北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(42) 清原元輔

42 清原元輔


契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは


〔評釈〕あの時、あれほど堅い約束をしたではないか、互いに涙に濡れた袖を絞りながら、あの末の松山を波が越す事のないやうに、二人の心は決して変らないと。それだのに今あなたの心の変つたのはあの約束を忘れたのか、よもや忘れはすまい。

との意で、女の心変りを怨んだ歌である。この歌は後拾遺集恋四に「心かはりてはべりける女に人に代りて」と題して出てゐる。表現法なども「契りきな」と最初にいつて強い調子で面白い。


〔句意〕▼契りきな=約束したがなあの意で、歎息の詞。「きな」は「けりな」の約つたのである。▼かたみに=互にの意。▼袖をしぼりつつ=涙にぬれること。▼末の松山=陸前国宮城郡の海岸の地名。末の松山は波の越えない山であるから、心の変りせぬことに用ひたのである。下の句は古今集の陸奥の歌に「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山浪もこえなん」によつたものであらう。


〔作者伝〕

祖父は深養父、父は下野守顕忠で代々歌の聞えが高いが元輔に至つて一層高くなつた。天暦五年河内権掾に、寛和二年に肥後守となり、永祚二年八十三歳で卒した。

天暦の頃和歌所の寄人をしてゐたが、坂上望城、紀時文、源順、大中臣能宣と共に万葉集の訓点を施し、又後撰集をも撰んだ。世に梨壺の五歌仙といふ。とにかく当代一流の歌人である。有名な清少納言はその娘である。


〔補記〕

句意のところで、「きな」は「けりな」の約であるという説明がありますが、現在は「き」を過去の助動詞の終止形として考えますので、白秋のような理解はしないことでしょう。

句意にある通り「末の松山」は陸奥の歌枕ですが、少し補足すると国守の屋形があった多賀城付近の丘陵で、海からは距離があったものの、貞観年間の津波が押し寄せて波に浸ったと思われます。

清原元輔は、延喜八年(908)の生まれで、永祚二年(990)に亡くなっているので、白秋の作者伝にありますように、享年83歳でよさそうです。佐佐木信綱『百人一首講義』では、これが63歳と出ていますが、信綱の誤りのようです。

なお、萩谷朴『枕草子解環』の考証によると、元輔と深養父の年齢差は27歳なので、深養父は元輔の父の可能性が高く、深養父は清少納言の祖父ということになります。


〔蛇足〕

元輔さんの歌は初句切れの歌であります。ですから、初句が実は五句目の後に回り込んで、一首が完結するわけです。「浮気はしないと約束したわね」と言うんですから、今は裏切られて泣いているんですね。約束の時は、「互いに袖の涙を絞って」という相思相愛、極まる恋情のなかで夢うつつだったわけですが、今は「一人で失恋の涙を袖に流して」いるわけでありまして、夢破れたあとの失恋の悲しみが余情として浮かぶわけであります。


この末の松山は、貞観地震を前提とした歌枕であった可能性は大きいのではないかと思うのです。『奥の細道』の旅では、松尾芭蕉は立ち寄って「末の松山」を見ておりますから、江戸時代でも名所だったと思われます。そして、2011年東日本大震災の折の大津波だと、末の松山を波が越えたみたいでありますから、1000年に一度の大災害に関わる歌枕を元輔が詠み込んでいるわけです。京都の歌人が、遠い陸奥の歌枕を詠む背景には、古代の律令国家を揺るがした大事態が影を落としていると見るべきでしょうね。


さて、『今昔物語集』本朝世俗部、巻二十八の第六話に、清原元輔さんが登場であります。


賀茂の祭りの使いをつとめた時に、落馬するというハプニングがあったというのです。それも、一条大路の殿上人が見物していた真ん前のことで、ご老体だからみんなはらはらして気の毒がっていたというのですね。ところが、夕日のなかを立ち上がった清原元輔は、はげ頭をぴかぴかさせながら演説をぶち始めたわけです。この時代の貴族というのは、頭髪をとても恥ずかしがって必死に隠すものなんですが、この人は家来が渡そうとする冠を無視して「皆さんに申しあげたいことがある」と仁王立ちしたわけです。頭髪が恥ずかしいくらいですから、禿げ頭はもっと恥ずかしいものだったようで、人前では絶対に見せてはいけないもののようです。にもかかわらず、何をこの人は始めたのか。


すっぽんぽんのお父さんに毛がないわけですから、大爆笑が起きてしまうんですが、笑っている若い貴族の一人一人のところを回りまして、落馬がどうして生じたか、過去の貴族の落馬にどんなのがあったか、詳細に語って聞かせたそうです。「だから笑うでない」と言うんですけれども、はげ頭の言うことですから、みんな笑いが止まらないんであります。いつも笑いを取っていた人です、というような落ちが付いていますから、面白い人だったと言うことなのです。


貴族と言ったって、腰には刀を差して宮中に上がりますし、馬には乗るし、日頃の鍛錬は弓矢の稽古なんであります。つまり、貴族はもともと武人でありまして、政治と軍事は一体のものでありましょう。鎌倉時代に武士の政権ができたというのは、まったくの嘘っぱちでありまして、下級貴族や地方の官僚が武士のような存在だったわけです。平安時代だって、地方で反乱が起きれば中央から制圧に行ったんですから、貴族だって軍事的側面が大きかったのであります。 

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