたるなり」とある。想より調子の巧な歌である。 〔句意〕▼難波潟=摂津の今の大阪附近の海辺で蘆の多く生えてゐる名所。▼みじかき蘆の節の間=蘆の節と節との間の短い事。「みじかき」は蘆が短いのではなく、節の間にかかる。「間」は一寸の間といふ時間の意をかけてある。▼逢はで=逢はないでの意だが、空しくの意が含まれてゐる。▼この世=「この世」に節を「よ」といふから兼ねたのである。▼過してよとや=過せよとの御心中かの意。 〔作者伝〕 伊勢守藤原継蔭の女で、仁和の頃七条の后に宮仕へしたから、父の官名を用ひて伊勢と云つた。後、宇多天皇に愛せられ桂宮を生み奉つたので、伊勢御息所、又伊勢の御と申し上げた。 和歌にも秀で貫之躬恒と並称されてゐる。承平四年皇后宮の五十の賀、同五年陽成上皇七十の賀に和歌を上り、又醍醐帝の皇子の御袴着の祝の屏風に書く歌を上つた事は有名である。しかし晩年は不遇に終つたといはれてゐる。 〔補記〕 作者伝の部分で、句点の位置を修正した箇所が二箇所あります。まず、「後、宇多天皇に」という部分は、昭和5年版では「後宇多天皇に」と句点がありませんでした。伊勢は宇多天皇の子を生んでおります。もちろん後宇多天皇ではありません。また、「伊勢御息所、又伊勢の御」とある部分では、「伊勢御息所又、伊勢の御」となっていたのを改めました。 作者伝の後半で、「和歌を上り」「歌を上つた」は、「和歌をたてまつり」「歌をたてまつつた」と読むのがいいでしょう。「上る」は「たてまつる」と訓じるもののようです。 〔蛇足〕 この伊勢の歌は、細かい点で注釈書に対立点があります。たとえば、「みじかき」が「蘆」に掛かるとする説がありますが、そうじゃなくて「みじかきふし」なんだよと白秋と同じ説が多数です。「難波潟短き葦の」を序詞として、「ふしの間...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(18) 藤原敏行

18 藤原敏行朝臣 住の江の岸による波よるさへや夢のかよひぢ人めよぐらん 〔評釈〕昼間恋人の所へ通ふのならば、人目をしのぶのが当然であらうが、夜夢の中で通ふ路でさへ人目を避けるやうな夢を見るのは如何した訳だらう。 といふ意で、切なる恋人のわびしさを歎いた哀れ悲しい歌である。 この歌は古今集恋二に「寛平の御時きさいの宮の歌合の歌」とある。誠に流麗な調子のよい歌で秀歌とすべきであらう。寛平は宇多天皇の御時の年号である。 〔句意〕▼住の江=摂津の住吉の浦を云ふ。▼よる波=寄せ来る波の意。▼よるさへ=夜の夢路でさへの意で、夜でさへの意ではない。▼夢のかよひぢ=夜の夢の中で女の許へ通ふ路の意。夢が通ふ路の意ではない。▼人目よぐらん=人目を除けるだらうの意。よぐと濁つてよむ事。 〔作者伝〕 按察使富士麿の子で、太政大臣武智麿の孫、不比等の曽孫にあたる。仁和二年六月従五位上左兵衛権佐から右近衛少将に、後左近衛中将従四位上に進んだ。和歌と能書のほまれの高かつた人で、村上帝が小野道風に古今の妙筆を問はれた時、空海と敏行を以て答へ奉つたといふ。能書の程も察せられよう。惜しい事には二十七歳の壮年を以て卒した。 〔蛇足〕 よく分からないのであります。注釈書は、どれも分かったという立場から解説してあるんですが、古来「人目よく」の主語が対立しておりまして、注釈書はどちらかの立場に立って断言しているのであります。自分が「人目をよく」なのか、恋人が「人目をよく」なのかという対立であります。この場合の「よく」というのは「避く」でありまして、これも終止形であるのは間違いないのでありますが、上二段なのか下二段なのか、それとも四段なのか、活用が注釈者によってばらばらのようであります。 そして、非常に不思議なことですが、どの注釈書も、「避く」が「波」の縁語であるということにはまったく気が付いておりません。この歌は、あくまで「住之江の岸に寄る波」「寄る」「避く」という縁語仕立ての歌でありまして、別に実感を込めた歌ではありません。言語遊戯の最たるものですが、それは歌合に出した歌だから間違いないんですが、注釈する人は人によっては思いっきりロマンチックに解釈したりするのであります。驚くばかり。というよりは、結構間抜けなのであります。「住の江の岸による波」という序詞が、直下の「夜」だけではなくて「避く」も導いていると...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(17) 在原業平

17 在原業平朝臣 千早ふる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは 〔評釈〕この龍田川に紅葉の流れてゐる絵を見ると、流れる水をから紅の絞り染めにしてあるが、こんな珍らしいことは、不思議な事の数々あつた神代にも聞いた事がない。 といふ意である。この歌は古今集秋の下に「二条の后の、春宮の御息所と申しける時、御屏風に龍田川に紅葉流れたる絵を描けりけるを題にて詠める」と題して出てゐる。二条后は御名高子と申し清和天皇の后で陽成天皇の御母である。 〔句意〕▼千早ふる神代=「千早ふる」は神代の枕詞。本来はちはやぶる(千盤破)といつて強く荒い意であつたが、変化したものである。▼からくれなゐ=紅色の美しいのをほめて云ふ。ここは紅葉をさしてゐる。昔は唐から来たもので、唐藍、唐錦などと云つて舶来品を珍重したのである。▼水くくる=「くくる」は水を絞る事で纐纈即ち今の絞り染にすること。「くぐる」と濁るは誤。 〔作者伝〕 阿保親王第五子で、行平の異母弟である。容貌眉目秀麗、素行放縦で情的生活の華やかさは伊勢物語などに多く書かれてゐる。 熱烈な感情をよく歌にあらはしてゐるがその著想は常に奇警で大胆で模倣を許さぬ天才風の歌人であつた。六歌仙中第一人であらう。官は貞観年中に右近衛中将に、元慶年中は兼相模、美濃権守となつた。陽成帝の元慶四年に五十四歳で薨じた。 〔補記〕 句意の冒頭、「神代の枕詞。本来は」の部分、読点がありませんでしたが、文意を明瞭にするために付しておきました。 〔蛇足〕  『古今集』293番素性の歌の詞書が掛かるようでありまして、それは「二条后の、東宮の御息所と申しける時、御屏風に、竜田河にもみぢ流れたる形を書けりけるを題にて、よめる」とありまして、屏風絵を見て詠んだ歌でありまして、もしかしたらこの歌は最終的に屏風に書き付けたものかもしれません。そもそもこれが在原業平の代表作なのかどうかという議論があって、よりによってこんな歌を代表作とみなさなくてもと誰もが思うようであります。また、「くぐる」のところは、くくり染めの「くくる」であるというのに対して、紅葉の下をくぐるのだとして「くぐる」だと主張する古い注釈群もあるわけで、解釈もおぼつかないのであります。それならいっそ、こうしてしまえとばかりに、数年前に考えましたのは、   知は敗る 紙よも効かず 断つた側 カラー呉れない...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(16) 在原行平

16 中納言行平 立ちわかれいなばの山の峯に生ふるまつとしきかば今かへりこむ 〔評釈〕今自分はみなとお別れして、因幡へ行くが、あのいなば山に生えてゐる松といふ木の名のやうに、もし我を待ち侘びてゐると聞いたなら、すぐに帰つて来よう。そんなにお嘆きなさるな。 といふ意で、文徳帝の斉衡二年正月行平が、因幡守となつて京を立つ時詠んだ別離の歌である。 古今集別離の部に「題しらず」として離別の巻頭に載せてある。頗る器用に、詠まれ、その調子も立派である。 〔句意〕▼いなばの山の峯に生ふる=いなば山の峯に生えてゐるの意。いなば山は因幡国法美郡稲羽といふ所にあつて、松の多い山である。ここは「因幡」と「往なば」を通はせてある。古はこの山の麓に役所があつたといふ。▼まつとし=待つてゐるとの意。「松」と「待つ」と通はせて言つてある。「し」は強めた助辞。▼今かへり来む=すぐに帰つて来ようの意。 〔作者伝〕 平城天皇の皇子、阿保親王の御子で、天長三年在原の姓を賜つて人臣に列した。斉衡二年に従四位因幡守に任ぜられた。更に天慶六年に中納言に進み、宇多帝の寛平五年に薨じた。性学を好み、京都に奨学院を創立した外、政治上にも治績が多い。歌人としては伝はつた作は多くはないが、人々によく膾炙されてゐる所から見れば名声のあつた事は充分察せられる。嘗て須磨に流された事があるとの説もあるが正史には見えてゐない。 〔補記〕 作者伝の中に、「京都に奨学院を創立した外、政治上にも治績が多い」とありますが、実際には「京都に奘学院を創立した、外政治上にも治績が多い」となっていました。行平の創立したのは「奨学院」で、ここは単純な誤植です。また、「外政治」もしくは「外政治上」という表現はおかしいので、句読点の位置がずれたものとして処理しました。 〔補記〕 この歌は割と調子のいい歌で、耳にしてもすんなりと入って来るし、唱えてもすらすら読めるのではないでしょうか。日本語としても、安定感のある言葉で構成されていると言えましょう。掛詞もさほど気にならないところがあります。白秋も評釈の最後で絶賛しておりまして、句意の解説も穏当なものであります。じゃあ、何も問題がないのかというと、後で触れますが、いろいろと考えるべき点があると思います。 行平が因幡の国守として赴任するときの歌なら、斉衡2年(855)の前年くらいの歌と言うことになります。行...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(15) 光孝天皇

15 光孝天皇 君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ 〔評釈〕そなたに送らうと思つて野辺に出て、若菜をつんでゐると、まだ春浅くて若菜つむ我が袖に淡雪さへ降りかかつた。かやうに辛苦してつんだ若菜であるから、その心して賞翫したまへ。 といふ意である。古今集春上に「仁和の帝、みこにおはしましける時、人に若菜たまひける御歌」として出てゐるが、 佐々木信綱は「まさしく親王の御身として雪ふる野べに出て、御手づから摘み給へるにはあらざる事論なし。ただ人に若菜を給へる日しも雪降りけるによりて、かくはよみなし給へるなるべし」と云つてゐる。 〔句意〕▼君がため=そなたの為の意。「君」はもと下から上をさして言ふ詞であるが、親しさのあまりに、我より下のものをも君と云つた。夫が妻を君と云ひ、親の事を君といふの類。▼若菜=芹、土筆、嫁菜などの食用となる春草を云ふ。 〔作者伝〕 仁明天皇の第三皇子で、東六条の小松殿でお生れになつたから小松の帝、又仁和の帝と申し上ぐ。嘉祥三年中務卿となり御年五十歳を以て、陽成天皇に次で天位に即き給うた。 幼時から経史をお好みになり、英明の資を抱かせ給ひ、和歌も相当の御力を有されたやうである。嘗て嘉祥三年に渤海国の使王文矩が、親王を御覧になつて「この皇子至つて貴き相おはしませば天位にのぼり給はん事うたがふべからず」と申し上げた程である。 〔補記〕 作者伝の中の「英明の資を抱かせ給ひ」の部分は、昭和5年版では「英明の資を抱かれて給ひ」となっていましたが、「れて給ひ」という表現は成り立たないと見て、修正しました。あるいは、もっと違う表現であったのかもしれません。 〔蛇足〕 評釈に出て来る佐佐木信綱の見解は、実は香川景樹『百首異見』に出て来るもので、引用してみましょう。 門人木下幸文云、ある人の為にとて、親王の御身として雪降る野べに出て御手づから摘み給ふにはあらじ。人に若菜給へる日しも、雪の降りけるによりて、かくは詠みなし給ふならん、といへるはさる事也。 これをそのまま引き写しにしていることが分かります。佐佐木信綱『百人一首講義』は、香川景樹の『百首異見』を粉本にしているわけです。 これに関して、実は『徒然草』第176段に面白いエピソードがあるので紹介してみましょう。 黒戸は、小松御門、位に即かせ給ひて、昔、ただ人にておはしましし時、まさな事せさせ給ひしを...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(14) 源融

14 河原左大臣 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑにみだれそめにし我ならなくに 〔評釈〕奥州の信夫郡から出るもぢ摺りの模様の乱れたやうに、自分の心は乱れてゐる。これはいつたい誰の為であらう。みんな君故である。自分がかつてに思ひ乱れたのではない。 といふ意。この歌は古今集恋四に「題しらず」として出てゐるが、第四の句が「みだれんと思ふ」となつてゐるのを伊勢物語に書き誤つたものらしい。百首異見には古今集の方がよいと云つてゐる。 〔句意〕▼みちのく=陸奥国の事。▼しのぶ=信夫郡の事。▼もぢずり=むかし用ひた摺衣の事で、黄土摺、藍摺、垣衣摺、月草摺、萩摺などと云つて、草木を何となく布に摺りつけてあやとした。もぢずりは信夫郡から出る髪を乱した様にしどろもどろに模様を摺りつけた衣を云ふ。ここは心の乱れたのにたとへた序詞である。▼誰ゆゑに=他人のためにの意。▼我ならなくに=我ではないの意。「なく」は「ぬ」の延音である。 〔作者伝〕 実名源融、嵯峨天皇の第八皇子で、貞観の初正三位、同十四年に左大臣、元慶二年正二位、更に宇多天皇即位後従一位に進み、輦に乗つて宮中に出入を許された。寛平七年七十歳で薨去し正一位を賜ふ。 性、風流を好み豪奢な生活を極めたらしい。河原院は東六条の北鴨河の西にある別業で、此処に住まれた為、河原左大臣といふ。毎日難波から海水二十斛を汲んで来て、塩を焼かせた話は有名である。宇治の平等院はもとその山荘であつた。 〔補記〕 作者伝のところに、「海水二十斛」とありますが、「斛」というのは「コク」と読み、容積・容量の単位です。一般には「石」と表示されるもので、中国でも容積・容量は時代によって変遷があったようですが、現代の日本では「一石」は180Lくらいのようです。「一石」は「十斗」に当たりまして、「一斗」が「十升」に当り、「一升」が「十合」に当たるものです。一合が、ほぼ180mlですから、一升は約1・8L、1斗は18L、よって一石が180Lに相当することになりわけなのです。一合がコップ一杯の分量だとすると、一升は一升瓶でおなじみの酒瓶一本分、一斗は灯油缶ひと缶ということになります。毎日運んだ海水は、灯油缶200本分もあったということなのです。海水というのは、1Lがほぼ1㎏、もうちょっと正確に言うと海水は真水よりも20gから30gくらい重いそうです。ともかく、3トンから4トンくらい...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(13) 陽成院

13 陽成院 筑波根のみねより落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる 〔評釈〕つくば山の嶺からしたたり落ちるわづかな水が、だんだん集つてみなの川といふ川になり、末は深い淵となるやうに、我が恋も初めはほんの少しの思ひであつたのに、積り積つて淵のやうに深いものとなつてしまつた。 といふ意で、遣瀬ない恋の悩み歌である。後撰集恋三に「つり殿のみこにつかはしける」と題して出てゐる。つり殿のみことは光孝天皇の第二皇女、綏子内親王の御事で、つり殿院は天皇の御在所であつたのを後、内親王にお譲りになつたのである。 〔句意〕▼筑波根=常陸国筑波山の事、佐々木信綱は「つくはの「は」はすみてよむべし」と云つてゐる。▼みなの川=筑波山からたえだえに流れ落ちる川の名。みなの川は水無川の意であるとも言はれてゐる。▼淵=川の水が集つて深くなつてゐる処。 〔作者伝〕 清和天皇の第一皇子で、御母は贈太政大臣長良の女、二条后高子で右大臣藤原起経の妹にあたる。元慶元年正月御即位、御年僅十歳であらせられたから、基経摂政し奉つた。帝は禁中に馬をお飼ひになり、小野清和等をお近づけになつたので朝廷の儀式は乱れた。基経は奸臣を斥けてお諫め申したが、其後御悩にて物ぐるはしくならせ給ひ、帝業に背き給ふ事が度々であつたから、止むなく光孝天皇をお立て申した。天暦三年八十二歳にて崩御遊ばされた。 〔蛇足〕 100首を扱うというのは、結構面倒でありますから、このあたりになると白秋は、粉本(ふんぽん)である『百人一首講義』の存在を隠さなくなりまして、佐佐木信綱博士の名前を句意のところで出しております。奈良時代には「つくば」は、清音で「つくは」だったようでありまして、万葉集には「筑波」と今と同じ漢字表記で出てきます。作者伝も、『百人一首講義』を下敷きにしてダイジェストしております。 信綱の記事には、奸臣は小野清和のほかに紀正直があげてあったり、陽成院に退位を言い渡すにあたって、大好きな競馬を見せると幽閉予定の邸に誘い出し、「みだりに罪なきものを殺させ給へば」と理由を述べて、強制的に退位させた経緯が書いてあったりします。江戸時代の尾崎雅嘉『百人一首一夕話』はもっと詳しくて、「果てには人を木に登せて打殺させ給ひ」と、悪行の様が書かれておりますが、紙面の都合でそのあたりは省略したのでありましょう。 ところで、この歌は陽成院の唯一の勅撰集...