北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(40) 平兼盛
40 平兼盛
忍ぶれど色に出にけり我恋は物や思ふと人のとふまで
〔評釈〕自分の恋は誰にも知られない様にと包み隠して居たが、思ふ心は自然に顔かたちにもあらはれたと見える。何かもの思ひでもあるのかと、人が尋ねる程になつた。
といふ意で、恋を秘め悩んでゐるものの心持が歌はれてゐる。忍恋歌として有名で又百人一首中でも秀歌たるを失はぬ作である。この歌は拾遺集恋一に「天徳の御時歌合に」と題して出てゐる。しかし真淵はこの歌は万葉集巻十八の「安必意毛波受云々」とあるを改作したものであらうと云つてゐる。或はさうかも知れぬ。
〔句意〕▼忍ぶれど=包み隠してゐるけれどの意。▼色に出にけり=自然に顔色にあらはれたといふ意。▼物や思ふと=物思ひをしてゐるのかとの意。この歌を我が恋は、しのぶれど物や思ふと人の問ふまで色に出にけり。と順序を変へて見るとよく理解される。
〔作者伝〕
光孝天皇の皇子是貞親王の曾孫で、太宰少弐篤行の子である。幼時から学問を好み大学寮に入つた。天元二年には駿河守まで進んだが正暦元年に没した。歌の外に漢学にも秀で図書頭を勤めた事もある。駿河守として任地に在る時、或女がその夫が他の女の所へ往つて帰らぬと訴へた申し文を歌に詠んで見せたので、居合せた源重之が歌を以て答へたといふ話もあるが、此頃の官吏はすべて風流であつた。女赤染衛門も有名な歌人である。
〔補記〕
評釈のはじめにある訳出部分で、「顔かたちにもあらはれ」という訳は不審で、句意にあるように「顔かたち」を「顔色」に改めたほうがよさそうです。
同じ評釈の末尾、万葉集の歌の初句を引いていますが、この歌は「巻十八」に入っています。白秋の昭和5年版はこれを「巻八」と誤っておりますのが、「十」の脱字かと思います。
作者伝の二文目末にある「大学寮に入つた。」の部分は、昭和5年版では「大学寮に入つて。」とありました。句点を読点に直してもよさそうでしたが、「て」を「た」と改めるにとどめました。この部分は、佐佐木信綱『百人一首講義』を元にしていたようで、そこには次のように詳しく書かれています。これを見る限り、「入つて」の後に、「及第して昇進し」のような文言があったのが抜け落ちたとみてよいでしょう。
兼盛もとより、和歌をよくして、漢学にもわたり、文才ある人なりしかば、わかくして、大学寮に入り及第して、天暦の頃より、次第に昇進して、遂に駿河守に任ぜらるるに至れり。
また、作者伝の後半の駿河守時代の逸話は、やや不完全な紹介になっています。尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』では、訴え出た女の申し文に、平兼盛が和歌を書き付け、それに対してたまたま上洛途中の源重之が唱和したことが述べられていて、藤原清輔の『袋草子』が伝えるエピソードとして分かりやすく紹介されています。昭和5年版に「その夫が他の女の所へ往つて帰らぬと歌を以て訴へたのに」を、「その夫が他の女の所へ往つて帰らぬと訴へた申し文を歌に詠んで見せたので」と改めて整えました。
〔蛇足〕
これは説話などに出て来る有名なものでありまして、次の第41番の壬生忠見の歌とセットになるわけでありますが、『百人一首』での歌番号をご覧いただきますと、この二首は隣り合っている物の、40番と41番ではペアにならないものなのであります。四首一組でも別のグループになりますから、『百人一首』という物が、本当に完成型なのかどうか、怪しいことこの上ないのであります。これを、『百人秀歌』でみると、平兼盛が第41番、壬生忠見が第42番でありまして、奇数と偶数の組み合わせなので何の問題もなくペアなのであります。この順番に関してはすでにご指摘の注釈もあるのかも知れませんが、準備万端に諸説を網羅して書いているブログではありませんから、ご容赦下さい。
平兼盛さんという人は、陸奥に国守として赴任したこともある人ですから、エピソードも幾つかありまして、有名な歌ももっとあるのであります。安達ヶ原の鬼婆伝説にも少し絡むわけですけれども、その人となりを充分伝える説話が無いような気がいたします。
この歌に関して気になることは、二句切れなのか、三句切れなのかと言うことなんであります。どちらが正しいかとか、そう言う意味ではなくて、どういう節回しで読むのか、どういうふうに味わうのかと言うことでありますね。折口信夫さんの『言語情調論』(中公文庫)というのは、大学の卒論らしいのですが、心余りて詞足らずな論文ですから半分も分からないんですが、ちょっとしたことで歌になっていたりなっていなかったりするということを鋭く突いているわけです。この兼盛の歌というのは、どこで切るかによって、センスが問われるところがあるような歌でありまして、二句目の終わりで切っては駄目で、三句目の終わりで切るんでありましょう。ともかく、平易な日本語なんですが、ちゃんと歌の調べになっているという点で、歌合わせの際に話題をさらったのは当然なんです。
『万葉集』は、「五七。五七。七」ですが、『古今集』以降は、「五七五。七七」というのが一般的。
昔、『万葉集』か何かの授業に出て、「五七五。七七」のリズムで読んだら、授業の後で、万葉ファンにすごく違和感があったと言われてびっくりしたことがあるんであります。向こうもびっくりしたが、こっちもびっくりしたんですね。それから、注釈書を読んでいますと、母音がどうの、特定の子音が繰り返される、と言うような指摘がたくさん出てきまして、そう言えば中学校などで国語の授業を受けた時は、短歌についてまことしやかに音韻面の特徴について分析を聞かされる時がありました。独りよがりな感じと言いますか、何か的がずれているような気がするんですけれども、たとえば前回紹介した昭和40年(1965)11月15日に刊行された久保田正文さんの『百人一首の世界』(文藝春秋社)なども、そのあたりを得意そうに指摘なさるんですね。ローマ字書きすれば、誰でも言えることなんですが、近代短歌の批評スタイルとしては確立していたようです。でも、どこに由来するのでしょう? あいうえお、という母音にすごくこだわるのが妙なんですが、もしかして外国の詩の批評スタイルなのかもしれませんね。調べてみたいと思います。
それから、この歌は非常に評価が高い歌だと思うのですが、本歌を指摘してその価値を下げようとする注釈書があるようです。
恋しきを さらぬ顔して 忍ぶれば 物や思ふと 見る人ぞ問ふ(奥義抄所引)
安必意毛波受 安流良牟伎美乎 安夜思苦毛 奈気伎和多流香 比登能等布麻泥(万葉集4075)
あひおもはず あるらむきみを あやしくも なげきわたるか ひとのとふまで
白秋が指摘する通り、万葉集の歌は賀茂真淵が改作ではないかとするんですが、真淵自身は兼盛の歌を悪く言っていないようです。しかしながら、香川景樹はこの兼盛の歌に関しては改作を咎めてやまないようです。なお、奥義抄の歌は、出典が不明ですから、兼盛がその歌を元にして歌合に提出する歌を詠んだかどうかは定かではないようです。
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