北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(39) 源等
39 参議等
浅茅生の小野の篠原忍ぶれど余りてなどか人の恋しき
〔評釈〕今まで胸の中に包み隠して居たが、思ひあまつて堪へられない程あの人が恋しいのはどうした事であらうか、自分ながら自分の心が疑はしい程である。
といふ自分を疑つた歌で、又止み難い恋の切なさが詠みあらはされてゐる。調子のよい面白い歌である。この歌は後撰集恋一に「人に遣しける」と題して出て居る。
〔句意〕▼浅茅生=茅のまばらに生えた原。「浅茅」は茅がまばらにあることで「生」は生えてゐる原である。▼篠原=篠の生えてゐる原。ここは篠を「忍ぶ」に云ひかけたので上の句は忍ぶの序詞である。▼余りて=思ひがあまつての意。▼などか=どうしてか、何故かの意。
〔作者伝〕
姓は源で、嵯峨天皇の皇子大納言弘の孫で、父は中納言希といつた。天慶元年に参議に任ぜられ、天暦五年正四位下となり七十三歳で薨じた。歌人としては別にこれといふ人ではない。作も極めて少い。いはば平凡な一生を送つた人らしい。
〔補記〕
句意の「余りて」は、昭和5年版では、平仮名で「あまりて」とありましたので、和歌の表記に合わせてみました。
昭和5年版の評釈の末尾に次のような一節がありました。参議等の歌とは無関係なものの可能性が高いので、今回あえて削除しておきました。
為家卿は「この歌毎句、花麗、返々かくこそありたく候へ珍重々々」と称へてゐる。
この為家卿の言葉は、戸田茂睡『百人一首雑談』に見える言葉ですが、内容を明らかにするために少々長めに、茂睡の文章を次に引用してみます。
人に遣わしける、
後撰 浅茅生のをののしの原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき
浅茅生は、あさくちがやおふると書ども、必それには限らず、何草にても生たるを云、浅茅が原と云も同じ、
参議雅経歌、
ゆく秋のわかれし野べは跡もなしただ霜ふかき浅茅生の原
定家卿の判に云、「あさぢ生たらん原は、あさぢふのはら、ことはりにたがひ侍まじけれども、常には浅茅生あさぢが原と申なれて侍るかや」と有、古今集に、
浅茅生のをののしの原しのぶとも人しるらめやいふ人なしに
此歌にてよみたる歌也、本歌の詞二句のうへ二字三字をゆるすといふは、此歌あるゆへなり、さりながら当代はかやうに読まじきにや、宗尊親王の歌に、
音羽山花咲ぬらしあふさかの関のこなたににほふ春風
「此歌毎句花麗、返々かくこそありたく候へ、珍重珍重」と為家卿の褒美也。此段為家卿の鴨の長明が歌の「あり明の月にをじか鳴なり」と読し時、宣ひし詞にも相違、心得られざるよし、九条基家公も宣ひしとぞ、(以下略)
これを見ると「この歌毎句、花麗、返々かくこそありたく候へ珍重々々」という為家の賞賛は宗尊親王の歌に対するものです。参議等の歌に関するのは、その前の部分で、参議等の歌の本歌として古今集の歌(恋一・505)を指摘し、定家の本歌取りの規則の上限(=二句と二字三字)がここに由来すると述べている部分で、見る限り為家卿の褒美の詞は参議等の歌とは直接関係がありません。貴人の歌を添削する際に為家が用いた高評価の文言だと思われます。おそらく、何らかの錯誤があって白秋が書き入れたものですから、削除すべきだと考えました。
なお、『百人一首雑談』は、大正4年(1915)国書刊行会発行の『戸田茂睡全集』に収められています。戸田茂睡は、江戸時代前期の学者で、古今伝授を批判して契沖らと共に国学の先駆けとなった人物です。
ちなみに、昭和33年(1958)に博文堂出版から出た『鑑賞百人一首新講』増補版(吉沢義則監修・平井孝一著)に類似の表現がありました。この本は昭和27年(1925)にすでに出版されていたようですが、内容はひょっとするともっと遡るのかもしれません。白秋の依拠したものを、こちらも使った可能性があるでしょう。
為家卿はこの歌を評して「此歌毎句花麗返々かくこそありたく候へ、珍重珍重」とたゝへておるのももっともなことである。
〔蛇足〕
初句・二句の序詞を除くと、歌の主要な部分は「忍ぶれど余りてなどか人の恋しき」でありまして、これに即した白秋の訳を取り出すと、
胸の中に包み隠して居たが、思ひあまつてあの人が恋しいのはどうした事であらうか
となりますが、白秋の訳の末尾「自分ながら自分の心が疑はしい程である」というのは、白秋の事の歌に対する思い入れの部分です。尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』も「我が心を我れながら疑ひたる」と付け加えていますし、佐佐木信綱の『百人一首講義』も「われながら、あやしき事との意」と解説していますから、それらの影響があるようです。この点について、注釈上では、後撰集の詞書を手掛かりとしまして、贈答歌である以上、相手に対して尋ねているとする意見もあります。その場合、「人」を白秋のように「あの人」と三人称には捉えずに、「あなた」と二人称として理解するのだと思います。そうするとこの歌は、次のような告白の歌になるわけです。
胸の中に包み隠して居たが、思ひあまつてあなたが恋しいのはどうした事であらうか
参議等は嵯峨源氏でありまして、嵯峨天皇の末裔ということのようです。だから「源等」が名前ということで、源氏にはこの類が多いのであります。「等」のお父さんは「希」、その父が「弘」、その父が嵯峨天皇でありますから、曾孫に当たる方らしいのであります。嵯峨源氏の人々には、こんなふうに一文字の名前の人が多くて、有名なのは左大臣だった融でありまして、『百人一首』14番の作者河原左大臣であります。「融」は「弘」の弟だったようであります。なお、源氏には「光」という人もおりましたが、『源氏物語』の主人公は「光」ではありません。「光源氏」の「光」は修飾句ですから、そこのところはお間違えなく。
ふと気が付きましたが、「余りて」は副詞がいいようで、『日本国語大辞典』はそう扱っています。それでもって、おそらくは「篠原」と縁語なのでありますね。持てあますほど伸びるのでありましょう。そうすると分からないのは、初句の「浅茅生の」が「小野」を導く枕詞なのか、どうかという点です。それから、歌の中に「浅茅」と「篠」と植物が二つあるのかどうかと言うことですね。「浅茅生」と「小野」と「篠原」がすべて地名と言うことはないと思うのですが、そう言うことも考えなけりゃならないんでしょうね。もう注釈書が今ひとつであることは分かりましたから、好き勝手に奔放に考えることにいたしましょう。ネットで「小野の篠原」を検索したら、くさるほどの『百人一首』のブログや記事が出てきまして、それもこれもコピペで記事を構成し、アクセス数を稼ぐためのもののようであります。
浅知恵で 小野の篠原 調べれど 余りてなどか 価値の乏しき(粗忽)
ここまで奔放に物を言いすぎて、自分でも持てあましているんであります。その上、むさ苦しいんではありますが、次のような歌が出来てしまいました。ただし、笹塚には行ったことがありません。どの辺だろう? 新宿のちょっと先だったような気がいたします。
武蔵野の 渋谷の笹塚 ささやけど 却りてなどか 人のなびかぬ(粗忽)
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