超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(15) 光孝天皇

君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ    光孝天皇

     (古今、春上、21)(六帖30923、若菜)


〔釈義〕

あなたにさし上げようとして、春の野に出て若菜を摘んでいる、その私の(しきりに振り払う)衣の袖に、おお、(後から後から)雪が降り降りして(、ずいぶん難儀なことでしたよ)!(どうぞ私の心の籠ったこの若菜を召し上がってお健やかでいらして下さいね。)


〔義趣討究〕の要旨

① 古今集の詞書に「人に若菜給ひける御歌」とあって、「奉り給ひける」ではないから、「人」は臣下である。光孝天皇から「君」と呼ばれる人はいかなる身分の人か。

② この歌と類似の若菜の歌は、万葉集巻十1839や大和物語73段に見えるが、ともに愛する男に贈った女の詠であり、作者と詞書を除いて読むと、光孝天皇の歌も女の詠である。

③ 若菜を詠んだ歌を検討すると、「君」は必ずしも女が男を呼ぶ尊称とは限定できず、また若菜を摘む行為は男女を問わない。

④ 若菜と関係しない歌で「君」の用法を見ると、男同士の対等の第三者を指すことがあるが男が敬愛する女性貴人や愛人を指すこともある。和泉式部日記でも帥宮が和泉式部を「君」と呼んでいる。よって、この歌は光孝天皇が女性に贈ったと見てよい。

⑤ 万葉集巻八1460の歌なども参照すると、何かを献じたこの歌の類は、勿体をつけた言い方でわが行為と苦労を知らせて相手の好意ある反応を期待するものである。愛人に済まないという気持ちを起させ、同情と歓心を買うものだ。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌を万葉的だと評することもあるが、万葉集の歌が実感の表現であるが、この歌や大和物語の歌では、実感表現ではなく虚構の世界を表現した歌で、若菜を贈るとともに詩を贈ることによってわが好意をしらせ、贈られた人は贈り主の願望に感動する。

② 万葉集巻十の歌をもとにして、大和物語の歌が詠まれ、さらに大和物語の歌をもとに、この歌が詠まれたと考えると、万葉集の歌の実感は気分が重たいが、それに対して大和物語の歌では具体性が乏しいが空想の物語にふさわしい。

③ 大和物語では、雨上がりに女性が若菜を摘むが、この歌では男性が雪を払いながら若菜を摘んでいることによって、愛の力強さの籠った若菜に対して女性は謝意を以て賞美する。

④ 大和物語の歌に比べて、この歌では各句が単位を為して強さが出ている。上句が「君が」ではじまるのに対して下句は「わが」ではじまるという強い対照を見せ、「わかなつむ」の「わか」と「わが」は繰り返しになっている。

⑤ 天智天皇の「秋の田の」の歌と、この歌は、王者の風格を持った歌である。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の光孝天皇の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、豊富な和歌の引用があったものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕では主に「君」という言葉が誰が誰を指したものかを考察しています。これは、古今集の作者名や詞書を抜きにすると、この歌の詠作主体は女性であり、「君」は男性ではないかという疑問から発したものらしいのですが、結論としては詠作主体は男であり、「君」は女性を指すということに落ち着きます。さらに、〔鑑賞〕では王者の風格を持った歌であるというふうに結論付けて、むしろ古今集の作者名や詞書に沿った理解をしめしております。しかしながら、せっかく〔鑑賞〕において、類似の歌である万葉集や大和物語との差異を考察して、具体性がないだけに空想の物語にふさわしいと言ったのにもかかわらず、古今集の作者名や詞書に縛られた解釈に落ち着くところには、少々疑問を感じます。それから、〔釈義〕の解釈を見ると、これは詠作主体が女性のように読めまして、著者の中で見解が揺れたままだったのかもしれません。


この歌は、長寿を願って新春に若菜を摘むという王朝風の儀式めいた風習を、誰もが納得できるように五七五七七の定型に落とし込んでいるわけですから、むしろ詠作主体を男女に特定せず、「君」に関しても詠作主体の大切に思う人と考えてよいはずです。そうした歌を、誰が作ったのかと思えば、親王時代の光孝天皇でありまして、目立たない親王の一人だったこの人の歌が注目されたのは、ずっと後ではないでしょうか。老人になってからはからずも皇位を継承した光孝天皇ですから、面白いのだと思います。急に天皇に担がれてたくさんの人に次の正月には若菜を献上されたはずですが、その帝がよっこいしょと庭に降りて后のために若菜を摘み始め、雪にまみれた袖と若菜を后に見せて、笑いを取ったのではないでしょうか。親王時代と同じ行為をして、古い自らの歌を唱えて見たはずであります。そこには、王者の風格はなく、飄々とした人格者のユーモアだけが漂うような気がいたします。


余計なことを言うと、「君がため」というのは、「あなたのために」という恩着せがましい表現ではありますが、これを「お前様のせいで」というような恨みがましい表現として解釈してはダメなのでありましょうか。自分としたことが若菜を摘みに庭に降りたがために、せっかくの晴れ着を雪によって駄目にしたかもというような、さらに贈り手としてのボヤキだと考えると、ほほえましいだけの光景ではなくなり、より滑稽味が加わるんですが、いかがでしょうか。貧乏を極めた親王時代の、替えの効かない一張羅を駄目にしたら、奥様は怒ることでしょう。もちろんこれは冗談です。


〔蛇足の蛇足〕

幕末の歌人香川景樹の注釈書『百首異見』に、次のような見解が出て来るので、引用してみましょう。


門人木下幸文云、ある人の為にとて、親王の御身として雪降る野べに出て御手づから摘み給ふにはあらじ。人に若菜給へる日しも、雪の降りけるによりて、かくは詠みなし給ふならん、といへるはさる事也。


明治時代の注釈書である佐佐木信綱の『百人一首講義』は、これをそのまま引き写しにしているので、香川景樹の『百首異見』を粉本にしていたことが明らかになるわけです。江戸時代の人々には、徳川幕府の向こうに封じ込められている天皇の姿が分からないために、かってに妄想をたくましくしていて、その結果、平安時代の天皇の生活をずいぶん窮屈に考えていた節があります。天智天皇の「秋の田の」の歌でも、田んぼのなかの仮庵に天皇が行くはずがないというような文言があって驚きましたが、宮中行事の子の日の松の行事なんかも含めて、天皇が何かするということが理解できなかったようです。これに関して、実は『徒然草』第176段に面白いエピソードがあるので紹介してみましょう。


黒戸は、小松御門、位に即かせ給ひて、昔、ただ人にておはしましし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで、常に営ませ給ひける間なり。御薪に煤けたれば、黒戸と言ふとぞ。


(訳)(清涼殿の)黒戸は、小松の帝が即位なさってからも、その昔、一人の親王に過ぎない身分でいらっしゃった時に、(ままごとのように)炊事をなさったのをお忘れにならないで、いつでも(炊事を)おやりになった場所である。(炊事のための燃料とした)薪にすすけたので、黒戸というのだと言い伝えられている。


宮中にある黒戸というのは、帝のいる清涼殿から後宮へ行く時に通る場所で、そこで光孝天皇が薪で炊事をしたためにすすけていたという話を、兼好法師が耳にしたようです。清涼殿も火災で焼失したこともありますから、すすけていたのがいつまでかは分かりませんが、天皇の炊事が珍しいのでお仕えする人たちがその場所を「黒戸」と呼んでいるうちに定着したのかもしれません。ともかく、親王時代に炊事をしたことを思い出して、日常的に即位後も続けたと言うんですから、根っからの料理好きの天皇なのであります。


光孝天皇は55歳まで親王だった人で、いとこに当たる藤原基経の推挙によって天皇に即位しました。『古今集』では「仁和帝」と呼んでいますが、『大鏡』などでは「小松帝」と呼ばれておりまして、親王時代は時康親王であったわけです。即位したのは元慶8年(884)2月1日で、亡くなったのは仁和3年(887)8月26日ですから、在位期間は3年半、崩御したのは58歳の時なのです。この帝には、親王時代から連れ添った班子女王という女御がいて仲良く暮らしていたらしいのです。気ままな親王暮らしがよかったようで、班子女王が市場にでかけて買い物をしていたなどと言う話があります。班子女王は、帝の崩御後も生き、昌泰3年(900)まで生きたということです。親王時代は貧乏で、庶民からいろいろと拝借して暮らしていたらしく、即位したらよってたかって返却を求めに来たという話が、尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』に書かれています。


皇族が庶民から物を借りていたということを、幕末の歌人たちに教えたら、嘘偽りを言うやつだとして糾弾されたかもしれません。そういう点で、尾崎雅嘉という人の博覧強記ぶりが際立ちます。 

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