超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(25) 藤原定方

名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな    三条右大臣

     (後撰、恋三、701)(六帖34732、さねかづら)


〔釈義〕

その名に相当する効があるなら、逢坂山のさねかづらを(手繰り寄せたい、但し人に知られては具合が悪いから)、人に知られずに手繰り寄せる方法でもあったらなあ、(そうすればその効によって、「逢う」て「さ寝」る、すなわちそなたに逢って一緒に寝ることも出来ように。ということは、つまり)そなたに逢って一緒に寝るために、人に知られずにやって来る方法でもあればなあ(ということだよ)。


〔義趣討究〕の要旨

① この歌は、「逢坂山のさね葛」に「逢ふ」と「さ寝」の掛詞があり、「くる」が「繰る」と「来る」の掛詞であることは明らかだが、文脈と文意は明らかではない。

② 八代集抄(北村季吟)は、「我思人も世にしられずしてくるよしもがなといへる也」と女の立場で解しているが、後撰集の詞書には「女のもとにつかはしける」とあるので否定できる。 「人に知られでくる」を「人に知られないで逢いに来る」という解は「繰る」を生かしていない。また、「愛する女が自分の意に靡いて」という解は、「繰る」と「寄る」を混同したものだ。「名にし負はば」は「逢坂山のさね葛」について言っているので、その対象は「逢ふ」と「さ寝」なので、これを「人に知られでくる」に関係づけるのは無理がある。この歌を、「さね葛」に呼びかけたとする解には納得できない。

③ 「名に負ふ」と同じような「名に聞く」「名に立つ」「名に流る」「名に旧る」の「名」は評判の意であるが、これらは中古以後のものである。「名に懸く」は「名に負ふ」とともに万葉から例があり、「名に懸く」は「名に懸かる」の意だが、「名に負ふ」は「名から負う」「名から義務を負う」の意である。よって、逢坂山のさね葛が名に相当する価値を持つなら、「逢ふ」「さ寝」を実現する呪力を持つので、「人に知られで繰る」は「秘密の内にそれを手に入れたい」の意である。

④ この歌では、逢坂山のさね葛を秘密の内に獲得する方法でもあればよいという比喩の意味と、そなたに逢うて寝るためにこっそり来る手段でもあればよいという現実の意味が、表裏一体をなしている。

⑤ 「来る」を後撰集の詞書に照らすと、女が男の許へ来ることになるが、習慣上不自然なので「行く」意味であろうという説が多い。「相手の女のもとへやって来る」意味にとるのが、通い婚の習慣にも合致して自然な解釈である。


〔鑑賞〕の要旨

① この歌は、さね葛に添えて女に贈られた歌で、「逢ふ」「さ寝」の懸詞は露骨であり、「繰る」の懸詞も加わって技巧が目立つが、繁茂したさね葛が他の樹木にまといつくイメージは恋情を象徴している。


〔蛇足〕

以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の三条右大臣定方の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、和歌の引用があったものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕では、「逢ふ」「さ寝」「繰る」の掛詞の検討を軸にして、「名にし負はば」という初句の意味するところや、「くるよしもがな」の主語の問題について著者なりの見解を提示しています。〔鑑賞〕における音調面の指摘は今回も割愛しました。


この歌に関しても、「逢坂山のさね葛人に知られで繰る」の部分を単に修辞上、「来る」を導くためだけの序詞というような意味に、著者は限定していません。そのまま、意味のある表現として〔釈義〕の中で訳しています。近年の注釈でも多くは同じような解釈を施すことが多く、「逢って寝るために密かに引き寄せる」という表現を訳に反映させております。掛詞のようなものは指摘されてしまうと、掛かっていないと否定するのも野暮な感じですから、学習用の解説などでは総花的に採用するのが普通ではないかと思います。あえてそうした風潮に意を立てるなら、この三条右大臣の歌と言うのは、次のようなことを伝えるための歌なのではないかと思うんですが、いかがでございましょう。


   人に知られで 来るよしもがな


さらに、後撰集の詞書を素直に受け入れたら、「そなたが、誰にも気付かれないで、私のもとに来る方法があるといいなあ」となりまして、題詠でなくて、実際の贈答歌であったことを考えると、高貴な男性が逢瀬の困難さを残念に思って、寵愛の女性に向って私の邸に引き取りたいと申し出た歌と言うのが、実は素直な解釈ではないかと思います。著者は、男が女を訪問する習慣からそうした解釈を否定していますが、『源氏物語』や『和泉式部日記』などを普通に詠んだなら、男性が意中の女性に対して「人に知られで来るよしもがな」と歌を詠みそうな状況が生じることはあり得ることで、別に不自然なことではなかったと思います。贈歌に植物を添える習慣を考えると、この歌に添えられたのは「さね葛」でありまして、それが「逢坂山」のものだと言うのは、歌の中で明かされているに過ぎない情報です。問題は、「名にし負はば」が「逢坂山」を指すのか「さね葛」を指すのか、それとも「逢坂山のさね葛」がブランドとして認知されていてこれを指すのか、判然としないような気がいたします。「さね葛」と「繰る」が縁語なのは何となく了解できますが、はたして「人に知られで」が、「さね葛」の属性となって縁語なのかどうかは分からないような気がいたします。単純に考えると、上三句は「繰る」を導き、ここに「来る」が掛けてあるだけの歌なのかもしれないと思います。


〔蛇足の蛇足〕

歌の末尾に使われている「もがな」は、和歌では定番の助詞ですが、現代にはもう残っておりません。歌語として多用されて、やがてまったく新鮮味を失ってすたれたものでしょう。現代的に言うなら、消費し尽くされた歌語であります。「もがな」は名詞の後に使われた時は、「~があるといいなあ」というニュアンスですが、言葉の成り立ちは不明です。「も」に「か」が付いたところから、「もが」が成立し、それに「な」が加わったとされますが、「も」に「がな」が付いて成立したと考えられる節もあります。


この「さねかづら」の歌は、「くる」が「繰る」と「来る」の掛詞なのかどうか、掛詞がないかもしれないという点で古来注釈が対立していて、よく分からないところがあります。世間には内緒ですが、実は『百人一首』の歌の解説は、学校での試験が成立しないくらい諸説紛々なんです。さらに、「逢坂山」という地名に「逢ふ」、「さねかづら」に「さ寝」を掛けるとして、修辞が満載の歌と言うことになっております。ただ、掛詞を想定する解釈の弱点は、「行く」ではなくて「来る」と言っている点で、三条右大臣・藤原定方が女に贈った歌としては、解釈しにくいところがあるというものです。


修辞技法などというものは、考えていると分からなくなるものです。


一応、、まず「逢坂山のさねかづら」は何を名に負っているのかという点については、「逢ふ」と「小寝」でよいと思いますけれど、「逢坂山のさねかづら」が導くのは「繰る」でありまして、これは「さねかづら」の縁語ということですから、実は「名に負ふ」のは「繰る」だけの可能性は残るでしょう。この「繰る」に「来る」を掛けているわけです。「繰る」と「来る」が掛詞です。この「来る」を巡って、和歌をもらう女性が「来る」というのは、男が女の元に通う風習に合わないとして揉めるんです。ただし、『源氏物語』を普通に読んだら、光源氏なんかは二条邸に紫式部を略奪して来たり、六条邸に妻妾を住まわせたりしておりますし、「宇治十帖」では匂宮が中の君を京都に呼び寄せたりしております。薫大将だって、浮舟を京都に来させようとしておりましたよね。女が男の元に行くというパターンは、ちゃんと存在するわけでございます。『和泉式部日記』でも、乳母に外遊びを咎められた敦道親王は、それなら和泉式部を女房として雇うという荒業を思いついておりました。


男が通って行くのが普通の社会なら、逆に、女に「来るよしもがな」と誘いかけるインパクトは大きいものがあったことでしょう。要するに、通うのは面倒だから、いっそ君の事を我が邸宅に囲おうかな、と言っているのであります。平安時代の物語にそういう場面があるので、女に「うちに来る?」と呼びかけることはあったはずですね。大臣家の坊ちゃんで、順調に出世して大臣になった定方ならありうることでしょう。御曹司と呼ばれる若い頃は経済力がありませんので女性を囲うのは無理ですが、公卿にでもなって邸宅を新築したら、意中の女性を招くのはよくある話で、『蜻蛉日記』の中にも兼家が道綱の母に同居を誘うところがありました。

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