北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(31) 坂上是則
31 坂上是則
朝ぼらけ有明の月と見るまでによし野の里にふれる白雪
〔評釈〕吉野の里へ来て宿つて、明け方に起きて見ると、外は真白であつたが、これは有明の月の光であらうと思つてゐると、それは白雪の降り積つてゐるのであつた。
といふ意で、とりわけ技巧も用ひてないが、雪の降つた朝の景が、絵のやうに目に浮んで来て、感じの強い歌である。この歌は古今集冬に「大和の国にまかりける時、雪の降りけるを見てよめる」と題して出てゐる。
〔句意〕▼朝ぼらけ=夜明の事。夜がほのぼのと明け渡る頃を云ふ。▼有明の月=夜が明けてからまだ天に残つて居る月。▼見るまでに=見る位に、見るほどにの意。即ち雪の白く輝いてゐるのを、月の光と見るほどの意。
〔作者伝〕
坂上田村麿から四代目の好蔭の子で、醍醐朱雀の二朝に仕へた。初め御書所の役人であつたが、延長二年正月に従五位下となり、加賀介に任ぜられた。
才学に富み、又蹴鞠も巧みで、延喜五年に仁寿殿で二百六度まで連足に蹴つて一度も落さなかつたので帝の勧賞にあづかつて絹を賜つた事も書に見えてゐる。歌も勅撰集に多く出て居り、是則の誉が高かったため、子の望城は後撰集の撰者となつた程である。
〔補記〕
句意のところで、有明の月の説明がありますが、昭和5年版は「前に既に説明した故省く。」となっていました。一つ前の壬生忠岑の歌との重複を避けたようですが、修正しました。
作者伝には多くの問題があります。
蹴鞠の話題で出て来る「延喜五年」は、昭和5年版では「延長五年」とありました。延喜五年(905)は、蹴鞠の資料として知られる源高明『西宮記』に即しているので、延長五年(927)を誤りと見て直しました。
また、「連足」は「つづけあし」と読むと思われますが、昭和5年版では「連足」、佐佐木信綱『百人一首講義』は「連音」、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』では「連足」と表記が揺れていました。蹴鞠の専門用語には「連延足」(つづけのびあし)があるので、そのままにしました。
さらに、「帝の勧賞にあづかつて」は、昭和5年版は「帝の感賞にあづかつて」とありましたが慣用句に改めました。
作者伝の最後、昭和5年版では、「歌も勅撰集に多く出て居り、後撰集の選者となつた程である」となっていて、あたかも是則が後撰集撰者のような表現でありましたが、脱落があると見て信綱や雅嘉の記述を元に修正しました。「選者」も、「撰者」に改めました。
〔蛇足〕
「朝ぼらけ」が気になりますので、大野晋『岩波古語辞典』補訂版から、引用してみます。
朝ぼらけ……夜がほんのりと明けて、物がほのかに見える状態。また、その頃。多く秋や冬に使う。春は多くアケボノという。
分からないのは「朝ぼらけ」という言葉でありますね。私はおっちょこちょいですから、うっかり「あけぼの」と「朝ぼらけ」の違いなどと言うものを学習してきていないのであります。何かありそうだな、と思ったことはあるのですが、似たような言葉があると、どう違うのか、こう違うのだというようなことは、かまびすしく言いつのりまして、知ったかぶりをする人に答えてもらったりする番組がよくありました。違う違うと言いますのは、同じもの似たものを言うわけでありまして、違うものについては似ている似ている、同じだ同じだと唱えるものなのです。日本語の場合は、万葉集・古事記・日本書紀以前の姿が分かりませんから、何かを究明するのは無理がありまして、だから大野晋博士はインドの言葉に語源を求めて晩年を過ごしたんではなかったでしょうか。大野晋博士の『岩波古語辞典』を見ると、「朝ぼらけ」は秋や冬、「あけぼの」を春に使う言葉ではないかとしてありまして、機知ある解説になっているんですね。定説になっているのかどうか、よくわかりません。ちなみに、「あけぼの」は万葉集なんかにはない言葉だったはずであります。
夜明けというのは、今と違って別れの時間帯。
夜明け前の暁に、男は女のもとから帰って行くという当時の習慣を踏まえると、解けそうであります。よくできた大人の女性なら、恋人や夫を起こしまして、仕度をととのえて送り出すんであります。春などはどんどん夜明けが早くなりますから、あらもう明けているわとみるのが「あけぼの」なんでありましょう。これに対して秋から冬にかけては夜明けが遅くなりまして、朝を待つわけですから、「朝ぼらけ」というような別の言葉が必要だったのでありましょう。男なら女の家を辞そうとして白雪に気が付きます。女なら男を送り出しまして、後ろ姿を見つめているうちに、有明ではなくて白雪だと気が付くわけであります。雪を押して通うには、吉野というのは京からは遠い土地でありますね。悲恋の匂いがするところでありますが、是則の逸話に特に吉野は出てこないのではないかと思います。
古注釈などを見ますと、雪が「薄雪」なのか、それとも「深雪」なのか、あるいは「初雪」なのか「積雪」があるのかどうかと言う点で、意見が分かれるようです。また、あまりそういう議論はありませんが、「有明の月」が空に昇る二十日前後の時期を詠んでいるのか、そうでない時期に詠まれた歌なのか、本当は分からないのではないでしょうか。「有明の月」は光が弱いので、満月の時の月光を思い浮かべているという考えも成立するでしょう。経験から言うと、煌々と照る満月の光によって、地面が白く光るのは、中高生時代を過ごした田舎で、何度も見たことがあります。満月の光で、新聞くらい読めるほど明るいのであります。
雪明りを見て、最初は月光か?と思うんですが、次に有明の月だった?と思うんでしょうね。ようやく、吉野の雪だと気付くわけです。
古今集の詞書には「大和の国にまかりける時、雪の降りけるを見てよめる」とあるだけで、月には触れていません。よって、この歌は「朝ぼらけよし野の里にふれる白雪」が実景でありまして、おそらくまだ夜はろくに明けてはいないのでありましょう。「有明の月と見るまでに」は、そこに存在しない月の光を想像で述べているはずです。そしてまた、今現在雪が降っているのでもなく、陽光もまだほとんど存在感がないはずであります。白秋は句意のところで、「雪の白く輝いてゐるのを、月の光と見るほどの意」と指摘していますが、それで正しいと思います。
なお、「ふれる白雪」の「る」は、完了・存続の助動詞「り」の連体形ですが、「降った白雪」という完了でもなく、「今降っている白雪」という継続でもなく、おそらく「降って積もっている白雪」という存在の用法かと思います。夜の間に降って、来訪者が明け方に雪の白さに驚くと考えるのがいいでしょう。
和歌の解釈のほころび、というようなものは、一箇所突っ込みどころが見付かると、ぼろぼろと見付かります。結婚生活、というものもその類でありまして、結婚に向けて頑張ります時には、相手のいいところを探しまくりますので、嫌が応にも惚れざるを得なくなるわけです。あばたもえくぼなんてことも申しまして、目が好き、鼻が好き、耳が好き、髪の毛が好き、髪型が好き、ついでにあなたの両親も、あなたの生まれ故郷も大好きです、なんてことをのたまうわけであります。サルスベリが好きとなれば、幹が好き、枝が好き、葉っぱが好き、花が好き、というのと同じであります。ところが、一つ嫌いなところが見付かりますと、すべてが反転しまして、今までの美点が欠点になるものなんですね。あなたの親も、あなたの出身地も大嫌い。サルスベリってずっと咲いていてつまらない、というように。
書物というものも、理解しよう、学習しよう、知識を得ようと頑張る時は、どの本も立派なことをおっしゃっているように感じるわけです。つまり、私たちというのは、文脈を読み取ろう、合理的に全体を理解しようとしますから、理性に蓋をして、ちょっと違和感があっても、それは自分の非力のせいである、勉強が足りないのだ、と思いがちなんでありますね。しかし世の中に完璧はありませんので、医者のセカンドオピニオンを聞きに行くように、いろんな本を比較するのも有効であります。
白秋校訂と謳ったこの評釈は、ずいぶん杜撰であります。
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