超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(33) 紀友則
久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ 紀友則
(古今、春下、84)(友則集19502)(六帖34876、花、35039、さくら)
〔釈義〕
大空から照らす光もうらうらとのどかな春の日射しを浴びながら、大空を行く日脚の遅々として過ぎやらぬ春の日ながというのに、見ている人の心も落ち着かせないで辛気にさせながら、自身も落着かないで、(風もないのに)せかせかと桜の花の散ってゆくこと、これは一体どうしたことなのだろう?!(おかしなこと、そして惜しくもまた哀しい花のさがよ!)
〔義趣討究〕の要旨
① この歌、古今の詞書には「さくらの花のちるをよめる」とあり、歌意は明瞭だが、詳細に見ると新たな発見がある。
② 枕詞として使われる「久方の」は、(1)「久方」自体で「月」や「日」を意味するが、(2)「久方の光」は「大空より照し来る光」といった意味で、(3)「久方の」が単に「ひ」の音節に係る枕詞の例もある。よって、友則の歌の「久方の光」は、(1)なら「太陽の光」、(2)なら「大空より来る光」、(3)なら「光」と解することになる。
③ この歌の下の句の「静心なく(せかせかと)花の散る」とあるのが、上の句と対立する意味だとすると、「光のどけき」では物足りない。よって、「のどけき」は、「久方の光のどけき」と「のどけき春の日」と二つの意味を掛けているなら、下の句と辻褄が合う。
④ 通説では「静心なく」を花自身の状態とするが、これを見る人の状態と取ってもよい。これは「花を惜しむ人にとっては気が気でなく」の意で、上の句が「穏やかな春の日射しを浴びながら」、下の句で「何で落花という辛い事態が起こって来るのか」となって自然である。
⑤ 花自身が「静心なく」の場合でも、上の句は「光陰矢の如し」と対比される「春日遅々」を意味するのであり、「光陰の経過ものどかな春の日中に」と意味が表されている。よって、この歌は二通りの意味を重ね合わせたものであり、「久方の」は(2)「大空より照し来る光」の意味である。
⑥ この歌の上の句「〇〇に」は補語であるが、その情況で「静心なく花の散る」事態が生起するのは矛盾の感があるため、訳語は「○○であるのに」のような形を取る。また、この歌の「らむ」は原因・理由だが、私見ではこれは「……のはどうしてそうなのだろう?」といった意味である。
〔鑑賞〕の要旨
① 万葉集においても落花についての実感は歌われており、それは愛惜や落胆である。しかるに、素朴な感動の表現に満足しないと、落花の趣というものを考えるが、それは多面的なものとなるが、この歌はそうした多面的な興趣の歌の一つである。
② この歌では、「久方の光のどけき春の日」を、温和な日射しと遅々たる日脚の二面に分析し、これに対して人の心を騒がせて散る趣と、慌ただしく散る趣とを矛盾的に対応させている。こうして、落花に対する人の愛惜の情と、桜花自身の性質・宿命の哀しさが掘り下げられている。
③ この歌は、背景と現象の矛盾から来る俳諧味が表されるが、表面的にはほぼ客観的に描かれ、締め括りの「らむ」によって疑いの気持が控えめに出されている。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の紀友則の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、和歌の引用があったり、音調面の分析があったりしたものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、上の句の表現を分析してそこに二重の意味を汲み取り、それを下の句の「静心なく」の二重性と結び付けて、この歌が重層性を持ったものだと主張しています。その主張の根幹は、「のどけき」が「光のどけき」と「のどけき春の日」と二重に解釈可能であるということだと思われますが、はたしてそのように「光のどけき春の日」を解釈していいのかというと、非常に疑問があると思います。やはりこの歌は、「春の日に花の散る」ということを実景としておりまして、「春の日」の修飾句が「光のどけき」であり、「散る」の修飾句が「静心なく」であるということを緩く考えたのでは、解釈はどこまでも恣意的なものになってしまいそうであります。つまり、「春の日はのどけし、されど、花の散るは静心なし」というのを認めてしまうと、詠み手の意図を誤解してもかまわないという野放図な読解が発生するのではないでしょうか。著者の言う二重性は、実は古注釈の対立を止揚していて巧みですが、八方美人な解釈に陥っているように見えます。
〔蛇足の蛇足〕
さて、ここでちょっと悪戯を試みて見ます。まず、通説に従って枕詞の「ひさかたの」を省きまして、次に「のどけき」という形容詞を「のどかなる」という形容動詞に置き換えてみたいと思います。そして、ここが狙いなんですが、「しづ心なく」が「のどけき」の反対の状態を示しているわけですから、これを「のどかならず」と置き換えます。そして、注釈書の多くが原因推究や疑問だと言う「らん」を、「何故~か」という疑問副詞と終助詞に差し替えます。「何故」は、「なにゆゑ」でも「なぜ」でも、どちらでも結構です。
光のどかなる春の日に、何故、のどかならず花の散るか。
これを極端に言い換えると、「平和な春の日に、なぜ不穏に花が散るのか」ということでありまして、はたしてこういうことを平安時代の古今集の撰者であった紀友則は詠みたかったんでありましょうか。もちろん、こういう持って行き方は、私に下心があるから言っているんでありますけれども、私たちは桜の花の散る風景を心の中に持っておりますので、桜吹雪の光景を先に描いてしまいますけれども、その情景を浮かべた時に、「落ち着きがない・あわただしい」という否定的な認識を抱くものなんでしょうか。それを、さらに「不穏だ・不吉だ・まがまがしい」とまで言うのは言い過ぎですが、「静心なく」という表現に対する解釈の方向性は基本的には否定的なものです。それで、いいんでありましょうか? これで構わないということなら、随分歌の対象となる桜の花に対して否定的な内容でありまして、桜を愛惜するとしても、ひどい言い方ではないかと思います。
実は、『日本国語大辞典』第二版(小学館・2001年6月20日刊)に、とんでもないことが書いてあるんですね。有名な『日葡辞書』には、「静心」関連の見出しがないのだそうです。近世初頭の1603年から1604年にかけて編纂された辞書なんですが、その段階で「静心なし」などという言葉は、ポルトガルから来た宣教師の見たところ聞いたところ、日本語のどこにも見当たらなかったのであります。確かに、現代語にもそんな言葉は影もかたちもないわけで、粗忽者の私を「静心がないぞ」なんて叱った方はいませんでした。あるいは、誰かの陰口をするとして、あの人「静心なしだよね」などと言わないのであります。
言葉というものは、そうそう変化いたしません。一年で、0・03%位変化するとされているはず。だから、なくなる言葉があってもいいんですが、「静心なし」のような見るからに意味の分かる言葉が消滅するのは、おかしいですよね。今でも字面を見れば分かるのに、日常語でも文章語でも使わないというのは、絶対おかしいわけであります。ましてや、古今集に入り、百人一首に選抜されたほどの歌に出て来る言葉がないのは不思議であります。『日葡辞書』の収録語数は、3万2293語。これは、編纂当時の日本語をほぼ網羅したと考えてよいわけです。今ある普通の国語辞典と比べても立派な収録語数に達していると見なせます。
つまり、「静心なし」という言葉は、400年前には存在しなかったわけで、このことはよくよく考えておく必要がありますよね。
もう一度、『日本国語大辞典』に話を戻すと、もちろんこの日本最大の日本語の辞書には、「静心なし」の項目があるわけで、その「補注」というところに、『日葡辞書』には存在しないということが指摘されているのであります。じゃあ、現代の辞書にはあるじゃないか、という方もいるでしょう。しかし、権威ある辞書にわざわざ400年前にはないと書き込んである意味を考えて見るべきでしょう。
さて、じゃあ『日葡辞書』には、本当に「しづこころなし」はないのか、というと、これがあるんであります。「しづこころなし」がなくて、「しづこころなし」があると言っているわけで、このままだとわけが分かりませんよね。混乱させてごめんなさい。ちゃんと言うと、「静心なし」はないのですが、「賤心なし」なら『日葡辞書』に載っているんです。
「Xizzu cocoro(シヅ ココロ)ナク 〈訳〉気高く、いやしくなく、下品でなく」(『日葡辞書』)
この「Xizzu」には、一般的に「賤」という漢字を当てるのであります。地名の「賤ケ岳(しずがたけ)」の時に出て来る文字でありまして、「下賤」とか「卑賤」とか言うような熟語に出て来る、「いやしい」の漢字表記の「賤」であります。よって、「賤心」というのは、いわゆる差別語でありまして、それを「賤心なし」と打ち消して使うものですから、「気高い」とか「いやしくない」とか「下品でない」とか、そういう意味なのであります。だったら、紀友則の歌もこれでいいではないですか。もちろん、「静心なし」の用例を全部否定しないと、「賤心なし」を前面に押し出すことは無理でしょうけれども、少なくとも『百人一首』の第33番歌については、成立してしまいますよね。これは、たぶん誰も言っていませんから、本邦初の意見でありまして、いいんですかね、私如きがそんなことを言い出したと言うことで、構わないんでしょうか。
久方の 光のどけき 春の日に 賤心なく 花の散るらむ(『百人一首』第33番・紀友則)
これなら、「らむ」の問題も解けそうであります。「太陽の光がのどかな春の日に、どうして上品に花が散っているのだろう」となりまして、風雨にせかされて慌ただしく、落ち着きなく、下品に散ることの多い桜が、今日このよき日、うららかな日差しの中で、ひらりひらり、ゆっくりゆっくり、優雅に散り落ちる様をよんだのでありますね。桜の散る様子が従来の「静心なく」と正反対になりまして、とんでもない解釈が飛び出しました。ほかの「静心なし」の用例はともかく。この紀友則の歌に関しては、断然『日葡辞書』にある「賤心なく」がいいのではないでしょうか。ここで、先ほどしたような、枕詞を省き、「のどけき」を「のどかなり」に置き換え、「らむ」を疑問詞と終助詞に置き換える操作をすると、次のような歌になることでしょう。「賤心なく」は、「優に」もしくは「やさしく」などがよいかもしれません。
光のどかなる春の日に、優にやさしく、何故花の散るか。
こうなると、この歌の焦点は、「散る」ことの不思議さだけでありまして、光あふれる春の日に、眼前でちらりほらりと散る桜花の美しさに見惚れながら、理由もなく散る桜花の挙動を不審に思っているだけのことになるでしょうか。これは私がありもしない辞書を空想したり、記述をねつ造したりしているわけではないので、ほんまかいなと首をひねるばかりでありますね。ある意味身分差別とつながる「賤心なし」という単語を、ないものにしたいという力がどこかで働いたと、私は推測しています。もしかして大手柄でしょうか。辞書をちゃんと見たことが手柄につながりました。近年和歌を専門とする方は、『日本国語大辞典』を見ていないのかもしれません。国文学と国語学、実はまったく業界が違いますものね。やむを得ません。なお、小田勝氏『百人一首で文法談義』(和泉書院2021年刊)に、日葡辞書の「Xizzu cocoro」への言及がありますが、私にはその真意が汲み取れませんでした。
なお、応永十三年(1406)に書写された『百人一首抄』には、「賤心なく」という表記も出て来るようですが、解釈は「静心なく」に即しているようですから、残念ながら紀友則の歌に関して、ここに述べたような解釈は古注釈でも出てこないのであります。
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