北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(33) 紀友則

33 紀友則


ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらん


〔評釈〕うららかな日の光。穏かで、風もないかうした長閑な春の日に、どうして花はあのやうに落ちついた心もなく、あわただしう散るのであらうか。

といふ意で、春に酔つた大宮人の姿が見えるやうである。調子ものんびりとして春の歌としては申し分ないものであらう。古今集春下に「桜の花の散ると見て詠める」と題してある。


〔句意〕▼ひさかたの=天、日、月等の枕詞であるが、ここは光の枕詞でなく太陽の意と解する方がわかりがよい。▼のどけき=長閑な意。▼しづ心なく=静心なくで、静かな落ついた心もなく気ぜはしくの意。▼散るらん=散るのであらうの意。何故にと疑ふ意で想像ではない。


〔作者伝〕

父は宮内権少輔有友といはれてゐる。延喜四年に大内記に進み従五位となつた。歌も巧みで古今集の選者の一人となつたが途中で没した。貫之や忠岑の悲んだ歌は古今集にある。嘗て歌合に「初雁」を題としたのに友則の歌の上の句「春がすみ」と講師が読み始めた。列席の人々は「秋だのに春がすみとは」と笑つたが、下の句「かすみて去にしかりがねの今ぞ鳴くなる秋霧の上」といふ名歌であつたので笑つた人々は大いに恥ぢ入つたといふ話もある。


〔補記〕

特に誤植というほどのものはありませんが、次の二箇所について言葉を補いました。

まず、句意の最初の語句「ひさかたの」は、昭和5年版では「ひさかた」とありましたので、「の」を補いました。なお、佐佐木信綱『百人一首講義』でも「久方は、もと日といふ事の枕詞なる」とありますので、補う必要はないのかもしれません。

次に、作者伝の後半、歌合の話題ですが、「講師が読み始めた」の部分は、昭和5年版では「読み初めた」とありましたので、主語を補い、漢字を「初」から「始」に代えました。「講師」は、詩歌の会の時に読み上げて披露する係の事で、旧仮名遣いで示すと「かうじ」です。友則本人が、その場で歌を詠み、自身で読み上げたわけではないはずです。


〔蛇足〕

白秋の解釈の特徴は句意の部分に尽きておりまして、基本的には佐佐木信綱『百人一首講義』を踏襲しております。例えば、信綱は「久方は、もと日といふ事の枕詞なるを、やがて日の事にもちひたるなり」と言っていて、枕詞ではないというようなニュアンスです。助動詞「らん」に関しても、白秋は現在推量ではなくて、原因推究と呼ばれるような用法だと指摘しております。


さて、ここでちょっと悪戯を試みて見ます。まず、通説に従って枕詞の「ひさかたの」を省きまして、次に「のどけき」という形容詞を「のどかなる」という形容動詞に置き換えてみたいと思います。そして、ここが狙いなんですが、「しづ心なく」が「のどけき」の反対の状態を示しているわけですから、これを「のどかならず」と置き換えます。そして、白秋が疑問だと言う「らん」を、「何故~か」という疑問副詞と終助詞に差し替えます。「何故」は、「なにゆゑ」でも「なぜ」でも、どちらでも結構です。

    光のどかなる春の日に、何故、のどかならず花の散るか。

これを極端に言い換えると、「平和な春の日に、なぜ不穏に花が散るのか」ということでありまして、はたしてこういうことを平安時代の古今集の撰者であった紀友則は詠みたかったんでありましょうか。もちろん、こういう持って行き方は、私に下心があるから言っているんでありますけれども、私たちは桜の花の散る風景を心の中に持っておりますので、桜吹雪の光景を先に描いてしまいますけれども、その情景を浮かべた時に、「落ち着きがない・あわただしい」という否定的な認識を抱くものなんでしょうか。それを、さらに「不穏だ・不吉だ・まがまがしい」とまで言うのは言い過ぎですが、「静心なく」という表現に対する解釈の方向性は基本的には否定的なものです。それで、いいんでありましょうか?


実は、『日本国語大辞典』第二版(小学館・2001年6月20日刊)に、とんでもないことが書いてあるんですね。有名な『日葡辞書』には、「静心」関連の見出しがないのだそうです。近世初頭の1603年から1604年にかけて編纂された辞書なんですが、その段階で「静心なし」などという言葉は、ポルトガルから来た宣教師の見たところ聞いたところ、日本語のどこにも見当たらなかったのであります。確かに、現代語にもそんな言葉は影もかたちもないわけで、粗忽者の私を「静心がないぞ」なんて叱った方はいませんでした。あるいは、誰かの陰口をするとして、あの人「静心なしだよね」などと言わないのであります。



言葉というものは、そうそう変化いたしません。一年で、0・03%位変化するとされているはず。だから、なくなる言葉があってもいいんですが、「静心なし」のような見るからに意味の分かる言葉が消滅するのは、おかしいですよね。今でも字面を見れば分かるのに、日常語でも文章語でも使わないというのは、絶対おかしいわけであります。ましてや、古今集に入り、百人一首に選抜されたほどの歌に出て来る言葉がないのは不思議であります。『日葡辞書』の収録語数は、3万2293語。これは、編纂当時の日本語をほぼ網羅したと考えてよいわけです。今ある普通の国語辞典と比べても立派な収録語数に達していると見なせます。


つまり、「静心なし」という言葉は、400年前には存在しなかったわけで、このことはよくよく考えておく必要がありますよね。


もう一度、『日本国語大辞典』に話を戻すと、もちろんこの日本最大の日本語の辞書には、「静心なし」の項目があるわけで、その「補注」というところに、『日葡辞書』には存在しないということが指摘されているのであります。じゃあ、現代の辞書にはあるじゃないか、という方もいるでしょう。しかし、権威ある辞書にわざわざ400年前にはないと書き込んである意味を考えて見るべきでしょう。


さて、じゃあ『日葡辞書』には、本当に「しづこころなし」はないのか、というと、これがあるんであります。「しづこころなし」がなくて、「しづこころなし」があると言っているわけで、このままだとわけが分かりませんよね。混乱させてごめんなさい。ちゃんと言うと、「静心なし」はないのですが、「賤心なし」なら『日葡辞書』に載っているんです。


「Xizzu cocoro(シヅ ココロ)ナク 〈訳〉気高く、いやしくなく、下品でなく」(『日葡辞書』)


この「Xizzu」には、一般的に「賤」という漢字を当てるのであります。地名の「賤ケ岳(しずがたけ)」の時に出て来る文字でありまして、「下賤」とか「卑賤」とか言うような熟語に出て来る、「いやしい」の漢字表記の「賤」であります。よって、「賤心」というのは、いわゆる差別語でありまして、それを「賤心なし」と打ち消して使うものですから、「気高い」とか「いやしくない」とか「下品でない」とか、そういう意味なのであります。だったら、紀友則の歌もこれでいいではないですか。もちろん、「静心なし」の用例を全部否定しないと、「賤心なし」を前面に押し出すことは無理でしょうけれども、少なくとも『百人一首』の第33番歌については、成立してしまいますよね。これは、たぶん誰も言っていませんから、本邦初の意見でありまして、いいんですかね、私如きがそんなことを言い出したと言うことで、構わないんでしょうか。


久方の 光のどけき 春の日に 賤心なく 花の散るらむ(『百人一首』第33番・紀友則)


これなら、「らむ」の問題も解けそうであります。「太陽の光がのどかな春の日に、どうして上品に花が散っているのだろう」となりまして、風雨にせかされて慌ただしく、落ち着きなく、下品に散ることの多い桜が、今日このよき日、うららかな日差しの中で、ひらりひらり、ゆっくりゆっくり、優雅に散り落ちる様をよんだのでありますね。桜の散る様子が従来の「静心なく」と正反対になりまして、とんでもない解釈が飛び出しました。ほかの「静心なし」の用例はともかく。この紀友則の歌に関しては、断然『日葡辞書』にある「賤心なく」がいいのではないでしょうか。これは私がありもしない辞書を空想したり、記述をねつ造したりしているわけではないので、ほんまかいなと首をひねるばかりでありますね。ある意味身分差別とつながる「賤心なし」という単語を、ないものにしたいという力がどこかで働いたと、私は推測しています。


すごいことになりました。もしかして大手柄でしょうか。辞書をちゃんと見たことが手柄につながりました。近年和歌を専門とする方は、『日本国語大辞典』を見ていないのかもしれません。国文学と国語学、実はまったく業界が違いますものね。やむを得ません。


なお、応永十三年(1406)に書写された『百人一首抄』には、「賤心なく」という表記も出て来るようですが、解釈は「静心なく」に即しているようですから、残念ながら紀友則の歌に関して、ここに述べたような解釈は古注釈でも出てこないのであります。


〔蛇足の蛇足〕

紀友則の歌は古今集の春下に入っておりますが、実はその二首前に紀貫之のこんな歌が入っております。


      桜の花のちりけるをよめる   貫之

82 ことならば 咲かずやはあらぬ 桜花 見る我さへに しづ心なし


もちろん、この歌に関しても、「しづ心なし」を従来は「落ち着かない」と解釈するのが普通であります。これを、「賤心なし」として解釈できるのかどうか、ということで紀友則の歌も決着がつきそうです。「やは~連体形」によって二句切れとなります。末句が終止形ですから、どうやら倒置をしないで、二つの文からなる歌と解するべきでしょう。初句は慣用句でありまして、「同じ事なら・どうせなら」という意味です。二句目は打消しの助動詞が二回使われていて複雑ですが、「咲くことやはある → 咲かず」「咲くことやはあらぬ → 咲く」となると、結局「咲かず」が主旨になりまして、上の句は「どうせなら、咲かないでくれ」という意味だとするのが一般的です。問題の下の句は、従来は「桜の花が慌ただしくちるので、見るこちらまで落ち着かない」とするんですが、それはそれで筋が通る気がいたします。ただ、これを「賤心なし」で強引に解釈すると、こうなることでしょう。


   どうせなら、咲かないでいてくれ。桜花を、見る私まで、こころ落ち着く。


従来の説は、下三句を詞書を受けて落花を見て「落ち着かない」とするんですが、「賤心なし」だととるならば、下三句は上の句の花が咲かないのを受けて、「慌ただしくならない・平静を保てる」という解釈になりそうです。さて、こういう解釈が受け入れてもらえるかというと、まったく自信はありません。綻びが見えるんですが、それは言わずもがな。


悪あがきをしてみました。「静心なく」が日本語から早々と消滅し、「賤心なく」も近代になるまでには姿を消しまして、にもかかわらず古歌の中に存在し続けているということだけは、間違いないようです。

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