超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(32) 春道列樹
山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり 春道列樹
(古今、秋下、303)(六帖32439、しがらみ)
〔釈義〕
(川に人のかけた柵はよく見掛けるが、)山川に風のかけた柵というものは(あるのか?あるとも。あるとすればそれはどんなもの?それは、風の仕業で瀬の中の石などに吹寄せられ)、山川を流れおおせることも出来ない(で引懸り溜った)紅葉であったことだ。(この紅葉の柵は、山川の流れをいったん堰き、そして流れ来る他の紅葉を堰止めて停滞させる。これは全く風のせいで、風は紅葉を吹散らかしながら、しかもその紅葉を愛惜して山川に紅葉の柵をかけ、紅葉を流れ去らせまいとするのだ。何というおかしな、そして憐れなことか!)
〔義趣討究〕の要旨
① この歌は、山川に散り溜った紅葉を「風のかけたる柵」と見立てた点が斬新である。普通には、「紅葉は柵なりけり」という認識を逆にして、「柵は?」と問い「紅葉なりけり」と答える謎解きの奇抜さに価値があると評されるが、それだけではない。また、紅葉の情景に感動した作者の詩情を感じるという鑑賞もあるが、それは知的な把握と結びつかない。
② 謎解き形式をとる歌を考えてみると、教説のことばや世間の理法・常識などを踏まえつつ、それとは対立する特殊性を持ったものを問い、続いて解答を示す。この歌では、「川に人のかけたる普通の柵」を踏まえて、風が意図的に流れて行こうとする紅葉を抑留したということになる。
③ 風が紅葉を抑留するのは、紅葉を愛惜するからで、風は紅葉を吹き散らしながら、同時に紅葉の柵を掛け紅葉を抑留するのであり、この風の行動の矛盾をつくところにこの歌の俳諧味がある。
〔鑑賞〕の要旨
① この歌は、秋風が紅葉を愛惜するという意外性があるが、紅葉にはおのれと散り川水に乗って旅をする自由さを希う一面があり、秋風がこれを拘束するとい奇抜な着想である。また、水に流れる紅葉が却って水を堰き止めるはたらきをするという面白さもある。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の春道列樹の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、和歌の引用があったり、音調面の分析があったりしたものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、従来指摘されている謎解き形式の歌という評価に対して、似たような形式の歌を分析することによって、この形式は常識とは対立する特殊な問いかけを試み、それに対して詠み手が答えを提示するものだと一段深い解析となっています。さらに、紅葉を吹き散らす風が、紅葉を愛惜して引留めているという矛盾があるのだとして、それを俳諧味として評価しようとしています。
著者の主張によって、非常に単純な見立てだと思われるこの歌が、もうすこし複雑な見立てによって成立した歌に見えてくるのは面白いと思いました。ただし、著者は秋風が紅葉を吹き散らす行為と、その紅葉を抑留する行為を矛盾するものとして指摘していますが、この点については、若干抵抗したい気もいたします。ひょっとするとでありますが、秋風は散り敷く紅葉を川へと吹寄せまして、わざわざ柵をこしらえ、その柵によって川に錦を織り成しているという理解も成り立つのではないでしょうか。つまり、秋風は最初から山川に紅葉の柵を用意するために吹いているのでありまして、紅葉を木々の枝から解き放ち、山川を紅葉の錦で染め上げることが秋風のたくらみでありまして、そこには矛盾などはなく、ひたすら秋風の風流心によって、美しい紅葉の山川を見ることが出来たことを喜んでいるという可能性はないのでしょうか。あくまでも、著者の指摘に賛同したうえでの意見として提示してみたいと思います。
〔蛇足の蛇足〕
現代的な「しがらみ」の解説を考えて見ると次のようなことになるでしょうか。
しがらみ……人間関係の中で生じたやっかいな関係で、人の気持ちや行動を制限するもの。本来は、木や竹などを組み合わせて、水の流れを抑制し、時には不要なものを留める造作。
「しがらみ」という言葉のニュアンスが、今現在使われるものと違うところが、面白く感じる歌であります。本来はそういうものでしょうが、我々は憂き世のしがらみにがんじがらめでありまして、好きなことを言ったり、好きなことだけをしていたり出来ないのであります。好きだったものがノルマになたったら重たいわけで、遊びが遊びでない、息抜きが息抜きでないこともあるわけです。このブログは、どうなんでありましょう。好きなことを好きなようにしていたら、暴れ馬でありまして、近代短歌における正岡子規さんは、古典の和歌を蹴散らす暴れ馬であったのでしょうか。
「しがらみ」というのは、漢字で書くと「柵」でありまして、柵(さく)のことなんでありますが、水量調節のために杭を打ち込みこれに竹や柴を絡めたものであると言う説明が『日本国語大辞典』に出ておりました。さて、実際に見たことがあるかというと、とんと記憶にありませんから、グーグルで映像検索するんですが、はかばかしくないのであります。斜面などの土留めのために用意されたものが出て来るだけで、川の映像がないのでありますね。
今時は中小河川でも大がかりな護岸工事などをしまして、水門などで水流を管理しますから、人が打ち据えた杭や、それに巻き付けた竹などで柵を用意することは無いとも言えましょうね。田んぼの用水路の水量調節というものは、それはそれ、これはこれ、また違うものであります。ちなみに、川遊びの体験から言うと、石を積み上げても水量は調節できるんでありまして、20分もせっせと積み上げれば、子供が泳ぐくらいの深みを作ることは簡単であります。水は方円の器に従うものでありまして、たとえばこの歌のように紅葉が積もっただけでも、水流は変化するのであります。こうして、あれこれ詮索すると、我々はこの歌の前提となる「しがらみ」の実物は知らないのでありますが、風のかけたる山川の「しがらみ」のほうは、紅葉狩りにでも行けば目にしていたはずで、この歌のインパクトは弱くなってしまったのでありましょう。
山川に 流れもあへぬ もみぢ葉は 風のかけたる しがらみと見る(粗忽)
文としての構造を考えて見ると、これは「AはBなりけり」という、提題と解答のセットでありますが、実は認識のあり方を元の歌と入れ替えてみたのであります。山川を見てそこに人工物である柵を見付け、よく見て見たら紅葉じゃないかという春道列樹の詠みぶりは、いささかインチキ臭いのでありまして、本来は風に吹かれて谷間に吹きだまり、水流を滞らせている紅葉を見付けたのでありましょう。それを、天然の柵であると認識したのだと思いますがいかがでしょうか。そうすると、実は面白くも何ともないわけで、それをひっくり返してみたら、なんだか面白く感じたわけですね。ひっくり返しただけで面白みを出した春道列樹のお手柄であります。詩というものは、人を刺激しないといけないわけで、この和歌は、その辺が微妙にうまいようであります。それでも、人工物の「しがらみ」が存在しない現代では、ABの入れ替わりに、あまり違和感が生じません。
そう言えば、読みかけて読まなかった本が、本棚の中に隠れておりました。非常に有名な本でありまして、これこそが近代短歌の幕開けを告げたものであると、文学史などでは高く評価されておりました。どうも、期待したのとは随分違っていると感じて、そのまま閉じてしまったものであります。それの、「五たび歌よみに与ふる書」のところに、凡河内躬恒の歌が出てきまして、胸のすくような罵詈雑言が並べてあるんであります。すごい気迫でありまして、なんだかもったいないくらいなんですね。
『歌よみに与ふる書』(岩波クラッシクス)
著者は、正岡子規であります。私が持っているものは、昭和59年(1984)1月18日に発行されたもので、単行本の体裁になっているんであります。珍しく新本で買ったようでありまして、それなのに無視していたんですね。今読んでみたら面白いわけでありまして、正岡子規さんもお勉強の出来る人には違いがないので、どこかで「心あてに」の歌の通説をきかされて、白い霜のために白菊がどこにあるか分からないという解釈を押しつけられ、激怒しております。激怒しないで、彼は彼の頭脳を使って解釈を自分ですればよかったんですね。
この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半のねうちも無之駄歌に御座候。この歌は嘘の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣無之候。趣向嘘なれば趣も糸瓜も有之不申、けだしそれはつまらぬ嘘なるからにつまらぬにて、上手な嘘は面白く候。
ということでお怒りですが、実は、正岡子規さんは大伴家持の「鵲の」という百人一首の例の歌は誉めているんであります。好き嫌いをはっきり述べて、痛快この上ないんですね。そうか、古典が大好きだからこそ、あれだけ頑張ったんだと分かります。
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