北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(13) 陽成院

13 陽成院


筑波根のみねより落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる


〔評釈〕つくば山の嶺からしたたり落ちるわづかな水が、だんだん集つてみなの川といふ川になり、末は深い淵となるやうに、我が恋も初めはほんの少しの思ひであつたのに、積り積つて淵のやうに深いものとなつてしまつた。


といふ意で、遣瀬ない恋の悩み歌である。後撰集恋三に「つり殿のみこにつかはしける」と題して出てゐる。つり殿のみことは光孝天皇の第二皇女、綏子内親王の御事で、つり殿院は天皇の御在所であつたのを後、内親王にお譲りになつたのである。


〔句意〕▼筑波根=常陸国筑波山の事、佐々木信綱は「つくはの「は」はすみてよむべし」と云つてゐる。▼みなの川=筑波山からたえだえに流れ落ちる川の名。みなの川は水無川の意であるとも言はれてゐる。▼淵=川の水が集つて深くなつてゐる処。


〔作者伝〕

清和天皇の第一皇子で、御母は贈太政大臣長良の女、二条后高子で右大臣藤原起経の妹にあたる。元慶元年正月御即位、御年僅十歳であらせられたから、基経摂政し奉つた。帝は禁中に馬をお飼ひになり、小野清和等をお近づけになつたので朝廷の儀式は乱れた。基経は奸臣を斥けてお諫め申したが、其後御悩にて物ぐるはしくならせ給ひ、帝業に背き給ふ事が度々であつたから、止むなく光孝天皇をお立て申した。天暦三年八十二歳にて崩御遊ばされた。


〔蛇足〕

100首を扱うというのは、結構面倒でありますから、このあたりになると白秋は、粉本(ふんぽん)である『百人一首講義』の存在を隠さなくなりまして、佐佐木信綱博士の名前を句意のところで出しております。奈良時代には「つくば」は、清音で「つくは」だったようでありまして、万葉集には「筑波」と今と同じ漢字表記で出てきます。作者伝も、『百人一首講義』を下敷きにしてダイジェストしております。


信綱の記事には、奸臣は小野清和のほかに紀正直があげてあったり、陽成院に退位を言い渡すにあたって、大好きな競馬を見せると幽閉予定の邸に誘い出し、「みだりに罪なきものを殺させ給へば」と理由を述べて、強制的に退位させた経緯が書いてあったりします。江戸時代の尾崎雅嘉『百人一首一夕話』はもっと詳しくて、「果てには人を木に登せて打殺させ給ひ」と、悪行の様が書かれておりますが、紙面の都合でそのあたりは省略したのでありましょう。


ところで、この歌は陽成院の唯一の勅撰集入集歌なのです。よって、『後撰集』がこれを収載していなければ、勅撰集の歌から撰ばれた『百人一首』には入らなかった可能性が高いと思います。やんちゃでDOQな魂の持ち主である陽成院を採用したのは、なかなか面白い趣向だと思います。


「恋」に掛詞があるはずだと古来言われてきましたが、万人が認めるような「恋」と掛ける言葉が見つかっていません。泥水を「こひぢ」というので、「こひ」は「水」の意味だという掛詞説もありますが、それなら「みなの川」の「み」が「水」だという説もあって、定まりません。ぜひ指摘しておきたいのは、「恋」の部分が掛詞なのではなく、「ふち」に「不治(ふぢ)」が掛けてあるのではないかということでございます。もちろん、そんなことを古来指摘する人もいなかったようですから、まったくの臆説に過ぎないことなので、非常に恐縮です。ただ、「落つる」「川」「つもり」「ふち(淵)」という川の縁語に対して、「落つる」「男女(みな)」「恋」「不治(の病)」という恋の言葉がきれいに対比されていると見えますから、解釈はすんなりと落ち着くはずなのです。


「淵」と「不治」の掛詞というと何か奇抜のようですけれども、大和言葉と漢語の組み合わせは不自然ではありません。というより、その方が自然なのであります。「掛詞」という修辞技法の用語は近年よく使われる受験用語のようなもので、平安時代なら「秀句」と呼ばれたもので、それも和歌に限ったものではなくて日常で会話に用いられる駄洒落も秀句であります。枕草子では、漢語と大和言葉の秀句はいくらでも出てきます。


ちなみに、筑波山に行くのには筑波鉄道と言う交通手段があったそうですが、高度経済成長時代のマイカーブームで振るわなくなりまして、廃線となったようです。ああ、それで私などは知らないわけなのであります。大学に通っていても、筑波山に行こうなんて話はみじんもきいたことがなかったわけで、行ったのは銚子・鴨川・千倉・伊豆・箱根・河口湖・奥多摩・秩父・八ヶ岳・木曽・那須・日光というあたりでありまして、スキーには黒姫高原あたりだとか、夏に避暑なら小岩井牧場でありまして、筑波山とか大洗海岸とか袋田の滝なんかまったく話題にもならなかったのであります。不思議でありまして、もしかして北東の方角は鬼門だったから、みんな避けたのでしょうか。旅行先として茨城県が干されて行った経緯があるのかもしれません。


思い出して地名を書いていたら、記憶が戻って参りました。書いてみると結構いろんなところに出かけていたのであります。伊東だか熱海に行ったこともありましたし、例の八ッ場ダムで話題になった川原湯温泉なんかも出かけたことがありました。昭和の終り頃、1980年前後は学生にとっては非常に楽しい時期だったのであります。遊ぶだけ遊んで、就職は引く手あまた、より多く遊んだ人の方が使える人と言うことで、いい会社に結局入ったような印象でありました。私はちっともアクティブな人間ではありませんので、人から誘われて行楽地にも渋々出かけた程度であります。それでも年に何回も行楽して歩いていたんでありますから、のんきな時代だったのであります。


折しも女子大生ブームでありまして、『週刊朝日』の表紙は篠山紀信さん撮りおろしの女子大生シリーズというのが人気でした。最も評判をとったのは宮崎美子さんだったと思います。友人の中にはあの表紙をきれいに切り取って、下敷きに入れて「かわいいよね」と見せて歩いていた人までいました。思い起こすと、人の浮かれぶりが半端じゃない時代でした。バブル崩壊後の沈滞した時代から見ると、80年代の風俗がまぶしい限りですね。もう地方の素人さん、それも国立大の女学生がトップアイドルになることなんて、ありえない時代でありましょう。

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