超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(22) 文屋康秀
吹くからに秋の草木のしほるればむべ山風をあらしといふらむ 文屋康秀
(古今、秋下、249)(六帖31309、嵐)
〔釈義〕
(山風が)吹くことにより、そのせいで、秋の草木が(ひとたまりもなく)いたんでぐったりするので、なるほど、それで山風を(そこらじゅう荒らしまくるという意味を持った、おまけに「山」「風」に二字を結びつけた嵐の字を当ててまで書く)あらしというのであろう。(山風くんよ、そんな名がつけられても、仕方がないねえ。名にしろ君の意志ではなくても、君の行くところ忽ち沢山の被害者が出るのだから!)
〔義趣討究〕の要旨
① この歌は、「あらし=荒風」に嵐字をあてて書く習慣を利用して、嵐字を山風の二字に分解し、それと「あらし」とをうまく因縁づけて説明した知巧的な歌である。古今集には、梅字を木と毎とに分解して、「うめ」と因縁づけた歌もある。
② これらは、六朝頃の離合詩の流れを汲む字訓詩を和歌に応用したもので、本朝文粋にも二首の字訓詩が収載されている。
③ 字訓詩であってもその知巧面をのみ着目するのではなく、意味内容も趣致内容もそこに盛られた豊富な内容を汲み取るべきだが、藤原公任の和歌九品ではあまり評価されていない。しかし、詠歌大概の秀歌之体大略にこの歌を採用したからには藤原定家の評価が高いので、言語遊戯の作品以上かもしれない。
④ この歌に影響を受けた派生歌が勅撰集にも何首かあるが、それらは叙情の歌としても、叙景の歌としても深い詩情を持っている。
⑤ この歌は「……ばむべ……らむ」という形をとっているが、これを「AにおいてBなり。さればむべCはDなり。」と一般化することができる。「山風が吹くからに秋の草木のしほるれば」の部分は、山風が草木をいじめる残酷物語であり、草木にとって悲劇である。しかし、「それで山風はあらしといわれる」となると、滑稽感を帯びるのであり、そこに文字遊戯が加わって諧謔感が増す。
⑥ この歌は、秋から冬に向って自然の激変ぶりによって生じる悲しみを根底においているが、悲愁の感を克服しおかしみに転じて行く俳諧歌である。そのことから、派生した歌に深い詩情が含まれている。
⑦ この歌の「秋の草木の」は、古今六帖では「なべて草木の」とあるが、山風は冬は勿論春にも吹くので、「秋の」という詞は必要である。
〔鑑賞〕の要旨
① 山風の二字で嵐字になるとか、草木がぐったりなるので「荒し」という文字や言語の遊戯は多少の無理があるが、悲愁を転じた諧謔味は、機智に富んだ面白さがある。
② カ行音、ラ行音が多用され、二句目に「キノ」の繰り返しがあって、清澄な季節感を漂わせつつしゃれた感じを起させる。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の文屋康秀の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、和歌の引用があったものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕では、この歌から派生した歌を検討して、それらが詩情豊かな叙情歌や叙景歌であることを紹介して、言語遊戯に過ぎないと評価されるに留まっているこの歌から、詩情を汲み取ろうと努めています。その結果、山風が吹いて草木が萎れるという悲愁を、文字や言語遊戯によっておかしみに転じた手柄を指摘しています。近代短歌の流れからすると、とかく軽視されがちな古今集時代の遊戯的な和歌を、新古今集の代表的な歌人藤原定家が高く評価していた理由が突き止められているように見受けられます。
〔蛇足の蛇足〕
文屋康秀の歌は、一見すると非常に分かりやすい歌のようですが、実は解釈に大きな問題がります。この歌は「嵐」という漢字を、「山風」と分解する言語遊戯がメインなのか、それともそうではないのか、古注釈では対立しているのです。山風が吹いて草木が枯れるので、それを「あらし」という時の「あらし」は、おそらく「荒らす」の連用形から派生した名詞の「荒らし」とみなします。別にここに、漢字を分解する、中国の「離合詩」のような発想を認める必要はない、というのが昔から主張されてきたことです。
これに対して、『古今集』337番の紀友則の歌などと類似の、漢字を分解した遊びであるとする説が根強くあります。友則の歌を紹介してみましょう。
雪降れば木毎に花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきて折らまし
この場合は「梅」を「木」と「毎」に分けて遊んでいますが、その場合、歌の解釈には漢字の遊びの部分は関わってこない点に注意がいるでしょう。これと同じ事が、「吹くからに」の歌にも生じているのだと考えればいいわけです。作者の作為には「山風=嵐」という考えがあったと指摘するのもいいかもしれません。
なお、漢和辞典を引けばわかることですが、中国語の「嵐」という漢字には、「強く吹き荒れる山風」などという意味はなく、「山の清らかな風」とか「もや」という意味しかないそうです。「山風」だから「嵐」という漢字が出て来ると頭ごなしに言われると、もう我々は抵抗のしようがないのでありますけれども、本来の漢字にはそんな意味がないらしいと知恵が付いてしまうと、疑り深くなるのは仕方ないでしょう。それにしても、いつどこでどういうふうに誤解が広まって、暴風雨を「嵐」という漢字で認識したのか、これはもう謎であります。また、山風を言う大和言葉は「あらし」ではなく「おろし」であり、果たして作者の文屋康秀や、この歌を選んだ『古今集』撰者などに、「あらし=荒らし」という認識があったかどうか、怪しいところがあるような気がいたします。
そこで、従来の説には全くないと思いますが、ひとつ新見解を提示してみたいと思います。蛇足に蛇足を重ねて見苦しいかと思いますが、お許しください。実は、「あらし」に「あらじ」を掛けるのは古い歌に見られる修辞法でありますが、それならこの歌で「草木があらじ」と解することも可能ではないでしょうか。その場合、「どうして、秋に吹く山風を『あらし』と呼ぶのだろうか。そうか、山風が吹くや否や、秋の草木が枯れるので、「草木がどこにも『あらじ』」というわけだから、なるほど山風を「あらし」と呼ぶのだろう」となりますが、こちらのほうが、和歌の修辞の伝統からしたらはるかに妥当だと思うんですが、私の思い込みでしょうか。別に自信があって提示したわけではないのですが、いかがなものでしょう。
書いていて自分でもよく分からなくなるのでありますが、従来にない新説を思いっきり主張して世を憚る気配が足りないようにも感じられます。こんなことが認められたら、これって、またしても大手柄でしょうか? ついでにこの新説を押し出すポイントとしては、古今六帖の「なべて草木のしほるれ」の特に「なべて」が「あらじ」と非常に調和する点があるということです。そしてまた、「草木のしほるれ」という表現が「荒らし」という表現とは調和しにくいような気がいたします。「山風」を「嵐」と言い直して、それが「荒らし」だと指摘するのは、単に語源を紹介しているだけで、実は言語遊戯にはならないのではないでしょうか。遊び心が不足していると思います。「霞」を野山が「かすみ」見えなくなるとか、「曇り」を「雲ばかり」だからと言うようなもので、あまり意味がないのであります。「嵐」は、野山の草木が「あらじ」となるからそう言うのだというほうが、掛詞の機知が感じられるはずであります。
ともかく、いろいろと問題がある歌であります。文屋康秀の歌なのかどうか疑われているところがありまして、息子の朝康の歌かもしれないなどと言うのであります。また、文屋康秀は、六歌仙の一人でありまして、『古今集』の仮名序では、「文屋康秀は言葉巧みにて、そのさま身におはず。いはば商人のよき衣着たらむがごとし。」と言うのでありますが、はっきり言って誹謗中傷の言葉でしかありません。そんなことなら紹介しない方がましであります。紀貫之という人は一体全体何を考えていたんだか、けなすくらいなら紹介しなければいいわけで、しょうもないという気がするのであります。これを紀淑望が書いた真名序で見てみると、「文琳、巧詠物。然其体近俗。如賈人之着鮮衣。」とありまして、こっちの方が意味が分かりやすかったりいたしますけれど、結局悪口には違いなさそうです。
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