超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(28) 源宗于

山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば     源宗于朝臣

      (古今、冬、315)(六帖34416、冬の草)(和漢朗詠集下、山家)


〔釈義〕

山里(の侘び住まい)は、(いつとなく年中淋しいものではあるが、)冬がだ、特にさびしさのまさるものであったことだ。(秋は、いわゆる、人の心にも秋が来て訪ねて来ることも遠のいてゆくし、同時に草木も枯れて来るといって悲しまれてもいるが、秋の草木には黄葉の美しさもあり、そのせいで訪ねて来る人もまだある。ところが冬になると、美しかった草木も見る影もなく枯れてしまい、従って秋草の美に惹かれてここを訪れていた人ももう姿を見せなくなってしまうというわけで、)人の見えることも遠のき草も枯れて(、もう我が心を慰めてくれるものは何一つなくなって)しまうのだと、じっと思い入ってみるとなあ。


〔義趣討究〕の要旨

① この歌は、古今集の詞書に「冬の歌とてよめる」とあるが、主題は何か、歌趣はどこにあるか、容易に分からない。

② 似たような意味構造の歌や文を検討すると、所は「山里」「故里」「山」、季節は「秋」「冬」「春」、刻限は「夜」「曙」「夕暮」を題にとって述べているが、それらは題に対する結論「わびし」「悲し」「寒し」「なかれぬる」と、その結論に至る理由説明の部分からなっている。これらは、自然や生活環境の観照であり、体験を通して把握したものである。

③ 興風の「秋くれば虫とともにぞなかれぬる人目も草もかれぬと思へば」(仁和寺御時二宮歌合)の歌は、下の句が共通で、秋と冬の対比ができるので、源宗于の歌と密接な関係がある。

④ 「秋くれば」のうたでは恋する女の気持を詠んでいるが、「山里は」の歌では女と限らず、失意不遇あるいは無常を感じて山里に住む境涯の人を想定している。

⑤ 末尾の「と思へば」は単に語調を整える軽いものではなく、思念の結論である。「人目も草もかれぬ」は、「秋くれば」の歌では運命の予測であるが、「山里は」の歌では現実の奥にある理法の体感である。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌は、実生活から出た実感ではなく、思惟の世界での興趣である。山里の冬の興趣を人の姿を見せることが遠のくことと、草が枯れるということを同類と見る想念の世界であり、それによってじめじめした暗さを持たない。

② 西行の「さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵並べむ冬の山里」(新古627)は、この歌を踏まえており、源宗于の歌の主人公は冬の寂しさに堪えている人として西行は想像した。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の源宗于の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、和歌の引用があったものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕では、類似の歌を検討して、山里の冬を寂しいものと結論付け、その理由説明をしているという構造を指摘しています。下の句を共通する興風の歌と対比し、詠作主体の相違があると主張しているだけではなく、下の句の「人目も草もかれぬ」が興風の歌では運命の予感に留まるのに対し、源宗于の歌では現実を突き抜けた理法を示すという考えを提示しています。さらに、西行の歌がこの源宗于の歌を踏まえた歌であるとみなして、西行が冬の寂しさに堪えている詠作主体を理想のものと考えて庵を並べることを願ったとまで想像しています。なお、〔鑑賞〕における音調面の指摘は今回も割愛しました。


非常に有名な歌であります。教育の場で掛詞の例として度々使われますから、記憶している方もいるだろうと思うのであります。冬になると草も枯れて人目も離れるから、山里は寂しさがまさるという歌でありまして、「人目も離れぬ」というのが、現代語ではないわけで、それを除けば非常に分かりやすい歌なのであります。著者が〔釈義〕の最初に補っているように、山里は「いつとなく年中淋しいものではあるが」というのが、この歌の前提でありまして、平安京の市街地に対して、山里を歌の舞台として発見し、そこに積極的な美を見出して行くというような時代の流れに即した歌です。


本居宣長や香川景樹が、この歌の末尾の「思へば」が不要であると噛み付いているらしいのですが、そう言われてみると、冗長な感じがするから不思議ですね。「かれぬとおもへば」ではなくて、「かれにけるかな」とでも言えばいいと宣長先生や景樹先生は思ったのでしょう。ただ、『古今集』の冬の部では二首目に位置していまして、まだ、草が枯れていない頃の感慨だとすれば、「思へば」も無駄ではないのであります。寂しくなる前に、冬の寂しさを予感していることこそが歌の主眼でありましょう。倒置法によって、寂しい理由を下に持ってきているわけで、それが実際にそうなる前の予感を述べたところが、手柄の歌なのでしょう。著者の桑田明氏は、この「思へば」を思念を示したものと捉え、「人目も草もかれぬ」は、予感を超えて理法を示しているのだとしています。よって、この詠作主体は男の訪れを待つ女ではなく、冬の寂しさを堪える西行の理想という見立てになったようです。



〔蛇足の蛇足〕

「かれぬ」の「ぬ」という助動詞は、現在使われないものですから、これのニュアンスが大事なんでありますね。普通は完了の助動詞として説明するんですが、実は完了を表さない用法があるのであります。これから起こることを意識させる用法なんですね。「もうすぐ、起きちまうぞ、どうする、どうする」というような語法でありまして、こいつの一番有名な例は、『伊勢物語』にございますね。第9段の東下りと呼ばれるところに、隅田川を渡るところがあるんであります。普通に考えると両国橋当たりかと思いますが、ひょっとすると今のスカイツリーを臨む浅草あたりの可能性もあるわけですが、そこで渡し守に、こうせかされるんであります。


    「はや船に乗れ。日も暮れぬ」


この、「日も暮れぬ」というのは、真に受けていてはいけないので、たぶんちっとも日没の時刻ではないわけです。午前中だったり、真っ昼間に「日が暮れちまうぞ」とせかしているわけで、この「ぬ」はもちろん打消の助動詞ではなくて、完了の助動詞なんですが、終わってしまったことを示しているわけではないわけです。基本的には、天気予報などの未来予測に使われるものなのでありますね。ぐずぐずしていると日が暮れちまうよ、というわけです。これを踏まえて、源宗于の歌を見ると、実はまだ「人目も草もかれていない」時期を詠んでいると分かります。単純な冬景色の歌ではありません。


ところで、世間には、宮内庁書陵部蔵、堯孝筆『百人一首』という本がありまして、影印本が笠間書院から出ております。非常に達筆ではありますが、冒頭の「秋の田の」から始まるあたりは丁寧に書かれておりますが、この「山ざとは」のあたりに参りますと、筆勢に変化がありまして、最初の頃の落ち着いた感じに対して、少し雑な感じがして参ります。このあと和泉式部の歌のあたりで致命的な書き損じもあるんですが、それでも見事なものには違いありませんから、手に入れれば鑑賞して楽しんでいただけると思います。


宮内庁の書陵部と言うところには、実は一度だけ入ったことがありまして、記憶は薄れていますが、皇居のお濠の向こうに行ったことがあるのです。何か調べ物をするためにどうしても必要で、どう連絡を取ったのかは忘れましたが、入る時にどきどきしたのを覚えております。地下鉄東西線の竹橋で降りまして、徒歩でお濠をめぐり、橋を渡って北桔橋門の警察派出所に「頼もう」と名乗りを上げるわけです。そうすると、番号札をいただきまして、何とまあ大きな門の片隅にある潜り戸を指示されます。その潜り戸を開けまして中に入ります。そこは東御苑でありまして、観光客も出入りできるところなのでありますが、北から入る人は稀なのです。


つまり、自分で扉を開けまして、皇居の内部に入ることができると言う、わくわく体験なのであります。


書陵部というのは、その門からすぐの所でありまして、普通の図書館と同じような扱いですが、係の方はごく普通に応対をしてくれましたので、むしろ落ち着いて本を借り出し、閲覧いたしました。帰りは、どこから出ても構わないという説明を受けていましたので、中を気楽に散歩して、大手門から出まして、例の札を入ったところとは別ですがやはり警察の派出所に出してお終いです。皇居と言うよりも江戸城の遺跡を歩いた感じがいたしまして、石垣の石のサイズの大きさなどに圧倒されますが、手入れは行き届いておりまして、さっぱりとしていたんであります。30年も前のことですから、今も同じシステムなのかどうか分かりません。ひょっとすると、どなたか偉い先生の紹介だったのかも知れませんから、普通に入れるとは言えないでしょうけれど、案外平常心で出入りできたという印象なのであります。


以前取り上げた北原白秋は作者伝のところで、めずらしく源宗于の逸話を紹介しております。佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』にも出て来るので、単に孫引きですが、いつもはそっけなく官人としての略歴を述べるだけだったりするので、何か心が動いたんでしょうか、次のように記しています。


    大和物語に「宇多の院の花おもしろかりける頃、南院の公達これかれ集りて

    歌よみなどしけるに、右京のかみ宗于のよまれたるうた、

    「来てみれば心もゆかず故郷は昔ながらの花はちれども」とある。


源宗于は、この百人一首の歌が有名であるのに対して、作者の方はエピソードが乏しいようで、あまり印象に残る話がないのであります。光孝天皇の孫に当たる人で、「源」姓でもわかるように皇籍から臣籍に下った人でありますが、三十六歌仙の一人と言われてもピンと来ないのであります。作者伝の歌は、兄弟と連れ立って祖父である宇多天皇の旧居に来たけれど、花を見ても「心もゆかず」という歌いぶりで、不満を述べております。一般には、おじいちゃんがいた頃は楽しかった、ということを言いたいと理解するようですが、はたしてそうなのか。「南院」というのは源宗于の父のことでありまして、宇多院の子だった人です。祖父の邸宅に結集して歌を詠んでいますが、はっきりこの人は兄弟の前で宇多院の事を「気に食わない」と言ったんじゃありませんか?


『大和物語』には、他にもこの作者のエピソードが出て参ります。取り立てて面白いものもありませんから、なるほど印象に残らないわけであります。取り立てて好色と言うこともなく、やんちゃをして人目を引いたわけでもないようでありまして、おそらくは上品で自己主張の少ない元皇族のお坊ちゃまのようであります。右京の大夫だったそうですが、それは閑職ですから、本人はもうちょっと出世したかったようで、宇多天皇に愁訴した述懐の歌が残っているんです。ところが、あんまり修辞が効き過ぎて、宇多天皇は意味が分からんとか言って、誰かに相談したんだそうです。たぶん、相談に乗った人が、源宗于本人に帝が分からないって言ってるよと伝えたんでしょうね、本人ががっかりしたというエピソードが載っております。


たぶん、直系の孫なので、油断して歌だけ贈ったんですね。今も昔も何か実のあるものをついでに贈らないと、そういうことになってしまいます。昔の人だって、修辞技巧を使われたら歌の内容なんて分からなかったんでありまして、祖父の好物でも添えて気の利いた人に伝言を頼まないと駄目でしょう。人生は、そんなものなのであります。この話を前提に、花見の時の歌の心情を考えて見ると、過去のいきさつを思い浮かべた源宗于が、「ちぇ、あのじじい、まろを無視しおって」というような気分が「心もゆかず」から感じられたりしませんか?  

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