超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(34) 藤原興風
誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに 藤原興風 (古今、雑上、909)(興風集16726)(六帖34954、松)(和漢朗詠集下、交友) 〔釈義〕 (年老いたこの身、僅かに心の支えにしていた知友にも先立たれてしまった。今となっては、)一体だれをまあ、私を知ってくれる人として頼ったらいいのか?(老人の友には老人がふさわしく、孤独の人の友には孤独の人がふさわしいといわれる。今私にふさわしい孤独の老友としては、そうだ、あの高砂の尾上の松が考えられる。彼をわが知友として頼ろうか?しかし、考えてみると、)高砂の松も、ずっと昔からのわが馴染みの友ではない(、従って心おきなく互いに往時を語りあい、哀歓を共にするなどといったことは出来る筈がない)といった情況において! 〔義趣討究〕の要旨 ① この歌は、古今集に「題しらず」として収められているが、「高砂の松」という対象が問題であり、その用例を検討してみると、霊力ある長寿のものとして憧れの対象から、無為無聊、憂愁孤独のものとして連想される対象に変って来た。 ② 興風の歌では、高砂の松は霊力ある憧れの対象ではなく、憂愁孤独のものとして連想される対象であり、孤独老残の境涯にある詠作主体が同類の友として想到したものである。 ③ しかし、高砂の松は故旧の友ではなく、互いに相手の過去幾十年をしらず話し相手になれるはずがない。一体だれを知友に探し求めたらよいかと深く落胆している趣である。 ④ 「ならなくに」は、普通「ではないのに」の意の逆接と解されているが、ここは「でない情況において」の意である。 〔鑑賞〕の要旨 ① この歌は、上の句で知友を求め得ない絶望的な嘆きを打ち出し、その後で嘆きの発生する基盤を述べる。高砂の松を同類とみなしながら、わが知友となし得ぬとしたところに、新しい捉え方がある。 ② 「かも」「ならなくに」のような古めかしい語句を使ったことや、二句切れにしたことは効果的である。 〔蛇足〕 以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の藤原興風の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、和歌の引用があったり、音調面の分析があったりしたものを、今回もまた乱暴にそぎ落としてお...