超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(31) 坂上是則
朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪 坂上是則
(古今、冬、332)(是則集16751)(六帖31608、雪)
〔釈義〕
(どうやら)夜も朧ろに明けそめた頃合(だと思って起きてみると、意外に地上一面に明るい有様、ははあ、有明の月が照しているのだなとすぐに判断したが、空を見てもどこにも月は見当らぬ、変だと思ってよくよく見ると、何とそれは、地上一面の雪明りだった。でもまあ)、有明の月が照しているのだと見るほどまでにも、(一夜のうちにきれいに降っている真白な薄雪よ、さすが古昔より由緒の深い、花と雪でも名高い、吉野山を頂く、)吉野の里に降った白雪よ!
〔義趣討究〕の要旨
① この歌は、「”朝ぼらけだ、有明の月だ”と見るまでに」と解して、夜明けになっていないのに雪明りで夜明けと間違ったものと取る説がある。しかし勅撰集の歌を見ると、「朝ぼらけ」を初句に置いた例は副詞的に使ったものである。
② 三句目の「見るまでに」は万葉集の例によって、「……見る、それほどまでにも」の意味である。また、李白「静夜思」の「牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷」の「月光を地上の霜と見誤る」趣を逆にした「地上の雪を月光と見誤る」趣である。
③ 「静夜思」に「牀前」とあるがこれは就寝前ではなく旅愁によってよく眠れないので起きて窓を開き、外は霜かと疑われたが月の光だったと解するのがよい。是則の歌も旅愁で眠れぬ夜を過して寝起きた朝ぼらけという意味である。
④ 曙の興趣について、万葉集や枕草子、勅撰集などを例に考えると、地方に泊まる旅愁とともに、その名所の曙の情趣を味わおうとする期待があって、暁早くから待ち受けている。古今集の詞書には「大和の国にまかれりける時に」とあるので、花や雪の名所である歌枕として憧憬を持ち、一夜を眠れないで起き出して詠んだのである。
〔鑑賞〕の要旨
① この歌は吉野への郷愁を具象化しているが、眠れずに曙を待つ旅愁もあり、漢詩の興趣を取り入れたところもある。ただ、「吉野の里」を末句に置かなかったので、「朝ぼらけ」「有明月」「降れる白雪」と意識され、雪が主題の歌となっている。
② 吉野の里はこの歌では脇役であるが、そのことがかえって豊かな興趣を歌全体にもたらしている。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の坂上是則の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、和歌の引用があったり、音調面の分析があったりしたものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕や〔鑑賞〕では、歌に詠まれた状況について、旅先での旅愁であること、さらに歌枕に対する興味によって曙の風景を見ようとしていることなどを、古今集の詞書や、本説となっている李白の「静夜思」などを手掛かりに明らかにしています。また、「吉野の里」という歌枕が四句目に配置されることによって、歌の主題が雪であるという指摘をしています。
ちなみに、徳原茂実氏『百人一首の研究』(和泉書院2015年刊)には、この歌についての考察がありまして、平安時代中期の藤原公任などには評価されていなかった「朝ぼらけ」の歌が、平安末期の藤原俊成や定家などには高く評価された理由について述べられています。その前提として、「朝ぼらけ」と「あけぼの」を考察した石田譲二氏の説が引用されていて、「朝ぼらけ」は夜が明けたころから明け果てるまでの朝早いころを言い、「あけぼの」は「朝ぼらけ」より早く、空が明るさを取り戻した程度の暗い状態だということを、徳原氏は和歌において検証していて、石田説を肯定しています。ところが、俊成や定家はこの歌をほの暗い歌として理解して評価を高めるとともに、「吉野の山」とあったのを「吉野の里」と改めて享受したのではないかというのが、最終的に徳原氏の指摘です。そして、かつては朝日に輝く雪景色の明るさを詠んだ歌だったものが、薄雪説をとる場合はほの暗さを基調とする歌として解釈される傾向にあるそうです。ともかく、この歌が詠まれた時代と、この歌が秀歌撰に撰ばれる時代では、歌の内容に相違があり、そのことが注釈書などにも影響を与えているのであります。
〔蛇足の蛇足〕
「朝ぼらけ」が気になりますので、大野晋『岩波古語辞典』補訂版から、引用してみます。
朝ぼらけ……夜がほんのりと明けて、物がほのかに見える状態。また、その頃。多く秋や冬に使う。春は多くアケボノという。
分からないのは「朝ぼらけ」という言葉でありますね。私はおっちょこちょいですから、うっかり「あけぼの」と「朝ぼらけ」の違いなどと言うものを学習してきていないのであります。何かありそうだな、と思ったことはあるのですが、似たような言葉があると、どう違うのか、こう違うのだというようなことは、かまびすしく言いつのりまして、知ったかぶりをする人に答えてもらったりする番組がよくありました。違う違うと言いますのは、同じもの似たものを言うわけでありまして、違うものについては似ている似ている、同じだ同じだと唱えるものなのです。日本語の場合は、万葉集・古事記・日本書紀以前の姿が分かりませんから、何かを究明するのは無理がありまして、だから大野晋博士はインドの言葉に語源を求めて晩年を過ごしたんではなかったでしょうか。大野晋博士の『岩波古語辞典』を見ると、「朝ぼらけ」は秋や冬、「あけぼの」を春に使う言葉ではないかとしてありまして、機知ある解説になっているんですね。定説になっているのかどうか、よくわかりません。ちなみに、「あけぼの」は万葉集なんかにはない言葉だったはずであります。
夜明けというのは、今と違って別れの時間帯。
夜明け前の暁に、男は女のもとから帰って行くという当時の習慣を踏まえると、解けそうであります。よくできた大人の女性なら、恋人や夫を起こしまして、仕度をととのえて送り出すんであります。春などはどんどん夜明けが早くなりますから、あらもう明けているわとみるのが「あけぼの」なんでありましょう。これに対して秋から冬にかけては夜明けが遅くなりまして、朝を待つわけですから、「朝ぼらけ」というような別の言葉が必要だったのでありましょう。男なら女の家を辞そうとして白雪に気が付きます。女なら男を送り出しまして、後ろ姿を見つめているうちに、有明ではなくて白雪だと気が付くわけであります。雪を押して通うには、吉野というのは京からは遠い土地でありますね。悲恋の匂いがするところでありますが、是則の逸話に特に吉野は出てこないのではないかと思います。
古注釈などを見ますと、雪が「薄雪」なのか、それとも「深雪」なのか、あるいは「初雪」なのか「積雪」があるのかどうかと言う点で、意見が分かれるようです。また、あまりそういう議論はありませんが、「有明の月」が空に昇る二十日前後の時期を詠んでいるのか、そうでない時期に詠まれた歌なのか、本当は分からないのではないでしょうか。「有明の月」は光が弱いので、満月の時の月光を思い浮かべているという考えも成立するでしょう。経験から言うと、煌々と照る満月の光によって、地面が白く光るのは何度も見たことがあります。満月の光で、新聞くらい読めるほど明るいのであります。
雪明りを見て、最初は月光か?と思うんですが、次に夜明けだから有明の月だった?と思うんでしょうね。ようやく、吉野の雪だと気付くわけです。
古今集の詞書には「大和の国にまかりける時、雪の降りけるを見てよめる」とあるだけで、月には触れていません。よって、この歌は「朝ぼらけよし野の里にふれる白雪」が実景でありまして、おそらくまだ夜はろくに明けてはいないのでありましょう。「有明の月と見るまでに」は、そこに存在しない月の光を想像で述べているはずです。そしてまた、今現在雪が降っているのでもなく、陽光もまだほとんど存在感がないはずであります。
なお、「ふれる白雪」の「る」は、完了・存続の助動詞「り」の連体形ですが、「降った白雪」という完了でもなく、「今降っている白雪」という継続でもなく、おそらく「降って積もっている白雪」という存在の用法かと思います。夜の間に降って、来訪者が明け方に雪の白さに驚くと考えるのがいいでしょう。
和歌の解釈のほころび、というようなものは、一箇所突っ込みどころが見付かると、ぼろぼろと見付かります。結婚生活、というものもその類でありまして、結婚に向けて頑張ります時には、相手のいいところを探しまくりますので、嫌が応にも惚れざるを得なくなるわけです。あばたもえくぼなんてことも申しまして、目が好き、鼻が好き、耳が好き、髪の毛が好き、髪型が好き、ついでにあなたの両親も、あなたの生まれ故郷も大好きです、なんてことをのたまうわけであります。サルスベリが好きとなれば、幹が好き、枝が好き、葉っぱが好き、花が好き、というのと同じであります。ところが、一つ嫌いなところが見付かりますと、すべてが反転しまして、今までの美点が欠点になるものなんですね。あなたの親も、あなたの出身地も大嫌い。サルスベリってずっと咲いていてつまらない、というように。
書物というものも、理解しよう、学習しよう、知識を得ようと頑張る時は、どの本も立派なことをおっしゃっているように感じるわけです。つまり、私たちというのは、文脈を読み取ろう、合理的に全体を理解しようとしますから、理性に蓋をして、ちょっと違和感があっても、それは自分の非力のせいである、勉強が足りないのだ、と思いがちなんでありますね。しかし世の中に完璧はありませんので、医者のセカンドオピニオンを聞きに行くように、いろんな本を比較するのも有効であります。ただ、比較の結果、大混乱に陥ることもありまして、人生ままならないのであります。
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