北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(14) 源融

14 河原左大臣


陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑにみだれそめにし我ならなくに


〔評釈〕奥州の信夫郡から出るもぢ摺りの模様の乱れたやうに、自分の心は乱れてゐる。これはいつたい誰の為であらう。みんな君故である。自分がかつてに思ひ乱れたのではない。

といふ意。この歌は古今集恋四に「題しらず」として出てゐるが、第四の句が「みだれんと思ふ」となつてゐるのを伊勢物語に書き誤つたものらしい。百首異見には古今集の方がよいと云つてゐる。


〔句意〕▼みちのく=陸奥国の事。▼しのぶ=信夫郡の事。▼もぢずり=むかし用ひた摺衣の事で、黄土摺、藍摺、垣衣摺、月草摺、萩摺などと云つて、草木を何となく布に摺りつけてあやとした。もぢずりは信夫郡から出る髪を乱した様にしどろもどろに模様を摺りつけた衣を云ふ。ここは心の乱れたのにたとへた序詞である。▼誰ゆゑに=他人のためにの意。▼我ならなくに=我ではないの意。「なく」は「ぬ」の延音である。


〔作者伝〕

実名源融、嵯峨天皇の第八皇子で、貞観の初正三位、同十四年に左大臣、元慶二年正二位、更に宇多天皇即位後従一位に進み、輦に乗つて宮中に出入を許された。寛平七年七十歳で薨去し正一位を賜ふ。

性、風流を好み豪奢な生活を極めたらしい。河原院は東六条の北鴨河の西にある別業で、此処に住まれた為、河原左大臣といふ。毎日難波から海水二十斛を汲んで来て、塩を焼かせた話は有名である。宇治の平等院はもとその山荘であつた。


〔補記〕

作者伝のところに、「海水二十斛」とありますが、「斛」というのは「コク」と読み、容積・容量の単位です。一般には「石」と表示されるもので、中国でも容積・容量は時代によって変遷があったようですが、現代の日本では「一石」は180Lくらいのようです。「一石」は「十斗」に当たりまして、「一斗」が「十升」に当り、「一升」が「十合」に当たるものです。一合が、ほぼ180mlですから、一升は約1・8L、1斗は18L、よって一石が180Lに相当することになりわけなのです。一合がコップ一杯の分量だとすると、一升は一升瓶でおなじみの酒瓶一本分、一斗は灯油缶ひと缶ということになります。毎日運んだ海水は、灯油缶200本分もあったということなのです。海水というのは、1Lがほぼ1㎏、もうちょっと正確に言うと海水は真水よりも20gから30gくらい重いそうです。ともかく、3トンから4トンくらいの重量になりますので、今ならタンクローリーを使って運ぶものです。本当だとすると、すごい話なのであります。


〔蛇足〕

この歌は、「乱れ染め」を導く序詞が、上二句の「陸奥のしのぶもぢずり」でありまして、その序詞を省くと、「誰ゆゑに乱れ初めにし我ならなくに」でありまして、これは歌の相手に対するなぞかけでありまして、その下に趣旨を「汝ゆゑに乱れ初めにし我なり」と補えばよいのかと思います。それでも、分かりにくいところがありますので、「誰ゆゑに」で始まる疑問文を最初に補うといいのかもしれません。つまり、


我は誰ゆゑに乱れ初めにしことか。誰ゆゑに乱れ初めにし我ならなくに、汝ゆゑに乱れ初めにし我なり。


ということでありまして、実は河原の左大臣が詠んだ下三句を省いて、補った最初の疑問文と、補った結論部分をくっつけて「我は誰ゆゑに乱れ初めにしことか。汝ゆゑに乱れ初めにし我なり」とすれば、簡潔になってしまうのであります。


江戸時代の尾崎雅嘉『百人一首一夕話』の解釈を引用してみたいと思います。


奥州の信夫郡より出づるもぢ摺りといふものは、髪を乱したるやうにしどろもどろに模様を摺りつけたる衣なるが、我も誰故に心が乱れ始めしぞ、皆そこ許故の事にて、我と思ひ乱れたるにはあらず。


二人称を「そこ許(そこもと)」とするところに趣がありまして、序詞の部分を訳出している点にも特色があります。また、分かりにくい「乱れそめにし我ならなくに」の部分を「我と思ひ乱れたるにはあらず」と改めていて、なかなか上手です。これに対して、明治時代の佐佐木信綱『百人一首講義』の解釈も引用してみたいと思います。


誰ゆゑに、思ひみだれそめたる我なるぞ、他の人の為にはあらで、君ゆゑなるに、なほいつまでも、しかつれなきぞ。


信綱は、序詞をばっさりと切り落とし、最初に疑問文を補い、左大臣の詠んだ下三句を省いて、「君ゆゑ」という答えだけを提示しております。「君ゆゑ(思ひみだれそめたる我なるぞ)」と容易に分かります。これはこれで、大胆で上手なのであります。そして、「なほいつまでもしかつれなきぞ」と相手を責める言葉を補っておりまして、呪文みたいな河原左大臣の歌が、明瞭すぎると思うくらいのメッセージになっております。さすがに、白秋はこれを受け入れなかったようです。

佐佐木信綱の「なほいつまでもしかつれなきぞ」というのは、訳して見ると「(ずっと口説いているが)それなのにいつまでもそのように冷淡なのか」ということで、成就していない恋のような解釈に取れてしまいそうです。深い関係になっても、時折愛情を疑われるというような状況を普通は考えるわけで、その返事としては「なほ今でも(我は汝のみを)思ひては乱るることかな」と首ったけであることを主張するほうがよいと思います。


源氏と言うのはこの人河原左大臣あたりから始まったものです。嵯峨天皇は蔵人制度を作ったり、皇子たちを貴族にしたり、いろいろなアイディアを持っていたようです。左大臣に上り詰めた融というのは、なかなか手ごわい政治家で、藤原氏を困らせていたらしく、陽成天皇が廃帝となった際には、自ら天皇になりたいという意志を表明し、そうなる可能性は高かったのではないでしょうか。藤原基経がそれを阻止しましたが、その言い分は臣下に下ったものが皇位に就いた例はないというもので、それはそれで当時説得力があったようです。その結果、老皇族だった光孝天皇が即位しましたが、後継ぎとなる光孝天皇の子供は源氏になっていたので慌てて皇族に戻ったようです。それが次の宇多天皇ですが、それなら融が天皇になっていてもよかったのです。あれほど恋慕した国王の地位なのに、その場しのぎの藤原氏の言い分が通ってしまったということ。

政治なんてそんなものでありまして、舌の根も乾かぬと言います。


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