超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(16) 在原行平

立ち別れいなばの山の峯に生ふるまつとし聞かば今帰り来む   中納言行平

     (古今、離別、365)(六帖32135、国)


〔釈義〕

(今)出立し別れて、(私は)もう往ってしまおうとしている因幡の国!その因幡の国の山々の峯に生え(茂っ)ている(のが想像に浮かんで来る)松!「まつ」といえば、(そうだ、)あなたが私を待って恋い焦れていらっしゃるという、外ならぬその消息を、風の便りにも聞くでしょう。そう聞いたなら、(私はあなたが恋しく望郷の念に堪えられなくなって、)今早々に(京に)帰って来るでしょうよ!(どうか、しばらくのことです、辛抱して待っていて下さい。)


〔義趣討究〕の要旨

① 「往なば」を逆接仮定条件と解するのは無理で、「往なば」「聞かば」と順接仮定条件が二度繰り返されている。これは、「往なば」「聞かむ。聞かば」「帰り来む」という構造と解してよいのではないか。

② この歌は、「因幡に赴任するために京都を出発する際の歌」とも「因幡で任期満了して京都に向かって帰途につく際の歌」ともとれ、「妻または愛人に贈った歌」とも「見送りの人々に対する挨拶の歌」とも取れ、決め手がない。

③ 「往ぬ」ということばは、「ここから去ってどこかへ行く」という意味ではあるが、「ここから」という補語は明示されず、「どこかへ」という補語はよく明示される。この歌の「いなば」を「往なむ」と「因幡」を懸けたものと考えると、「往なむ因幡」となり「往なむ往先である因幡」の意となって、京都で因幡赴任の際に詠んだものとなる。

④ この歌について、古来風体抄には「この歌あまりにぞくさりゆきたれど、姿をかしきなり」とあって、懸詞を次々に次ぎ合わせた歌として「鎖る」とある。「往なば(往なむ)」と「因幡」の懸詞や「松」と「待つ」の懸詞のほかに、「峯」に「見ね(ば)」も懸けてあるのではないか。

⑤ 和漢朗詠集下、餞別に見える江相公の漢詩文は、送る側の詠であるが、この歌と構造が似ているので参照すると、この歌は「立ち別れ往なむ因幡」「その因幡の山の峯に生ふる松」「君が待つとし聞かむ」「そう聞かば今帰り来む」の四つの句から成る。それを懸詞で連鎖した点を俊成は指摘したのである。

⑥ 四つの句は起承転結の構成を取っていて、綿々たる情をこめた重量感のある歌であり、妻または愛人に対する切々たる離別の情を綴った歌である。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌を起承転結の構成を持ったものと考えたが、起句を序、承転二句を破、結句を急と考えると、序破急の構成になっている。

② 音調上からは、絶妙である。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の在原行平の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、和歌や漢詩の引用があったものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕では、古来風体抄における藤原俊成の評語を前提にして、一首の歌がどうのように懸詞によって連鎖しているのかという点を追及しています。その結果、一般に序詞とされる「因幡の山の峯に生ふる松」はもはや序詞の扱いではなくなっておりまして、有意の序という理解でもなくなり、そのまま一首全体が妻または愛人に贈った内容そのものという理解を示しています。その結果、この歌は起承転結または序破急の構成を持った重量感のある歌ということになっています。


著者の主張のポイントをもう一度確かめると、「いなば」の部分が「往なむ」と「因幡」の掛詞であり、そこが「往なむ因幡」となるだけでなく、「まつ」は「松」と「待つ」なのはもちろん、「きかば」が「聞かむ」と「聞かば」の二重表現という扱いであります。接続助詞の「ば」が、本来「むは」から転じたということを前提に、「いなば」「きかば」から「いなむ」「きかむ」という言葉を導き出しておりますけれども、さて、こうした考えが広く受け入れられるのか、あるいは、こうした表現が多くの歌に見出すことが出来るのかと考えると、かなり可能性は薄く感じられます。


通常のこの歌の解釈だと、「いなば」は「往なば」と「因幡」の掛詞、「まつ」が「松」と「待つ」の掛詞でありまして、「因幡の山の峰に生ふる松」が序詞ということになっています。よって、この序詞を除いてしまうと、この歌は次のような内容だけの歌なのであります。


    立ち別れ 往なば、……。 (されど)待つとし聞かば、今帰り来む。


著者が問題視している通り、「往なば」の順接仮定条件を、逆接仮定条件のように訳している注釈書は少なくないのでありまして、その一方で「ば」を不具合と見て、ここを「行く」とだけ訳してごまかしている注釈書もあるというような具合です。この点に切れ込んだことは、高く評価していいのかもしれません。「因幡」を解釈に繰り込むなら、序詞全体を有意の序もしくは序でもない内容にかかわる表現と見て、著者は解釈を施し、重厚な起承転結のある漢詩的な内容と考えたのであります。ただ、「往なば」の問題は、補いを工夫すればいいと思いますが、次のような補いをした例は見当たらないようです。


    (我と汝が)立ち別れ、(我独り因幡へ)往なば、(汝は我を忘れもぞすると思ふ)。

    (さは言へ、汝が我を)待つとし聞かば、(我はとりもあへず)今帰り来む。


「汝は我を忘れもぞすると思ふ」というのは、「もぞ」が危惧の表現で、「そなたが私を忘れたりしたら困るなあと心配だよ」ということです。著者は、順接仮定条件が「往なば」「聞かば」と連続するところを不審に思ったようですが、補いをすれば解決するのではないでしょうか。ただ、このような補いを従来してこなかったとすると、この歌を著者が「非常に難解」と感じたのは当然かもしれません。実は、「古今伝授」の内容も実態は不明ですし、近世・近代の注釈書も著者のように構造を考えたりはしてこなかったわけです。従来問題にしていたのは、京都で詠んだか因幡で詠んだかということと、「因幡の山」ではなくて「稲羽山」かどうかという点だったわけで、平安時代の初期にどう解釈していたかなんてレベルには到達していなさそうです。ちなみに、古い注釈書は因幡の国で離任時に詠んだというのが定説で、現代でもそちらを支持する徳原茂美氏『百人一首の研究』(和泉書院)の見解もあります。その場合は、先ほどの補いは次のように変化することでしょう。


    (我と汝らが)立ち別れ、(前国司の我が京へ)往なば、(我は汝らを忘れもやせむ)。

    (さは言へ、汝らが我を)待つとしきかば、(我は因幡へ)今帰り来む。


「因幡の山の峰に生ふる松」という表現は、どこで詠むのがふさわしいかというと、これはもう京都なんかじゃなくて因幡の国の国府の館ということになるはずだと考えるわけです。だいたい、赴任する時に「すぐ帰る」というのでは職務に不熱心でありまして、そんな怠慢官僚の歌を勅撰集に採用しないことでしょう。そうではなくて、赴任先の現地を上手に統治したら「国守様どうか戻って来て」とラブコールを受けて、「今帰り来む」と歌うのではあるまいかというわけです。かなり説得力があるかもしれません。たしかに、京都で旅立つ時ならば、詠み込む地名は京都にちなむものでなければだめでしょうね。「嵐山」と、不在を意味する「あらじ」の掛詞なら次のような歌になるはずであります。


    立ち別れ あらしの山の 峰に生ふる 松とし聞かば 今帰り来む(粗忽謹製)


〔蛇足の蛇足〕

この歌は割と調子のいい歌で、耳にしてもすんなりと入って来るし、唱えてもすらすら読めるのではないでしょうか。日本語としても、安定感のある言葉で構成されていると言えましょう。掛詞もさほど気にならないところがあります。じゃあ、何も問題がないのかというと、著者も頭を抱えた節があるように、いろいろと考えるべき点があると思います。


行平が因幡の国守として赴任するときの歌なら、斉衡2年(855)の前年くらいの歌と言うことになります。その時、37歳位でありまして、任期が終わった時なら貞観元年(859)、42歳くらいでありましょうか。行平は弘仁9年(818)に生まれ、平城天皇の第一皇子であった阿保親王の子供の一人です。あの在原業平の異母兄弟ということですが、母の素性が分かりません。在原姓の一族の中では順調に出世した人物でありまして、貞観15年(873)には大宰権帥になり、元慶6年(882)には、なんと中納言に至っておりまして、この地位の別名は黄門ですから、えらい地位だと誰もが察知することでしょう。寛平5年(893)に75歳で亡くなっておりまして、光孝天皇は同時代人です。非常によくできる 官僚であったということですが、須磨に流されたこともあって、この点『源氏物語』光源氏のモデルの一人でもあります。須磨で厨房で使う行平鍋を考案したという話もあり、また対馬を日本に帰属させたという功績もあったらしいのです。『百人一首一夕話』や『百人一首講義』には、詳しくいろいろ書いてありまして、政治家として凄腕だったことはすぐに分かります。現代の日本に復活させたいくらい有能だったようです。


この歌に関しては、通常は「因幡」と「往なば」、「松」と「待つ」の掛詞を含むものとするのが普通の理解ですが、ほんとうにそれだけなんでしょうか。たとえば、「峰」のところに「見ね」が掛かるとするような注釈は桑田明氏以外に見当たりません。さらに余計なことを言うなら、「因幡」のところに「往なば」が掛けてあるとするのは疑わしく、むしろ「立ち別れ」の部分がこの歌では「立ち分かれ」と言うに過ぎず、松の幹の枝分かれの状態を言うのかもしれないと感じます。双子の松とか二本松とか言う、いわゆるランドマークになりやすい松の特徴というものがありますから、それなら、「立ち分かれ因幡の山の峰に生ふる」の部分は、ただ単に「松」と「待つ」を導く、長々とした序詞としてすんなり頭に入るのではないかとも思います。「往なば」を掛けるのは相当の無理があると見てよいのではありませんか。いかが。


もしかして、この歌は国守階級の秘伝の歌でありまして、「いなば」のところに各地の地名を入れて詠み、国守の送別の宴の席で披露される定番の歌を行平の歌だとして採択したかもしれません。京都から近すぎても駄目ですがある程度遠くないと成立しませんので、東は「常陸」「上総」「武蔵」「相模」「駿河」「信濃」「越後」、西は「讃岐」「出雲」「石見」「長門」「周防」「筑紫」くらいでありましょうか。これらを見ると、掛詞になるのは「出雲」くらいだと分かります。つまり、「立ち別れ」の後に掛詞が成立すると見えるのは「因幡」と「出雲」くらいですから、狙って作った遊びの歌かもしれません。ただし、どの国であろうと善政を敷いた人でないと歌えないことでしょうね。


   立ち別れ いづもの国の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む(粗忽謹製)

   ※「いづも」は「出雲」と「出づ」の掛詞。


どうしても修辞だらけだと見たい向きに百歩譲ると、序詞の上三句「立ち分かれ」「因幡」「峰」の部分に、「立ち別れ」「往なば」「見ね」を匂わせて、「松」と「待つ」の掛詞を成立させている遊びに満ちた歌と言えばいいのかと思うのですが、どうでしょう。しかし、掛詞のようなものを探し出すと、切りがなく出てくるような気がしまして、やはり「往なば」は過剰反応ではないかと思うのです。そうじゃないと言うなら、「見ね」も認めましょうよ。 

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