超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(29) 凡河内躬恒

心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花     凡河内躬恒

      (古今、秋下、277)(六帖34588)(和漢朗詠集上、菊)


〔釈義〕

あて推量によ、今折らずにすまされないものなら、折るとしようか。(そういった気持ちを起させる白菊の花―)初霜が(その美を惜しんで人に折取らせまいとして、何もかもに一面に)おいて、(白菊の花とほかの草との区別に戸惑いさせ、そして白菊の花を選んで折取ろうとする行動を)戸惑いさせている、その白菊の花よ!(何という清楚にして気品の高い美しさなのだろう!)


〔義趣討究〕の要旨

① 上の句を「あて推量に折るなら折取ることが出来ようか(、多分できるだろう)。」と解するのは全体の歌意にふさわしくない。そこで、語順を改め「もし折るとするなら、あて推量に折ろうか」と解するのがよいが、語順を変更する根拠を考察してみたい。

② 「今日こそ桜折らば折りてめ」(古64)は「折らば今日こそ折りてめ」、「今日は待ち見てちらばちらなむ」(古78)は「散らば今日は待ち見て散らなむ」、「此の夕暮をとはばとへかし」(新古1329)は「とはば此の夕暮をとへかし」のように、語順を変更してもぴったりする。

③ 以上の例に準じて凡河内躬恒の歌も語順を変更できると思うが、問題の歌は疑問文となっているので、「心あてにや折らば折らむ」とあるべきではないか。源氏物語・夕顔の「心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花」では、「それかと心あてにぞ見る」の意味で言っているので、問題の歌は「折らば心あてにや折らむ」として解することができる。

④ この歌で、単に「霜」ではなくて「初霜」なのは、降霜によって菊は色移ろうが、初霜なら菊はまだ移ろわず純白だからである。また、「おきまどはせる」は、普通初霜と白菊の花の区別を惑わす意に解しているが、これは一様に初霜が置いて白菊と他の草の識別を混乱させるという意味である。

⑤ この歌を全体が倒置の構造になっているという見方もあるがそれでは白菊の処置に主題があることになる。多くの注釈者は、白菊の花に対する詠嘆があるとし、さらに白の美の強調に主題があるとする。「白菊の花をよめる」という古今の詞書を考えると、初霜と紛う白菊の清楚な美しさを主題として詠嘆している。

⑥ 源氏物語・夕顔の「心あてに」の歌の興趣は、白露の光にも紛う夕顔の花の美しさと、夕闇の中にほの見た源氏の君の要旨の美しさを重ね合わせるところにある。

⑦ この歌の派生歌である壬二集「心あてに折らばや折らむ夕づく日さすや小倉の嶺の紅葉」は夕日の紅の色を備えている紅葉の美を示している。この「さす」は紅葉の美を愛惜して夕日が折取らせまいと他の樹葉も照らして識別し難くしたと見立てた。凡河内躬恒の歌では初霜の擬人化が行われて、初霜が白菊の美を愛惜し、他の草も一様に覆って識別し難くしたと見立てた。


〔鑑賞〕の要旨

① 菊花の趣として芳香が想起されるがこの歌には詠まれていない。実は「おきまどはせる」という詞にこの歌の詮があり、逆説的にまどわしえない馥郁たる芳香を暗示し、それが「心あてに折らむ」という行動を可能にする。

② この歌は、上五七に見る人の処置を述べ、下五七七に題である白菊を後から示していて、白菊に対する感動を余韻深くしている。

③ この歌は客観写生の作歌をする人からは誇張虚飾が目立つが、興趣を追求する古今集的作歌という観点に立つと、興趣尽きない名歌である。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の凡河内躬恒の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、和歌の引用があったり、音調面の分析があったりしたものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、従来の注釈書が指摘して来た、初霜が人の目を「まどはせる」という解釈の範囲で、著者なりに合理的な解釈を追及していると考えられます。その結果、「心あてに」は「あて推量に」と従来通りの解釈がなされ、また「まどはせる」についても初霜が他の何かと白菊を紛れさせていると捉えております。興味深いのは、初句二句の表現について、類似の歌を分析しながら語順を変更しようとしている点で、その結果「折らば心あてにや折らむ」という結論を得ていますが、その語順の変更がどのように解釈に影響するのかについては明瞭ではなく、〔釈義〕などには反映しておりません。また、著者は、倒置法で詠まれたこの歌を、倒置で理解することを拒んでおりますが、ここには従来の和歌の解釈における倒置法の扱いが典型的に表れていると見える気がいたします。


和歌と言うのは、その歌を何度も繰り返し唱えるという鑑賞もあるはずで、その結果、倒置されていた表現が反転しまして、倒置されていたことによって分かりにくかった主語・述語の関係や、修飾・被修飾の関係が明白になり、詠み手の意図したと思われる表現のからくりが感得されることもあると思われるのですが、従来の解釈では、倒置を認めないために、詠み手の意図を誤解する節があったように思うのです。


著者が引用した和歌は今回も多数に及びますが、まず源氏物語・夕顔の歌に関して言えば、この歌は源氏物語の注釈上誤読されております。末句の「夕顔の花」は、あたりまえの事ですが五条の女を指すはずなのに、なぜか岩波や小学館の頭注などはこれを光源氏を指すとして譲りません。おそらく、著者の桑田明氏も困惑したことでしょう。それから、著者は壬二集の「心あてに」の歌を使って考察を深めていますが、この歌の夕日を擬人法と理解し、「さす」は紅葉を愛惜するあまりに他の樹木の葉まで照らして紅葉を折り取りにくくしていると解釈しております。凡河内躬恒の歌を擬人法とする従来の考えに従って、藤原家隆の「心あてに」の歌にも擬人法を適用したようですが、「さす」を夕日の意識的な行動と解釈するのは、さすがに無理ではないでしょうか。


現在では、「心あてに」の従来の解釈を修正する見解も出てきておりますし、私見ではありますが、「置きまどはせる」の部分は、初霜が白菊に作用するだけで人の目を紛れさせるというような意味はないように思われます。


〔蛇足の蛇足〕

この解釈の問題点は、「まどはせ」という動詞が補助動詞のはずなのに、そうではなく「見分けをつかせなくする」という意味にとるところと、もう一つ、躬恒の歌が倒置法であることに気付かず、下三句を上二句の当て推量に折り取ろうとする理由を述べたものとするところです。白菊が他と区別できないと注釈されてしまいます。ともかく、分かりやすくするために、四段活用動詞の「まどわす」の已然形である「まどはせ」を省いて、完了存続の助動詞「り」の連体形である「る」を、同じ意味の助動詞「たり」の連体形「たる」に置き換えてみたいと思います。さらに、倒置法を汲んで、上下を逆転して、間に格助詞の「を」を補い、さらにさらに、語順を少々直してみると、次のようになるでしょう。


  初霜の置きたる白菊の花を、折らばや、心あてに折らむ。


躬恒が言いたいのはこういう内容でありますから、著者の桑田明氏の釈義からこの表現に即するところだけを抜き出すと、次のようになります。


  初霜がおいた白菊の花を、あて推量によ、今折らずにすまされないものなら、折るとしようか。


この結果、釈義から脱落するのは、「初霜がその美を惜しんで人に折取らせまいとして、何もかもに一面において、白菊の花とほかの草との区別に戸惑いさせ、そして白菊の花を選んで折取ろうとする行動を戸惑いさせている」という擬人化の表現でありまして、この擬人化を受けて「そういった気持ちを起させる白菊の花何という清楚にして気品の高い美しさ」と歌の興趣が強調されていますが、これだと主題は初霜の作為であり、それに翻弄される人の視覚の混乱の面白さになるんじゃないでしょうか。


ちなみに、「心あて」は、辞書などでも「当て推量」として解説しこの歌を掲げるのが普通ですが、現代語と同じように、「かねてからの目的」「前からの意向」、あるいは「期待」でいいのじゃないかと思います。ちなみに、徳原茂実氏の『百人一首の研究』(和泉書院2015年刊)では、従来の解釈に異を唱えて、「よく注意して」「慎重に」という解釈を提示しています(しかしながら、私からみるとずれた解釈です)。それから、「まどはす」は、あくまで補助動詞で、「初霜の置きまどはせる白菊の花」というのは、「白菊を惑わすように初霜が降りる」ということで、それは「白菊を枯れさせかねないように初霜が降りる」ではないかと、提案しておきます。


さて、躬恒の歌を考える時に役立つ歌が二首ありまして、それらを示しながら、最終的には「まどはす」の内容を考えてみたいと思います。これらは、著者の桑田明氏も引用しておりますから、ある意味必須の参考歌と言えるでしょう。


散りぬれば 恋ふれどしるし なき物を けふこそ桜 折らば折りてめ

 (『古今集』巻第二・春上 64番 詠み人知らず「題しらず」)


一目瞭然の歌ですね。桜が、意中の女性の比喩になっております。散る前に折るぞというわけで、じゃあ折って何するの?って言ったら、好きな人に折った桜とこの歌を届けるんですね。そうすると、季節の歌ではありますが、いきなり恋の歌になりまして、今夜は君を離さないというような、恋愛宣言になるわけです。花が駄目になる前に手折るということは、旬の時期を逃さないということでもありますから、恋の相手はいま妙齢で美しいと言う賞讃でもあります。躬恒の歌が、この桜の歌と同じ趣旨であることを否定する人はよもやいないと思います。『新版百人一首』(島津忠夫さん)の指摘によって知りました。これによって、躬恒の歌の二句目の解釈は確定しますよね。「折るなら折ろう」と決意を表明していることになるでしょう。恋愛の贈答歌の習慣を前提にしないと、何のために折るのかぼやけます。


心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花

    (『源氏物語』夕顔巻・夕顔の女房?)


これは、どう見ても躬恒の歌を下敷きにして読んだ歌でありまして、そのことは小学館の日本古典文学全集(新編)などでも、当然の如く指摘してあります。初句、三句、末句の配置がまったく同じで、「初霜」を「白露」に、「白菊の花」を「夕顔の花」にしてあるわけです。ある意味お手軽な挨拶の歌として夕顔という女性の登場を演出しているわけでありまして、もちろん夕顔の花が新登場の女性である夕顔を暗に指すのであります。


しかし、ぎょっとしたのは、注釈書の解釈が間違っているようなのでありまして、……そんなことあるかいな、と思いながら苦笑いする次第ですね。あきれてしまいます。この歌は、もちろん二句切れ倒置法ですから、繰り返し詠むと上下が反転するはずで、そうすると、


白露の 光そへたる 夕顔の花(を)心あてに それかとぞ見る


となりますよね。夕顔の花は、「夕顔」とあだ名される女性の比喩なら、「見る」の主体は光源氏になるわけで、出会いの場面に重なります。病気の乳母を見舞いに来た光源氏が、五条に住む女性に目を付けるところですが、女の家から扇が送られて、そこに書いてあった歌であります。だから、「見る」は「(源氏の君が)ご覧になる」ということで、「夕顔の花をご覧になる」と考えるといいわけです。


実は注釈書はそうなっていませんが、『源氏物語湖月抄』からして違うから、ため息が出て参ります。『源氏物語』の関係者の方、この歌の解釈、間違ってますからね。直しておいて下さいね(笑)。「初霜の置きまどはせる白菊の花」(を)「心当てに折らばや折らむ」を参考にみたら、倒置を修正するだけで解釈が出来るんです。簡単なのに、倒置しているのを元に戻すことすらしておりません。『源氏物語』注釈書の誤読のありさまは、各自ご確認ください。


さて、仕上げは、「置きまどはせる」の解釈でございます。主語は「初霜」、「惑わす」の対象は白菊の花でありまして、けっして人ではあるまい、と思うのです。初霜が白菊の花を惑わすように降りる、というだけなんですね。


確認しますと、「霜が置く」というのは単なる自然現象であります。「まどはす」に「り」という助動詞が付くと「まどはせり」となりまして、「惑わしている」「惑わした」という意味なんですね。現代語のままの感覚を持ち込むと、「置きまどはせる」と言うのが、まるで人を惑わしているかのように感じられるんでしょうが、ここは人は関係ないんですよ。よろしいですか、勝手に何かが人をまどわそうとしていると決めつけないことが、大切です。これは「初霜が置いて惑わした白菊の花」と言っているだけで、自然現象を巧みに表現しているだけです。さらに、ここには第三者である人は関係しないのであります。あくまで「霜が菊に作用した」だけです。


「人を惑わせる」も「人を惑わす」も間違いってことでよろしいでしょうか。


あくまでも、初霜が降りた時に、白菊の花に何らかの乱れが生じたんですね。人が、霜と菊が区別が付かないなどという錯乱状態を語るものではありません。霜と菊が区別が付かなかったら、折り取るのは無理ですから、眼科に駆け込んで下さいね。そこのところ、常識を働かせてしっかり受け止めてください。普通に考えたら、霜に当たってしおれるとか、茶色く変色するんですよ。霜枯れするかもと、今後のことを心配してはらはらしているんですね。さあ、それでも大変なことなんです。きれいだと思っていたら、白菊が駄目になりそうですから、「心あてに折らばや折らん」という、大慌てになるんではないでしょうか。だから、かねての目的に沿って、これを折って女性に贈るんです。


さて、さて、大変なことになりました。大手柄とふざけるどころではない。これは、これは瓢箪から駒が出て参りました。


つまり、女性を白菊の花にたとえます。霜が置くというのは時間の推移、忍び寄る老いという物でもよく、他の男が求愛する比喩と考えてもいいでありましょう。初霜が菊にまどわすように置いた以上、すぐに折り取らねばならないように、一刻の猶予もなく、かねての心当たりに従って、いざいざ彼女の住む邸内に忍び込み、あわよくば愛する人の寝室へと参上つかまつろうというような歌なのではありませんかね。盛りの菊のように、美しい彼女ということが前提であります。ここにあるのは、初霜が置くように、私が共寝つかまつりたい、というような緊迫した状況でありますね。


『古今集』の春の歌と、『源氏物語』夕顔巻の歌で解決してしまいそうであります。というか、解決いたしました。ついでに、『源氏物語』の有名な歌の解釈まで、誤謬訂正に力を貸しましたぞ。まあ、へそ曲がりな私の何かの勘違いには違いありませんから、ご意見頂戴するまでもありません。


276 秋の菊 にほふかぎりは かざしてむ 花より先と 知らぬ我が身を

277 心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花

278 色変はる 秋の菊をば 一年に ふたたびにほふ 花とこそ見れ


それはともかく、ここに示した『古今集』の配列を見たら、躬恒の次の歌から、菊の変色の歌でありますからね。だったらこの躬恒の歌も、白菊の変色の歌でありましょうね。現代日本の関東以西の方は、おおむね都会に住んでおられますから、霜が降りることが実はよく分からないことでありましょう。東京以西は、実は霜なんか降りるのをそうそう見る機会はないはずなんですね。やむを得ませんね。「まどはす」は、白菊を変色させているというだけのことです。


〔蛇足の蛇足の蛇足〕

それから、この凡河内躬恒の歌を貶したのは正岡子規だったはずですけれども、あの人もある意味秀才ですから、習った通りの歌だと思っていて、この歌を下らないと断じたのでありましょう。ここで施したような歌だよと教えたら、喜ぶのか、それとも激烈に怒って否定するのか。お楽しみでありましょう。下に引用しておきましょう。


「五いつたび歌よみに与ふる書」(正岡子規)(明治三十一年二月二十三日)

この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちもこれなき駄歌に御座候。……今朝は霜がふつて白菊が見えんなどと、真面目まじめらしく人を欺く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候。……              (『青空文庫』から抜粋)

心当てに 誉めばや誉めむ 子規さまの 心惑はす 白菊の歌(粗忽)


『源氏物語』「夕顔巻」に出て来る歌について、小学館の日本古典文学全集(新編)の解釈が間違っているということを、もうちょっと深掘りしてみたいと思います。


心あてに 折らばや折らむ はつ霜の 置きまどはせる しらぎくの花

     (『百人一首』第29番・凡河内躬恒)

心あてに それかとぞ見る 白露の 光そへたる 夕顔の花

     (『源氏物語』夕顔巻・夕顔の女房?)


まず、前回取り上げた歌のおさらいをしておきたいと思います。凡河内躬恒の歌を、紫式部が換骨奪胎いたしまして、印象的な夕顔の巻の歌に変えたのであります。こういうのを本歌取りと言うはずなんですが、本歌取りが意識的に詠まれたのは平安時代のお終いの頃から鎌倉時代に掛けての時期でありまして、藤原定家などが確立したやり方から見ると、夕顔の巻の歌が本歌取りに当たるのかどうか、私には判断できません。夕顔の女房が、高貴な人の到来を受けて、あられもなく有名な凡河内躬恒を下敷きにして、好色な貴人に夕顔を売り込んでいると考えてよいでしょう。本歌取りというような高尚なものではなく、古歌の表現を丸パクリの下心の歌と言う体裁です。


「心あてに」という初句が一緒でありますが、あとは二句切れであること、三句目と五句目に「初霜」と「白露」、「白菊の花」と「夕顔の花」と似たような名詞が来るんですが、和歌の構造上に共通点があるということでありまして、これだと類歌の域を出ないもののように感じます。それにしても、『源氏物語』の注釈書としてはポピュラーな小学館の日本古典文学全集(新編)の解釈は野放図すぎて、まったく納得行きませんね。それなりの積み重ねのあるもののはずですから、異を唱えるにはためらいが生じますが、「見る」の主体を夕顔という女性の側にしているのは完全な過ちでありましょう。もらった歌に対する光源氏の返歌も紹介すると、その辺がよく分かります。


寄りてこそ それかとも見め たそがれに ほのぼの見つる 花の夕顔

   (『源氏物語』夕顔巻・光源氏)


これも、何度も繰り返し唱えていると、二句切れ倒置法が修正されまして、語順がまともな状態に収まる瞬間があるわけであります。「たそがれにほのぼの見つる花の夕顔」(を)「寄りてこそそれかとも見め」となりますから、「今度立ち寄るよ、見に来るよ」と最大限の色よい返事をしたわけであります。贈答歌というのはリフレインが基本ですから、「夕顔の花をそれかとご覧ですね」と言われて、「今度は夕顔の花をよく見るよ」と返したわけです。句切れのある歌の場合には、倒置されていることが普通ですから、そうした原則を無視して意訳してしまったんでは、もはや歌などと言うものは解釈不能でありましょう。不思議なことが、世の中にはあるものですが、驚くほどではないかもしれません。よくあることです。


ただし、昔聞いた、研究者による悪魔的なテクニックを紹介したいと思います。知っている人は知っている、そして知らない人は地獄に落ちる魔法でございます。簡単に言うと、誤りをわざと研究成果に紛れ込ませる、もしくは忍び込ませるという手法が、世の中にはあるのです。


吉田精一さんという研究者がおりまして、その方が詳細な近代文学の年表をこしらえた時の話だそうです。吉田精一さんは東大の国文科の教授だったはずです。ぜったいにその業績が盗まれると確信していた吉田精一さんは、存在しない作者のありもしない作品を年表の中に忍び込ませまして、ちゃっかり引用した不届き者をあぶり出す方策にしたそうであります。そういう知恵というものも、秘伝として伝えられるものでありますから、和歌の解釈の誤りというものも、実はわざとこしらえて広めたものなのかもしれないのであります。ちゃんとした人に習ったら、「ああそれはね本当はこれこれこうなの」、「当たり前でしょ、通説は嘘っぱちだからね」、などと教えてもらえるのでありましょう。


だから、見るからに誤りと見える時に、鬼の首を取ったように喜んでいてはいけないのであります。古い言葉で言うと、「馬鹿発見器」でありまして、間違っているものを見て思いっきり罵声を浴びせることで、実は何も知らないとばれるのであります。慌てず、騒がず、ひそひそと主張することが大切なんでございましょう。


吉田精一さんの件は、私は師匠の誰かから教えてもらったはずですが、もしかしたら読書したときにたまたま読んだ記事だったかもしれません。  

コメント

このブログの人気の投稿

岩波文庫『百人一首』を読む(81) 藤原実定

岩波文庫『百人一首』を読む(99) 後鳥羽院

足利将軍撰『新百人一首』を読む(6) 藤原菅根