北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(16) 在原行平
16 中納言行平
立ちわかれいなばの山の峯に生ふるまつとしきかば今かへりこむ
〔評釈〕今自分はみなとお別れして、因幡へ行くが、あのいなば山に生えてゐる松といふ木の名のやうに、もし我を待ち侘びてゐると聞いたなら、すぐに帰つて来よう。そんなにお嘆きなさるな。
といふ意で、文徳帝の斉衡二年正月行平が、因幡守となつて京を立つ時詠んだ別離の歌である。
古今集別離の部に「題しらず」として離別の巻頭に載せてある。頗る器用に、詠まれ、その調子も立派である。
〔句意〕▼いなばの山の峯に生ふる=いなば山の峯に生えてゐるの意。いなば山は因幡国法美郡稲羽といふ所にあつて、松の多い山である。ここは「因幡」と「往なば」を通はせてある。古はこの山の麓に役所があつたといふ。▼まつとし=待つてゐるとの意。「松」と「待つ」と通はせて言つてある。「し」は強めた助辞。▼今かへり来む=すぐに帰つて来ようの意。
〔作者伝〕
平城天皇の皇子、阿保親王の御子で、天長三年在原の姓を賜つて人臣に列した。斉衡二年に従四位因幡守に任ぜられた。更に天慶六年に中納言に進み、宇多帝の寛平五年に薨じた。性学を好み、京都に奨学院を創立した外、政治上にも治績が多い。歌人としては伝はつた作は多くはないが、人々によく膾炙されてゐる所から見れば名声のあつた事は充分察せられる。嘗て須磨に流された事があるとの説もあるが正史には見えてゐない。
〔補記〕
作者伝の中に、「京都に奨学院を創立した外、政治上にも治績が多い」とありますが、実際には「京都に奘学院を創立した、外政治上にも治績が多い」となっていました。行平の創立したのは「奨学院」で、ここは単純な誤植です。また、「外政治」もしくは「外政治上」という表現はおかしいので、句読点の位置がずれたものとして処理しました。
〔補記〕
この歌は割と調子のいい歌で、耳にしてもすんなりと入って来るし、唱えてもすらすら読めるのではないでしょうか。日本語としても、安定感のある言葉で構成されていると言えましょう。掛詞もさほど気にならないところがあります。白秋も評釈の最後で絶賛しておりまして、句意の解説も穏当なものであります。じゃあ、何も問題がないのかというと、後で触れますが、いろいろと考えるべき点があると思います。
行平が因幡の国守として赴任するときの歌なら、斉衡2年(855)の前年くらいの歌と言うことになります。行平は弘仁9年(818)に生まれ、平城天皇の第一皇子であった阿保親王の子供の一人です。あの在原業平の異母兄弟ということですが、母の素性が分かりません。在原姓の一族の中では順調に出世した人物でありまして、貞観15年(873)には大宰権帥になり、元慶6年(882)には、なんと中納言に至っておりまして、この地位の別名は黄門ですから、えらい地位だと誰もが察知することでしょう。寛平5年(893)に75歳で亡くなっておりまして、光孝天皇は同時代人です。
非常によくできる 官僚であったということですが、須磨に流されたこともあって、この点『源氏物語』光源氏のモデルの一人でもあります。須磨で厨房で使う行平鍋を考案したという話もあり、また対馬を日本に帰属させたという功績もあったらしいのです。『百人一首一夕話』や『百人一首講義』には、詳しくいろいろ書いてありまして、政治家として凄腕だったことはすぐに分かります。現代の日本に復活させたいくらい有能だったようです。
この歌に関しては、通常は「因幡」と「往なば」、「松」と「待つ」の掛詞を含むものとするのが普通の理解ですが、ほんとうにそれだけなんでしょうか。たとえば、「峰」のところに「見ね」が掛かるとするような注釈は見当たりません。さらに余計なことを言うなら、「因幡」のところに「往なば」が掛けてあるとするのは疑わしく、むしろ「立ち別れ」の部分が「立ち分かれ」と言うに過ぎず、松か幹の枝分かれの状態を言うのかもしれないと感じます。双子の松とか二本松とか言う、いわゆるランドマークになりやすい松の特徴というものがありますから、それなら、「立ち分かれ因幡の山の峰に生ふる」の部分は、ただ単に「待つ」を導く、長々とした序詞としてすんなり頭に入るのではないかとも思います。「往なば」を掛けるのは相当の無理があると見てよいのではありませんか。いかが。
どうしても修辞だらけだと見たい向きに百歩譲ると、序詞の上三句「立ち分かれ」「因幡」「峰」の部分に、「立ち別れ」「往なば」「見ね」を匂わせて、「松」と「待つ」の掛詞を成立させている遊びに満ちた歌と言えばいいのかと思うのですが、どうでしょう。しかし、掛詞のようなものを探し出すと、切りがなく出てくるような気がしまして、やはり「往なば」は過剰反応ではないかと思うのです。そうじゃないと言うなら、「見ね」も認めましょうよ。
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