北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(30) 壬生忠岑

30 壬生忠岑


在明のつれなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし


〔評釈〕有明の月が夜の明けるのも知らぬやうな顔で空にあるやうに、あの女もつれない冷淡な態度をしてゐたので、すげなく別れて帰つたが、それ以来、その悲しかつた別れが思ひ出されて、明け方程いやなものはない様になつた。

といふ意で、思ひの遂げられずに帰る片恋の哀れさが身にしみ渡る様な歌である。

この歌は古今集恋三に「題しらず」として出てゐるが、古今第一の歌といはれてゐる。後鳥羽院が古今第一の歌をお尋ねになつた時、定家卿と家隆卿は共にこの歌を書き上げられ、又俊成卿も推選したといふ名誉の歌である。


〔句意〕▼在明の=ここではつれなくの枕詞に用ひた。夜が明けてからまだ天に残つて居る月。▼つれなく=無情である。何とも思はぬ事。憐れを見ても何も感ぜぬふりで平気で居ること。▼暁ばかり=暁ほどの意。▼うき=憂きで、辛い又せつないの意。


〔作者伝〕

姓氏録に「天足彦国押人命の後」と云ひ、又壬生部公は崇神天皇の後とあるが果して忠岑の祖であるかは分明でない。初め泉大将藤原定国の随身をしてゐた頃、歌を詠んで愛せられた事もある。又延喜年中の禁中歌合に「在明のつれなく…」を詠んで帝の御賞めに預つて昇殿を許され、貫之、躬恒と共に、古今集の撰者を仰せつけられてゐる。大変歌は上手であつた。康保二年九十八歳で没した。


〔補記〕

この歌の記事に関しては、昭和5年版は誤植が多くありました。

評釈の末尾のエピソード部分で、「後鳥羽院が」と言う部分は、「鳥羽院が」となっていましたので脱字「後」を補いました。定家・家隆は後鳥羽院時代の歌人です。

句意の最初の語句は、「在明の」という初句の引用ですが、ここが「在明の月」とありましたので、「月」を衍字と見て削りました。

作者伝の最初の所、「天足彦国押人命の後」とありますが、ここが「天足彦国押内命の後」となっていたので、「内」を「人」の改めました。「あめたらしひこくにおしひとのみこと」と呼ぶ皇族ですが、「あめ」は「あま」と呼ぶこともあるようです。

作者伝の後半、「延喜年中」とありますが、ここが「延喜中」となっていて脱字がありましたので「年」を補いました。


〔蛇足〕

白秋は思い入れたっぷりに訳しておりますが、句意によれば、「在明の」は「つれなく」の枕詞に過ぎず、また「つれなく」は、句意では「無情で」「平気で」、評釈では「冷淡な」となっておりますので、饒舌な部分を省いて、白秋の解釈の骨組みだけを示すと、

   あの女が冷淡に見えた別れ以来、明け方程いやなものはない。

というような理解だと見ていいでしょう。つまり、「有明の月が夜の明けるのも知らぬやうな顔で空にある」とか、「すげなく別れて帰つた」とか、「悲しかつた別れが思ひ出され」という部分は、「在明」または「在明の月」にまつわる情景であり、状況から推察される余情ということになるでしょう。古典には、「待つ宵・別れの暁」のつらさを嘆く歌が多くありまして、当時の夜になると男が訪問し、夜明けには帰途に就くという別居婚の生活習慣があったため、それを由来とする切ない瞬間が「待つ宵」であり「別れの暁」であったわけで、忠岑の歌は別れの暁の最大公約数の歌だった可能性が高いわけです。


ところが、白秋が粉本にしていたはずの佐佐木信綱『百人一首講義』は、まったく違った解釈をしているので、紹介いたしましょう。違いは、つれないのは「有明の月」だけでありまして、別に女の態度がつれなかったとは言っていないのであります。

有明がたの月のさしもつれなく、山のはにも入らず残れる折から、女のもとより、かへる事を思へば、身にしみしみと悲しう物うくおぼえて、その別より後は、よに暁ほどわびしく、物うきものはなし

この解釈だと、信綱は女との仲は昵懇と考えているのでありまして、離れがたいがために帰ることが辛くなっているわけで、これだと恋の深みにはまった気持ちの吐露なのであります。古今集の恋三という配置を見たら、信綱の解釈が妥当だと分かります。恋の歌は、恋愛のはじまり、駆け引き、相思相愛、隙間風、別れた後の恨み節のように、段階を踏んで分類されまして、それを五巻にわけるのが勅撰集の基本ですから、古今集恋の部の真中にある巻三の歌の解釈としては、白秋の理解はずれておりまして、信綱に軍配が上がります。信綱が粉本にしていたと思われる、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』は、歌の解釈の中で、「かの人は何とも思はず知らぬ顔して我に逢はぬ故本意なく別れて帰りし」と述べているので、これは白秋と同じ理解で、信綱とは意見が相違しております。


有名な歌でありますけれども、すでに鎌倉時代の初め、藤原定家の時代には異説がありまして、もめていたようなのでありますね。それはそうです。詠んだ忠岑本人だって、どこまで詠んだ歌を理解していたのかどうか分かりません。それが詠まれて300年も経過した時代に取沙汰されても、議論が収束する気配はないことでしょう。


まず、「有明」という言葉を、どう理解するかによって、解釈が割れるわけです。壬生忠岑の歌にある「有明」を勝手に整理すると、「有明」を「有明月」のこととするか、それとも有明月が空に掛かる時刻とするかによって解釈が割れるんであります。でもって、後者は不可であります。つまり有明月は、月の出が深夜、月の入りが翌朝でありまして、幅があるから、これを時刻を表す表現にすることはそもそも無理があるんですね。だいたい、忠岑の歌の中では四句目で「暁」って言ってますから、時刻はそちらで感知するわけです。それから、白秋の言う「有明の」を枕詞とする説は、そもそもそんな枕詞がないような気がしますし、「有明の~見え」で「月が見え」ですから、有明月がつれなく見えたを否定するのは無理があるでしょう。


また、白秋と信綱の意見の相違で示しましたように、「つれなく見え」たのは、有明月なのか、女の態度なのか、という問題も古来議論の的ですが、別れの暁がつらいんでありまして、女性はちっとも「つれなく」ないのでありましょう。実は、『古今集』では恋三の「逢わざる恋」の歌群に入っているんですが、訪問して明け方まで粘れたなら、女の態度を「つれなく見え」たと考える必要はないのではありませんか。また、これを、永遠の別れを詠んだとする解説(ちくま文庫)もあるんですが、恋三に配列された点を重視すると、とても肯定する気持ちにもなりません。たぶん、そんな劇的な恋の終末を詠んだ歌ではありますまい。恋の終わりの歌だと思うのは勝手ですが、恋愛体験が浅いのではないかと心配になります。恋も深まると、デートの後のさよならが切なくなるはずなんです。


この歌が詠んでいるのは、恋というものの風情であり、遊びが本物の恋になった瞬間、あるいは恋に恋する子供が大人になった瞬間のはずであります。口説いている時は遊びなんですが、別れて帰ろうとする刹那に、深みにはまって帰りたくない自分を自覚するという歌なんですね。定家・家隆の圧倒的な支持は、ここの所だろうと思います。


それから、作者は男ですが、詠作主体が女でも通用する歌だと思いますが、どうもそういう指摘は従来ないようでありまして、どうして男の歌と固定して見ているのでありましょうか。女性が口説きに来た男を送り出した後で、有明月を見ていてもいいはずでありますよ。女性の立場の歌の方が、むしろ、断然、自然ですね。「待つ宵・別れの暁」の辛さというのは女性の立場から発したもののような印象があるんですが、違いましたでしょうか?

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