超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(17) 在原業平
ちはやぶる神代も聞かず竜田川唐紅に水くくるとは 在原業平朝臣
(古今、秋下、294)(伊勢物語百六段)(業平集16139)
〔釈義〕
ちはやぶる神々の御代にも(どこかでこんな事があったとはまだ)聞いたことがない。(だのに、)竜田川では、(現に、その前代未聞の事として、華かな)唐紅の色に、(流れる)水を括り染めにしているとはまあ(、何と奇異な事があるものでしょうか)?!(それは竜田姫が二条のお后様をお慕いしていて、山で錦の紅葉を織成すばかりか、川でも紅葉型の括り染をして、お后様の台覧に供しようと願っているのでしょうか?! お后様、その竜田川の水を括り染にした唐紅の色とは、実はお后様を今なおお慕いする私の心の色でもあるのです!憐れとお思い下さいましょうか?!)
〔義趣討究〕の要旨
① 倒置の表現には、強調したい結びを先に述べる場合と、後に述べる部分を強調する場合とがあるが、この歌はそのどちらにも当てはまらず、二つの句が連接しているもので、倒置ではない。神代に聞かなかった対象は、「唐紅に水くくる」現象を指している。
② 上二句は神代にあったことを伝え聞くという神話伝説を背景においているが、河の水を赤く染めた点では簸の河の大蛇伝説とも、あるいは物が皆霊力を持って活躍したとされる神代に思いを馳せたとも見える。
③ この歌は、屏風絵にある、紅葉が川水に散って浮かんでいるのと、白く光る水が交錯した場面を、「唐紅に水括る」と譬えた奇抜さと、そこに浮かび出るイメージの華麗さを手柄とする歌だが、それだけではない。
④ 業平の歌は「心余りて詞足らず」と言われることを考えると、屏風絵の歌として、屏風の持ち主に対して慶賀祝福、親愛尊敬の念を表するものであり、古今集の詞書にある二条の后は業平とロマンスのあった人であるから、この歌には特別な感情が込められている。
⑤ 竜田川の唐紅に括り染された水の色は、業平自身の二条の后への気持の深さを表現したものであり、それを二条の后に愬(うった)えたものである。
⑥ この歌を本歌取りした藤原定家の歌が知られているが、一節には「くくる」を「潜る」と解している可能性が指摘されているが、私見では「括る」と解する。よって、この歌の「くくる」も「括る」である。
〔鑑賞〕の要旨
① この歌は伊勢物語に詞書があり、それに沿って解釈すると、親王たちが逍遥した竜田川を歌に詠んで奉仕したもので、親王たちへの敬愛慶祝の意を込めたものである。古今集では、二条の后の屏風歌として詠まれたものである。そうした詞書を欠くと、この歌は竜田川に紅葉が散る有様を斬新な見方でまとめたに過ぎない。
② この歌は作者の強い情熱が吐露されているが、それは詞書に助けられてようやく感知されるものであり、紀貫之によって「その心余りて詞足らず」と評された欠陥がこの歌にも存する。
③ 音調面ではカ行音が主音となっており、そこに生ずる聴覚的印象は内容に対応していて効果を挙げている。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の在原業平の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、和歌の引用があったものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕の興味深い点は、一般に二句切れ倒置法とされるこの歌を、著者の独自の倒置についての考察に基づいて否定している点で、その結果強調されているのは、「唐紅に水括るとは」の部分だと結論付けています。倒置に関する議論は、著者の前著に展開されているものらしく、ここでは簡単に触れられているのですが、倒置した場合強調されるのが先行する部分の場合と、後行する部分の場合があるというのは、非常に有益な指摘です。しかしながら、それが、この歌が倒置しているという見方を否定するほどの根拠になるかというと疑問です。下の句の中から「竜田川」を除いた部分が強調されていると説明されておりますが、感動の焦点から竜田川を排除して、「唐紅に水括る」という奇抜な見立てだけが強調される表現だという主張は、理解するのに困難を感じました。二句切れ倒置の歌としてこの歌を理解して、倒置を改めると、次のようになります。念のため、著者の理解に沿って言葉を補ってみます。
(竜田姫が)竜田川(では)、唐紅に水(を紅葉型に)括るとは、ちはやぶる神代も聞かず。
実はこの補いの部分というのは、諸注釈書でばらばらでありまして、どうやら「竜田川」が全体の中で主語なのか補語なのか、全く定まっていないようであります。「竜田川が水を括る」という解釈の一方で、「竜田川に紅葉が散りしいて水を括る」とする解釈もありますし、「竜田川に紅葉がちりばめ、その下を水が潜る」という説も存在します。さらには、「竜田川の水の下を水が潜って流れる」というような、「唐紅」が消滅した意味不明の解釈もありますし、明治時代の佐佐木信綱『百人一首講義』では、「竜田川」が訳出されません。そして、そのあたりの混迷ぶりを誰も問題にはしていないようでありまして、それぞれ勝手に気ままに訳して平気であるようです。竜田川を擬人化して、その竜田川が水を括って染めているという解釈を考える注釈者は、これと対立する和歌の中に現れない紅葉が擬人化されて、その紅葉が水を括り染めするという解釈をどう思っているのか、どちらもよく考えると擬人法で訳して置けばごまかしがきくだろうという嘘っぱちでありまして、著者の桑田明氏の「竜田姫が括り染めする」という説のほうが、なんだかまともに見えて参ります。
〔蛇足の蛇足〕
『古今集』293番素性の歌の詞書が掛かるようでありまして、それは「二条后の、東宮の御息所と申しける時、御屏風に、竜田河にもみぢ流れたる形を書けりけるを題にて、よめる」とありまして、屏風絵を見て詠んだ歌でありまして、もしかしたらこの歌は最終的に屏風に書き付けたものかもしれません。そもそもこれが在原業平の代表作なのかどうかという議論があって、よりによってこんな歌を代表作とみなさなくてもと誰もが思うようであります。また、「くぐる」のところは、くくり染めの「くくる」であるというのに対して、紅葉の下をくぐるのだとして「潜る」だと主張する古い注釈群もあるわけで、解釈もおぼつかないのであります。それならいっそ、こうしてしまえとばかりに、数年前に考えましたのは、
知は敗る 紙よも効かず 断つた側 カラー呉れないに 見ずグーグルとは(粗忽)
作った本人である私も訳が分からず、どういう意味なのかは読む人にお任せでありますが、あと1000年もすればこれを根拠に、業平の歌に奇妙奇天烈な解釈を施そうとする人も出て来ることでありましょう。後世の歌によって、古歌の解釈を施すという荒業を古典の和歌の研究者の手法にたまに見かけるので、そう言うことがありなら、私の歌によって業平の歌を解釈するということも、遠い将来においては充分可能でありましょう。
前回の歌は業平のお兄さんだった行平の歌でありましたが、あの歌の「因幡」には古来「往なば」が掛けてあるというのが定説ですが、それは後世藤原定家の時代などに、そういう掛詞の歌があるから仕方ないのでありますけれども、行平に掛詞の意識があったかどうか、ひょっとするとまったく無かったかもしれないのであります。くくり染めと言われると反論しようもないのでありますが、「水を括る」という言い方が成立するのかどうか。どうもわからない事ばかりであります。「纐纈染め」(こうけつぞめ)というのは、糸などを使って布地を括り、染色してから糸を外して、独特の柄と触感を出すものかと思います。和服の女性が手に持つきんちゃく袋の布地として見ることが多いんですが、合っているでしょうか。独特の、ファジーな幾何学模様が特徴です。それを知っていると、「潜る」説よりも「括る」説に傾くものなのであります。
ついでに思いつきを記しておきます。三句目の「竜田川」というのは、独立した一文でありまして、「ああ竜田川よ」と解釈すればいいのではないでしょうか。つまり、この和歌は、二句切れ倒置法なんですが、三句目はこれで一つの文でありまして、二つの文から成る和歌なのではないでしょうか。「これこそ竜田川であるよ」でもいいですし、「なんと面白い竜田川の風景であることよ」でもいいと思います。古文に還元したら、「これやこの竜田川」とか「あなをかしの竜田川のけしきや」などになることでしょう。それから、括り染めなら、川を布地に見立てているはずですから、ここで言う「水」は、「水面」とか「川の流れ」のことですが、そういう指摘をしない注釈書も多いと思います。さて、桑田明氏の著書からヒントを得た私の解釈を示してみますが、誰もこういう当たり前の見方は従来していないのです。大手柄でございましょう。
(あなをかしの)竜田川(のけしきや)。(竜田姫が竜田山の紅葉を染めると神代の古ごとを聞きけれども、まことは)唐紅に(竜田姫が)水括る(もの)とは(思いのほかにて)、ちはやぶる神代(の古ごとに)も聞かず。
ああ、何て面白い竜田川の風景よ。秋になると竜田姫が竜田山の紅葉を赤く染めるものだと神々の時代の伝説を耳にしたけれども、実際見に来て見れば、何と竜田姫が、赤いが上にも赤く竜田川の水面を括り染めにしているものだとは予想だにしなかったことで、神々の時代の伝説としても聞いたことがありませんでした。(粗忽試訳)
※竜田姫……竜田の地にいて、染色を得意とする秋の女神。竜田山の紅葉は、竜田姫が染めるとされている。
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