北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(28) 源宗于

28 源宗于朝臣


山里は冬ぞ淋しさまさりける人めも草もかれぬと思へば


〔評釈〕山里は四季を通じていつでも淋しいものだが、とりわけて冬になると淋しさが増す。草も枯れるし、訪ねて来る人も絶えてしまふ。全く淋しいことだ。

といふ意で、冬の景色の淋しさと共に作者の寂しい心持も現はれてゐる。この歌は古今集冬に「冬の歌とて詠める」として出てゐる。宇比麻奈備や改観抄には「草も」といふのを「草のみでなく草木の意だ」と言つてゐるが、その通りであらう。


〔句意〕▼人め=人目で、人が物を見る事。人目がかれるといへば、見る人がない事で即ちここは訪ねて来る人がなくなるの意に用ひたのである。▼と思へば=枯れたからといふ意味に軽くそへた言葉である。歎きの調子を加へたにすぎぬ。古い歌にはかなり用ひられてゐる。


〔作者伝〕

光孝天皇の皇子一品式部卿是忠親王の御子で御父親王は出家して南院宮と申した。

承平二年十月正義四位右京太夫となつたが天慶三年に卒した。歌才もあつたと見え、古今集を始め、勅撰集には多くの作が見えてゐる。

大和物語に「宇多の院の花おもしろかりける頃南院の公達これかれ集りて歌よみなどしけるに右京のかみ宗于のよまれたるうた「来てみれば心もゆかず故郷は昔ながらの花はちれども」とある。


〔補記〕

作者伝のところに二箇所修正したところがあります。

一つは、「古今集を始め」の部分で、昭和5年版では「古今集撰を始め」とあったので、「撰」を省きました。

もう一つは、「宗于のよまれたるうた」の部分で、昭和5年版には「宇于のよまれたるうた」とありましたので、「宇」を「宗」に改めました。


〔蛇足〕

非常に有名な歌であります。掛詞の例として度々使われますから、記憶している方もいるだろうと思うのであります。冬になると草も枯れて人目も離れるから、山里は寂しさがまさるというのが、もとの源宗于朝臣の歌でありまして、「人目も離れぬ」というのが、現代語ではないわけで、それを除けば非常に分かりやすい歌なのであります。白秋が訳の最初に補っているように、「山里は四季を通じていつでも淋しいものだ」というのが、この歌の前提でありまして、平安京の市街地に対して、山里を歌の舞台として発見し、そこに積極的な美を見出して行くというような時代の流れに即した歌です。


本居宣長や香川景樹が、この歌の末尾の「思へば」が不要であると噛み付いているらしいのですが、そう言われてみると、冗長な感じがするから不思議ですね。「かれぬとおもへば」ではなくて、「かれにけるかな」とでも言えばいいと宣長先生や景樹先生は思ったのでしょう。ただ、『古今集』の冬の部では二首目に位置していまして、まだ、草が枯れていない頃の感慨だとすれば、「思へば」も無駄ではないのであります。寂しくなる前に、冬の寂しさを予感していることこそが歌の主眼でありましょう。倒置法によって、寂しい理由を下に持ってきているわけで、それが実際にそうなる前の予感を述べたところが、手柄の歌なのでしょう。


「かれぬ」の「ぬ」という助動詞は、現在使われないものですから、これのニュアンスが大事なんでありますね。普通は完了の助動詞として説明するんですが、実は完了を表さない用法があるのであります。これから起こることを意識させる用法なんですね。「もうすぐ、起きちまうぞ、どうする、どうする」というような語法でありまして、こいつの一番有名な例は、『伊勢物語』にございますね。第9段の東下りと呼ばれるところに、隅田川を渡るところがあるんであります。普通に考えると両国橋当たりかと思いますが、ひょっとすると今のスカイツリーを臨む浅草あたりの可能性もあるわけですが、そこで渡し守に、こうせかされるんであります。

    「はや船に乗れ。日も暮れぬ」

この、「日も暮れぬ」というのは、真に受けていてはいけないので、たぶんちっとも日没の時刻ではないわけです。午前中だったり、真っ昼間に「日が暮れちまうぞ」とせかしているわけで、この「ぬ」はもちろん打消の助動詞ではなくて、完了の助動詞なんですが、終わってしまったことを示しているわけではないわけです。基本的には、天気予報などの未来予測に使われるものなのでありますね。ぐずぐずしていると日が暮れちまうよ、というわけです。これを踏まえて、源宗于の歌を見ると、実はまだ「人目も草もかれていない」時期を詠んでいると分かります。白秋が「冬の景色の淋しさと共に作者の寂しい心持も現はれてゐる」と評しているのは、間違いではないんですが、単純な冬景色の歌ではありません。


ところで、世間には、宮内庁書陵部蔵、堯孝筆『百人一首』という本がありまして、影印本が笠間書院から出ております。非常に達筆ではありますが、冒頭の「秋の田の」から始まるあたりは丁寧に書かれておりますが、この「山ざとは」のあたりに参りますと、筆勢に変化がありまして、最初の頃の落ち着いた感じに対して、少し雑な感じがして参ります。このあと和泉式部の歌のあたりで致命的な書き損じもあるんですが、それでも見事なものには違いありませんから、手に入れれば鑑賞して楽しんでいただけると思います。


宮内庁の書陵部と言うところには、実は一度だけ入ったことがありまして、記憶は薄れていますが、皇居のお濠の向こうに行ったことがあるのです。何か調べ物をするためにどうしても必要で、どう連絡を取ったのかは忘れましたが、入る時にどきどきしたのを覚えております。地下鉄東西線の竹橋で降りまして、徒歩でお濠をめぐり、橋を渡って北桔橋門の警察派出所に「頼もう」と名乗りを上げるわけです。そうすると、番号札をいただきまして、何とまあ大きな門の片隅にある潜り戸を指示されます。その潜り戸を開けまして中に入ります。そこは東御苑でありまして、観光客も出入りできるところなのでありますが、北から入る人は稀なのです。

つまり、自分で扉を開けまして、皇居の内部に入ることができると言う、わくわく体験なのであります。

書陵部というのは、その門からすぐの所でありまして、普通の図書館と同じような扱いですが、係の方はごく普通に応対をしてくれましたので、むしろ落ち着いて本を借り出し、閲覧いたしました。帰りは、どこから出ても構わないという説明を受けていましたので、中を気楽に散歩して、大手門から出まして、例の札を入ったところとは別ですがやはり警察の派出所に出してお終いです。皇居と言うよりも江戸城の遺跡を歩いた感じがいたしまして、石垣の石のサイズの大きさなどに圧倒されますが、手入れは行き届いておりまして、さっぱりとしていたんであります。30年も前のことですから、今も同じシステムなのかどうか分かりません。ひょっとすると、どなたか偉い先生の紹介だったのかも知れませんから、普通に入れるとは言えないでしょうけれど、案外平常心で出入りできたという印象なのであります。


白秋は作者伝のところで、めずらしく源宗于の逸話を紹介しております。佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』にも出て来るので、単に孫引きですが、いつもはそっけなく官人としての略歴を述べるだけだったりするので、何か心が動いたんでしょうか。源宗于は、この百人一首の歌が有名であるのに対して、作者の方はエピソードが乏しいようで、あまり印象に残る話がないのであります。光孝天皇の孫に当たる人で、「源」姓でもわかるように皇籍から臣籍に下った人でありますが、三十六歌仙の一人と言われてもピンと来ないのであります。作者伝の歌は、兄弟と連れ立って祖父である宇多天皇の旧居に来たけれど、花を見ても「心もゆかず」という歌いぶりで、不満を述べております。一般には、おじいちゃんがいた頃は楽しかった、ということを言いたいと理解するようです。

『大和物語』には、他にもこの作者のエピソードが出て参ります。取り立てて面白いものもありませんから、なるほど印象に残らないわけであります。取り立てて好色と言うこともなく、やんちゃをして人目を引いたわけでもないようでありまして、おそらくは上品で自己主張の少ない元皇族のお坊ちゃまのようであります。右京の大夫というのは閑職ですから、本人はもうちょっと出世したかったようで、宇多天皇に愁訴した述懐の歌が残っているんですが、あんまり修辞が効き過ぎて、宇多天皇は意味が分からんとか言って、誰かに相談したんだそうです。たぶん、相談に乗った人が、源宗于本人に帝が分からないって言ってるよと伝えたんでしょうね、本人ががっかりしたというエピソードが載っております。


たぶん、直系の孫なので、油断して歌だけ贈ったんですね。今も昔も何か実のあるものをついでに贈らないと、そういうことになってしまいます。昔の人だって、修辞技巧を使われたら歌の内容なんて分からなかったんでありますね。そんなものなのであります。この話を前提に、白秋が作者伝で引用した話を考えて見ると、過去のいきさつを浮かべた源宗于が、「ちぇ、あのじじい、まろを無視しおって」というような気分が「心もゆかず」から感じられたりしませんか? 

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