北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(25) 藤原定方
25 三条右大臣
名にしおはば逢坂山のさねかづら人にしられでくるよしもがな
〔評釈〕逢坂山の逢ふといふ字が、その名の通りであるなら、その逢坂山に生えてゐるさねかづらを手にたぐるやうに、人に知られぬやうに、私の方へ忍んで来る仕方もないものだらうか。
といふ意で、或女の許へ送つた歌で、素直に穏健に出来てゐる。そして何となく懐しさがある。この歌は後撰集恋三に「女の許につかはしける」と題して出てゐる。人に知られでの「で」は必ず濁ること。
〔句意〕▼名にしおはば=名の通りならばの意。「し」は強めた助辞。▼逢坂山=山城と近江の境にある山で、「逢ふ」といふ詞にかけてある。▼さねかづら=五味子といふ実のなる草。美男かづらとも云ふ。「さね」は「小寝」で寝る事にかけた。「かづら」は蔦かづら等の様に長く延びてゐるから手で繰ることを、人の来るの意にかけたのである。▼くるよしもがな=来る方法もありたいものと願ふ意。
〔作者伝〕
本名は藤原定方、勧修寺家の祖、良門の孫で父は内大臣高藤である。醍醐帝の延長三年に大納言から右大臣に任ぜられその女は入つて宇多帝の女御となつた。承平二年八月六十歳で薨じた。三条に住んだので三条右大臣といつたのである。
〔補記〕
ひとつ前の歌と同様に、誤植の類は見られませんでした。ただし、作者伝の「その女は入って」は「その女は後宮に入って」などとあるほうがよさそうです。この場合、「女」は「むすめ」と訓じるのが普通です。
なお、「さねかづら」は、かつてはモクレン科に分類されていましたが、現在はマツブサ科に入っておりまして、その中でサネカズラ属に分類されているそうです。植物分類は、分子系統学の発達で刷新されておりまして、見た目による分類だった昔とは様変わりしております。
〔蛇足〕
尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』は、それぞれの歌人の逸話が盛りだくさんで、百人一首の注釈書というよりは、百人に関する説話集の趣をした楽しい読み物であります。ひとつ前の菅家すなわち菅原道真に関してもかなりのページを割いていたんですが、この三条右大臣すなわち藤原定方に関しては、書くことがなかったようであります。歌物語に分類される『大和物語』の中にいくつかエピソードがあるんですが、ひとつ紹介してみましょう。
三条の右の大臣、中将にいますかりける時、祭りの使にさされていでたちたまひけり。通ひたまひける女の、絶えてひさしくなりにけるに、「かかることにてなむ、いでたつ。扇もたるべかりけるを、さわがしうてなむ忘れにける。ひとつたまへ」といひやりたまへりける。よしある女なりければ、よくておこせてむと思ひたまひけるに、いろなどもいと清らなる扇の、香などもいとかうばしくておこせたる。ひき返したる裏のはしの方にかきたりける。
ゆゆしとて忌むとも今はかひもあらじ憂きをばこれに思ひ寄せてむ
とあるを見て、いとあはれとおぼして、返し、
ゆゆしとて忌みけるものをわがためになしといはぬはたがつらきなり
普通扇の貸し借りはしないというのが前提のようで、それをちょっと拝借したいと頼まれた女が、貸してくれるんですが嫌味な歌が書いてあったというのであります。これに対して、普通は貸さない扇を貸したんだから、君の方が冷淡だよねって応酬したようです。貸し借りする点では親密な関係のようでもあるんですが、やり取りする歌の内容は互いに毒を吐いているという、経験した人なら分かる痴情のもつれ具合であります。
話を、「名にし負はば」の歌に戻します。歌の末尾に使われている「もがな」は、和歌では定番の助詞ですが、現代にはもう残っておりません。歌語として多用されて、やがてまったく新鮮味を失ってすたれたものでしょう。現代的に言うなら、消費し尽くされた歌語であります。「もがな」は名詞の後に使われた時は、「~があるといいなあ」というニュアンスですが、言葉の成り立ちは不明です。「も」に「か」が付いたところから、「もが」が成立し、それに「な」が加わったとされますが、「も」に「がな」が付いて成立したと考えられる節もあります。白秋は、訳出では「ないものだらうか」としていて、句意では「ありたいものと願う意」と言っておりますね。
この「さねかづら」の歌は、「くる」が「繰る」と「来る」の掛詞なのかどうか、掛詞がないかもしれないという点で古来注釈が対立していて、よく分からないところがあります。世間には内緒ですが、実は『百人一首』の歌の解説は、学校での試験が成立しないくらい諸説紛々なんです。さらに、「逢坂山」という地名に「逢ふ」、「さねかづら」に「さ寝」を掛けるとして、修辞が満載の歌と言うことになっております。ただ、掛詞を想定する解釈の弱点は、「行く」ではなくて「来る」と言っている点で、三条右大臣・藤原定方が女に贈った歌としては、解釈しにくいところがあるというものです。白秋は、「私の方へ忍んで来る仕方もないものだらうか」と処理しておりまして、この解釈は尾崎雅嘉『百人一首一夕話』や佐佐木信綱『百人一首講義』から受け継がれたもので、香川景樹の『百首異見』なんかも同じ見解のようです。一番素直な解釈を推すグループです。
修辞技法などというものは、考えていると分からなくなるものです。
一応、白秋のような解釈を援護しておくと、まず「逢坂山のさねかづら」は何を名に負っているのかという点については、「逢ふ」と「小寝」でよいと思います。次に「逢坂山のさねかづら」が導くのは「繰る」でありまして、これは「さねかづら」の縁語ということです。この「繰る」に「来る」を掛けているわけです。「繰る」と「来る」の掛詞です。この「来る」を巡って、和歌をもらう女性が「来る」というのは、男が女の元に通う風習に合わないとして揉めるんです。ただし、『源氏物語』を普通に読んだら、光源氏なんかは二条邸に紫式部を略奪して来たり、六条邸に妻妾を住まわせたりしておりますし、「宇治十帖」では匂宮が中の君を京都に呼び寄せたりしております。薫大将だって、浮舟を京都に来させようとしておりましたよね。女が男の元に行くというパターンは、ちゃんと存在するわけでございます。
男が通って行くのが普通の社会なら、逆に、女に「来るよしもがな」と誘いかけるインパクトは大きいものがあったことでしょう。要するに、通うのは面倒だから、いっそ君の事を我が邸宅に囲おうかな、と言っているのであります。平安時代の物語にそういう場面があるので、女に「うちに来る?」と呼びかけることはあったはずですね。大臣家の坊ちゃんで、順調に出世して大臣になった定方ならありうることでしょう。
以上、白秋を応援しました。白秋は、不倫相手の女性を、彼女が夫と離婚した後で三浦半島に呼び寄せたことがあったようです。
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