北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(29) 凡河内躬恒
29 凡河内躬恒
心あてに折らばやをらむ初霜の置きまどはせる白菊の花
〔評釈〕若し菊を手折らうと思ふなら、ただ心で推し量つて折るより仕方があるまい。初霜が真白に降つて、どれが白菊の花やらさつぱり見分けがつかないから。
といふ意である。如何にも大霜らしく思はれる。この歌は古今集秋下に「白菊の花をよめる」と題して出てゐるが、大げさに奇抜な形容である。躬恒の特徴であらう。
〔句意〕▼心あてに=おしはかりに。大ていこれだらうと推量する意。▼折らばやをらむ=折つたら折られようかの意で強い疑問ではない。▼おきまどはせる=置き惑はせるで、「おき」は霜の降ること、「まどはせる」は霜と花との見分けのつかぬこと。とにかく大霜である。
〔作者伝〕
古事記や日本紀に、「天津彦根命是凡河内国造等祖也」とあるが、父祖は分明でない。
官は歌などによつて見ると寛平の頃甲斐少目となり、後御厨子所を兼ねたらしい。官の低い人であるが、歌人としては名声が高かつた。古今集を勅撰になつた時も、貫之、忠岑等と撰者を仰せつけられてゐる程で、延喜時代の代表歌人として知られてゐる。
〔補記〕
特に誤植のようなものは見当たりませんでした。
〔蛇足〕
白秋の評釈は、かなり意訳しておりまして、元の和歌と相違点がありますので、理解するのに少し工夫がいるかも知れません。注目は、句意で「まどはせる」を「霜と花との見分けのつかぬこと」と指摘し、そこを踏まえて「大げさに奇抜な形容」と断じているところでしょう。従来の注釈者も大同小異、白秋と同じ理解を示しているものです。この解釈の問題点は、「まどはせ」という動詞が補助動詞のはずなのに、そうではなく「見分けをつかせなくする」という意味にとるところと、もう一つ、躬恒の歌が倒置法であることに気付かず、下三句を上二句の理由を述べたものとして末尾に「から」を補うところです。分かりやすくするために、四段活用動詞の「まどわす」の已然形である「まどはせ」を省いて、完了存続の助動詞「り」の連体形である「る」を、同じ意味の助動詞「たり」の連体形「たる」に置き換えてみたいと思います。さらに、倒置法を汲んで、上下を逆転して、間に格助詞の「を」を補い、さらにさらに、語順を少々直してみると、次のようになるでしょう。
初霜の置きたる白菊の花を、折らばや、心あてに折らむ。
躬恒が言いたいのはこういう内容でありますから、白秋の評釈からこの表現に即するところだけを抜き出すと、次のようになります。
初霜が降つた白菊の花を、若し手折るなら、推し量つて折ろう。
この結果、白秋のもとの評釈から脱落するのは、「真白に」「どれが・やらさっぱり見分けがつかないから」「仕方があるまい」などの表現でありまして、大げさなのは躬恒の歌自体というよりは、白秋の味付けの結果なのであります。
ちなみに、「心あて」は、辞書などでも「当て推量」として解説しこの歌を掲げるのが普通ですが、現代語と同じように、「かねてからの目的」「前からの意向」でいいのじゃないかと思います。それから、「まどはす」は、あくまで補助動詞で、「初霜の置きまどはせる白菊の花」というのは、「白菊を惑わすように初霜が降りる」ということで、それは「白菊を枯れさせかねないように初霜が降りる」ではないかと、提案しておきます。
さて、躬恒の歌を考える時に役立つ歌が、実は二首ありまして、それらを示しながら、最終的には「まどはす」の内容を考えてみたいと思います。
散りぬれば 恋ふれどしるし なき物を けふこそ桜 折らば折りてめ
(『古今集』巻第二・春上 64番 詠み人知らず「題しらず」)
一目瞭然の歌ですね。桜が、意中の女性の比喩になっております。散る前に折るぞというわけで、じゃあ折って何するの?って言ったら、好きな人に折った桜とこの歌を届けるんですね。そうすると、季節の歌ではありますが、いきなり恋の歌になりまして、今夜は君を離さないというような、恋愛宣言になるわけです。花が駄目になる前に手折るということは、旬の時期を逃さないということでもありますから、恋の相手はいま妙齢で美しいと言う賞讃でもあります。躬恒の歌が、この桜の歌と同じ趣旨であることを否定する人はよもやいないと思います。『新版百人一首』(島津忠夫さん)の指摘によって知りました。これによって、躬恒の歌の二句目の解釈は確定しますよね。「折るなら折ろう」と決意を表明していることになるでしょう。恋愛の贈答歌の習慣を前提にしないと、何のために折るのかぼやけます。
心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花
(『源氏物語』夕顔巻・夕顔の女房?)
これは、どう見ても躬恒の歌を下敷きにして読んだ歌でありまして、そのことは小学館の日本古典文学全集(新編)などでも、当然の如く指摘してあります。初句、三句、末句の配置がまったく同じで、「初霜」を「白露」に、「白菊の花」を「夕顔の花」にしてあるわけです。ある意味お手軽な挨拶の歌として夕顔という女性の登場を演出しているわけでありまして、もちろん夕顔の花が新登場の女性である夕顔を暗に指すのであります。
しかし、ぎょっとしたのは、注釈書の解釈が間違っているようなのでありまして、……そんなことあるかいな、と思いながら苦笑いする次第ですね。あきれてしまいます。この歌は、もちろん二句切れ倒置法ですから、繰り返し詠むと上下が反転するはずで、そうすると、
白露の 光そへたる 夕顔の花(を)心あてに それかとぞ見る
となりますよね。夕顔の花は、「夕顔」とあだ名される女性の比喩なら、「見る」の主体は光源氏になるわけで、出会いの場面に重なります。病気の乳母を見舞いに来た光源氏が、五条に住む女性に目を付けるところですが、女の家から扇が送られて、そこに書いてあった歌であります。だから、「見る」は「(源氏の君が)ご覧になる」ということで、「夕顔の花をご覧になる」と考えるといいわけです。
実は注釈書はそうなっていませんが、『源氏物語湖月抄』からして違うから、ため息が出て参ります。『源氏物語』の関係者の方、この歌の解釈、間違ってますからね。直しておいて下さいね(笑)。「初霜の置きまどはせる白菊の花」(を)「心当てに折らばや折らむ」を参考にみたら、倒置を修正するだけで解釈が出来るんです。簡単なのに、倒置しているのを元に戻すことすらしておりません。『源氏物語』注釈書の誤読のありさまは、各自ご確認ください。
さて、仕上げは、「置きまどはせる」の解釈でございます。主語は「初霜」、「惑わす」の対象は白菊の花でありまして、けっして人ではあるまい、と思うのです。初霜が白菊の花を惑わすように降りる、というだけなんですね。
確認しますと、「霜が置く」というのは単なる自然現象であります。「まどはす」に「り」という助動詞が付くと「まどはせり」となりまして、「惑わしている」「惑わした」という意味なんですね。現代語のままの感覚を持ち込むと、「置きまどはせる」と言うのが、まるで人を惑わしているかのように感じられるんでしょうが、ここは人は関係ないんですよ。よろしいですか、勝手に何かが人をまどわそうとしていると決めつけないことが、大切です。これは「初霜が置いて惑わした白菊の花」と言っているだけで、自然現象を巧みに表現しているだけです。さらに、ここには第三者である人は関係しないのであります。あくまで「霜が菊に作用した」だけです。
「人を惑わせる」も「人を惑わす」も間違いってことでよろしいでしょうか。
あくまでも、初霜が降りた時に、白菊の花に何らかの乱れが生じたんですね。人が、霜と菊が区別が付かないなどという錯乱状態を語るものではありません。霜と菊が区別が付かなかったら、折り取るのは無理ですから、眼科に駆け込んで下さいね。そこのところ、常識を働かせてしっかり受け止めてください。普通に考えたら、霜に当たってしおれるとか、茶色く変色するんですよ。霜枯れするかもと思っているんですね。さあ、それでも大変なことなんです。きれいだと思っていたら、白菊が駄目になりそうですから、「心あてに折らばや折らん」という、大慌てになるんではないでしょうか。だから、かねての目的に沿って、これを折って女性に贈るんです。
さて、さて、大変なことになりました。大手柄とふざけるどころではない。これは、これは瓢箪から駒が出て参りました。
つまり、女性を白菊の花にたとえます。霜が置くというのは時間の推移、忍び寄る老いという物でもよく、他の男が求愛する比喩と考えてもいいでありましょう。初霜が菊にまどわすように置いた以上、すぐに折り取らねばならないように、一刻の猶予もなく、かねての心当たりに従って、いざいざ彼女の住む邸内に忍び込み、あわよくば愛する人の寝室へと参上つかまつろうというような歌なのではありませんかね。盛りの菊のように、美しい彼女ということが前提であります。ここにあるのは、初霜が置くように、私が共寝つかまつりたい、というような緊迫した状況でありますね。
『古今集』の春の歌と、『源氏物語』夕顔巻の歌で解決してしまいそうであります。というか、解決いたしました。ついでに、『源氏物語』の有名な歌の解釈まで、誤謬訂正に力を貸しましたぞ。まあ、へそ曲がりな私の何かの勘違いには違いありませんから、ご意見頂戴するまでもありません。
276 秋の菊 にほふかぎりは かざしてむ 花より先と 知らぬ我が身を
277 心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花
278 色変はる 秋の菊をば 一年に ふたたびにほふ 花とこそ見れ
それはともかく、ここに示した『古今集』の配列を見たら、躬恒の次の歌から、菊の変色の歌でありますからね。だったらこの躬恒の歌も、白菊の変色の歌でありましょうね。現代日本の関東以西の方は、おおむね都会に住んでおられますから、霜が降りることが実はよく分からないことでありましょう。東京以西は、実は霜なんか降りるのをそうそう見る機会はないはずなんですね。やむを得ませんね。「まどはす」は、白菊を変色させているというだけのことです。
それから、この凡河内躬恒の歌を貶したのは正岡子規だったはずですけれども、あの人もある意味秀才ですから、習った通りの歌だと思っていて、この歌を下らないと断じたのでありましょう。ここで施したような歌だよと教えたら、喜ぶのか、それとも激烈に怒って否定するのか。お楽しみでありましょう。下に引用しておきましょう。
「五いつたび歌よみに与ふる書」(正岡子規)(明治三十一年二月二十三日)
この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちもこれなき駄歌に御座候。……今朝は霜がふつて白菊が見えんなどと、真面目まじめらしく人を欺く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。…… (『青空文庫』から抜粋)
心当てに 誉めばや誉めむ 子規さまの 心惑はす 白菊の歌(粗忽)
〔蛇足の蛇足〕
『源氏物語』「夕顔巻」に出て来る歌について、小学館の日本古典文学全集(新編)の解釈が間違っているということを、もうちょっと深掘りしてみたいと思います。
心あてに 折らばや折らむ はつ霜の 置きまどはせる しらぎくの花
(『百人一首』第29番・凡河内躬恒)
心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花
(『源氏物語』夕顔巻・夕顔の女房?)
まず、前回取り上げた歌のおさらいをしておきたいと思います。凡河内躬恒の歌を、紫式部が換骨奪胎いたしまして、印象的な夕顔の巻の歌に変えたのであります。こういうのを本歌取りと言うはずなんですが、本歌取りが意識的に詠まれたのは平安時代のお終いの頃から鎌倉時代に掛けての時期でありまして、藤原定家などが確立したやり方から見ると、夕顔の巻の歌が本歌取りに当たるのかどうか、私には判断できません。
「心あてに」という初句が一緒でありますが、あとは二句切れであること、三句目と五句目に「初霜」と「白露」、「白菊の花」と「夕顔の花」と似たような名詞が来るんですが、和歌の構造上に共通点があるということでありまして、これだと類歌の域を出ないもののように感じます。それにしても、『源氏物語』の注釈書としてはポピュラーな小学館の日本古典文学全集(新編)の解釈は野放図すぎて、まったく納得行きませんね。それなりの積み重ねのあるもののはずですから、異を唱えるにはためらいが生じますが、「見る」の主体を夕顔という女性の側にしているのは完全な過ちでありましょう。もらった歌に対する光源氏の返歌も紹介すると、その辺がよく分かります。
寄りてこそ それかとも見め たそがれに ほのぼの見つる 花の夕顔
(『源氏物語』夕顔巻・光源氏)
これも、何度も繰り返し唱えていると、二句切れ倒置法が修正されまして、語順がまともな状態に収まる瞬間があるわけであります。「たそがれにほのぼの見つる花の夕顔」(を)「寄りてこそそれかとも見め」となりますから、「今度立ち寄るよ、見に来るよ」と最大限の色よい返事をしたわけであります。贈答歌というのはリフレインが基本ですから、「夕顔の花をそれかとご覧ですね」と言われて、「今度は夕顔の花をよく見るよ」と返したわけです。句切れのある歌の場合には、倒置されていることが普通ですから、そうした原則を無視して意訳してしまったんでは、もはや歌などと言うものは解釈不能でありましょう。不思議なことが、世の中にはあるものですね。
ただし、昔聞いた、研究者による悪魔的なテクニックを紹介したいと思います。知っている人は知っている、そして知らない人は地獄に落ちる魔法でございます。簡単に言うと、誤りをわざと研究成果に紛れ込ませる、もしくは忍び込ませるという手法が、世の中にはあるのです。