超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(18) 藤原敏行

住の江の岸による波夜さへや夢の通ひ路人目よくらむ    藤原敏行朝臣

     (古今、恋二、559)(六帖32885、片恋)(寛平御時后宮歌合35522、恋)


〔釈義〕

(男が女の許に来て棲むという名につながる)住の江の岸に(しきりに)寄って行く波―(繁々と愛人の許に通い寄ってゆく男の姿を思わせて)―その寄ることまでも、(「寄る」につながる)夜までも、―(波は住の江の岸にあんなに寄るのに、あの方ときたら、―愛人のところに寄るのはお嫌いではない筈なのに、また昼間なら人目につくのがお困りなのはもっともだけれど夜ならその気遣いもないものを、さらにうつつに寄って下さらないのはさまざま事情がおありで仕方がないとしても、夢の中でなら私の側に寄って下さるぐらいわけもない筈なのに、寄ることまでも、夜までも)夢の中の通い路において(までも、不必要に)人目を避けようとなさる(ので、それで結局、あの方は私の夢の中にも寄って来て下さらない)のだろうか?!(でもまあもどかしい!)


〔釈義〕の要旨

住の江の岸に寄って行く波―その寄ることまでも、夜までも―夢の中の通い路において人目を避けようとなさるのだろうか?!


〔義趣討究〕の要旨

① この歌は、古今集の詞書によって題詠であり、初・二句は「寄る・夜」の序詞になっているが、枕詞や序詞は現代人には意味がないと放置しがちだが、音調以上にイメージ上大きな機能が持たせてあるから、この序詞は愛人の許に通う男の姿を彷彿とさせる。

② 序詞の初・二句に対して、後の五七七は対比関係にあり、寄る事と他の事、夜の行動と昼の行動、さらに夢の通い路が現実の通い路と対比されている。

③ 「―や……らむ」という推量の用法に従うと、これは「―……のだろうか、恐らくそうだろう」と訳すことになるが、これを男の述懐とすることはできず、待つ恋を悶える女の気持で詠んだ歌である。もし男の述懐ならこの「や」を除くべきである。


〔鑑賞〕の要旨

① 「住の江」という地名が愛の巣を連想させ、「岸による波」も愛人の許に通う人の動きの二重写しであり、「よるなみよるさへや」は波が打ち寄せる感じがあり、その後で激情が出て恨み言を述べる。

② 音調上次第に大きくなるリズム感があり、感情が揺れる趣がある。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の藤原敏行の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、和歌の引用があったものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、〔義趣討究〕では、序詞が単に「夜」という言葉を導くのではなくて、詠作主体の女性の許に繁々と通う男の比喩になると考えておりまして、こうなると初・二句は有意の序という扱いになるわけです。著者の序詞に対する考えも詳しく述べられておりまして、序詞を掛詞や音の繰り返しという言語遊戯よりも、もう少し内容があると見ております。この歌には、「人目よく」の主体が男性なのか女性なのかという解釈の相違点がありますが、著者は、係助詞「や」と推量の助動詞「らむ」の使用法を詳しく検討して、詠作主体は女であり、「人目をよく」のは通い人である男と断定しています。「や」や「らむ」の使用によって、主語が特定されるという点には、必ずしも賛同できない気がいたします。「夢の通ひ路」というのは、要するに実際には逢えない夜に、夢の中で男女が逢瀬するという場面を演出するものですが、この歌は男性の夢の中でも、女性の夢の中でも成立するのではないでしょうか。


それから、「人目よく」が通って来る時の人目を気にするおどおどした態度と著者は考えるようですが、ひょっとすると、「人目よく」というのは、人目を気にして通ってこないことかもしれないのでありまして、下の句は「夢に現れない」ということを訴えているのかもしれません。夢で逢えないというだけなら、詠作主体は男性でも女性でも構わないわけで、逢いたいけれど逢えない、昼に加えて夜も、現実に加えて夢でも、逢瀬が困難であることを嘆いておりまして、古今集の恋二の歌ということですから、逢いたくて仕方ないという歌と解するのがよさそうです。

夢に相手を見ると、実際に逢ったのと同じとカウントするのが平安時代の常識なので、夢の中で逢いたいのでありましょう。著者の示した解釈を検討してあれこれ述べてみました。


〔蛇足の蛇足〕

よく分からないのであります。注釈書は、どれも分かったという立場から解説してあるんですが、古来「人目よく」の主語が対立しておりまして、注釈書はどちらかの立場に立って断言しているのであります。自分が「人目をよく」なのか、恋人が「人目をよく」なのかという対立であります。この場合の「よく」というのは「避く」でありまして、これも終止形であるのは間違いないのでありますが、上二段なのか下二段なのか、それとも四段なのか、活用が注釈者によってばらばらのようであります。


そして、非常に不思議なことですが、どの注釈書も、「避く」が「波」の縁語であるということにはまったく気が付いておりません。この歌は、あくまで「住之江の岸に寄る波」「寄る」「避く」という縁語仕立ての歌でありまして、別に実感を込めた歌ではありません。言語遊戯の最たるものですが、それは歌合に出した歌だから間違いないんですが、注釈する人は人によっては思いっきりロマンチックに解釈したりするのであります。驚くばかり。というよりは、結構間抜けなのであります。「住の江の岸による波」という序詞が、直下の「夜」だけではなくて「避く」も導いているというのは、実は新発見でありまして、これまで指摘がないなら大手柄なのであります。


岸辺に「寄る」波を「避く」という動作を考えると、これはどう見ても訪問する男の動作でありまして、これに係助詞の「や」と現在推量の「らむ」を使って、「夜まで人目を避けるのだろうか」と疑問を呈しているならば、通って来た男の態度を、女の方から見て、半分からかいながら、半分は歓迎しているような、ツンデレの歌なのでありましょう。「夜までびくびくするの?」と言いつつも、夢の中に出てきたことを喜んでいるという趣向のはずです。


「昼人目をよく」というのは、人目を気にして通っているとも、来ないとも読めそうであります。たぶん、この歌の弱点はそこでありましょう。しかし、「岸による波を避ける」というなら、人目を気にしながら通ってきている方がいいような気がします。そうすると、「さへ」の添加の意味が生きてきまして、「夢の通ひ路」すなわち夢の中でも通ってきているのに、やはり昼間の逢瀬の時のように人目を気にして、びくびくしておかしい、というしゃれた歌ではないかと思うんです。「波を避ける」という動作を前提にしてみると、非常に滑稽な感じが生まれまして、昼も来ないが夜も来ないという理解より、恋二に配置されている歌としては勝るのではないでしょうか。


ところが、普通はこの歌は相手が自分に逢ってくれないという歌として解釈するのであります。近年の注釈書の類でも「やはり人目を避けているのか、あなたは来ない」(渡辺泰明氏『絵でよむ百人一首』朝日出版社)とか、「なぜあなたは人目を避けて逢ってくださらないのでしょう」(兼築信行氏『聞いて楽しむ百人一首』創元社)などと訳しております。「避く」が「岸に寄る波」の縁語だと気付いていないせいかと思います。逢いに来ないのに「人目を避く」必要があるのかどうか、逢いに来たからこそ「人目を避く」のではないかと思うのであります。きっと、私は変なことを言っていることになるんでありましょう。この歌は、「夢の通ひ路」と「夜」が重複しておりまして、分からないところがあります。もしかしたら、「昼」と「夜」と「就眠中」の三つの時間がかかわるのかもしれません。通常は「夜の夢の通ひ路」と考えるようですが。


ともかく、波打ち際を歩くと波に濡れますので、それを上手に避けながら歩くものであります。波と言うのは、別に規則正しく打ち寄せるわけではないので、危うく濡れそうになるものであります。波を避けるように、人目を避けるわけで、夢の中でもひやひやしていると滑稽であります。それにしても、どうして一部の注釈者は、逢ってないと決めるのでありましょう。恋人とは夢でこそ逢うものでありまして、来てくれない場合は「夢にも姿を見せない」と嘆くはずなんです。「避く」という言葉のニュアンスから、あれこれ考えてみました。なお、近年の注釈書で『百人一首で文法談義』(小田勝氏著、和泉書院)が、この点に触れて、相手を夢に見る場合と、相手を夢に見ない場合とがあることを考察していて、大変に有益だと思います。 

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