超分厚い『百人一首』の注釈書を読んでみる(14) 源融
みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに 河原左大臣
(古今、恋四、724)(勢語一段)(六帖34158、すり衣)
〔釈義〕
みちのくのしのぶもぢずり、(乱れ模様に染めるとか。私の心もそのように、忍ぶ恋にすっかり思い乱れて、)乱れ模様に染めてしまった。だれのせいでそんなに乱れこんでしまった私なのか?あなた以外のだれのせいで乱れこんでしまった私でもないのに!(みんなあなたのせいでそうなった私なのに!その私にどうしてあなたは冷淡でいらっしゃるの?どうぞ私の気持を汲んで、人知れず私の思いを遂げさせてね!)
〔義趣討究〕の要旨
① 「乱れそめにし」の「そめ」を、信夫捩摺の縁語「染め」と「初め」の掛詞と普通は解するが、それは妥当ではなく忍ぶ恋の意味からも「染め」である。つまり、「布を乱れ模様に染め」と「心を乱れ模様に染め」という意味である。
② 「誰故に乱れそめにし」で句切れになると見る場合、「誰」という疑問詞に対して、連体形で結ぶと見るが、疑問詞のみに対する結びは終止形で結ぶものである。
③ 「われならなくに」を「わが故ならなくに」と解するのは無理であり、「……くに」の形は、順接「……ので」の意味にも、逆接「……のに」の意味にもなる。
④ 「誰」という疑問詞は、疑問の用法では不明の対象「誰」の場合、自分の事を記憶が薄れて「誰」とする場合、「自分以外の誰」、「あなた以外の誰」の場合などがある。これに対して、不定の用法があり、「誰も」が「みんな」を意味する場合、限られた範囲で任意の人を指す場合、「あなた」と「私」を指して「双方ともに」の場合、特定の人を指す「だれそれ」の場合、「あなた以外の特定の人」の場合、「その人以外の特定の人」の場合などがある。
⑤ この歌では、「あなた以外の誰のせいで乱れ染めにし私なのか、そんな私でもないのに(ないのだから)」の意となり、「どうしてあなたは冷淡なのか」「どうぞ私の気持を汲んでね」と解される。
⑥ 古今集では四句目が「乱れむと思ふ」となるが、これだと「もう乱れそうな」の意となり、「乱れ染めにし」とは事態の重さ深刻さが違ってしまい、表現は到底及ばない。
〔鑑賞〕の要旨
① 序詞の表すイメージが非常に効果的であり、理性が乱れ崩壊寸前にある人の姿と重ね合わされる。詠作主体は女性と見る方が適切である。
② 序詞はゆったりとしているが、三四句目で恋の波乱を感じさせるが、末句で哀願するような情緒を述べたものである。
③ 忍ぶ恋を主題として信夫捩摺を借用した歌ではあるが、六帖の分類にあるように、信夫捩摺を主題とした幻想的な内容の歌と見ることもできる。
〔蛇足〕
以上は、昭和54年(1979)に風間書房から刊行された桑田明氏の著作『義趣討究 小倉百人一首釈賞 ―文学文法探求の証跡として―』の河原左大臣源融の歌に対する注釈を、勝手にまとめたものでありまして、実際には、和歌の文法的な構造を記号で示した部分や、豊富な和歌の引用があったものを、今回もまた乱暴にそぎ落としております。〔釈義〕と〔義趣討究〕・〔鑑賞〕の三段階で分析したものですが、今回の〔義趣討究〕の内容は、最初に上の句の序詞の働きを追及しています。そこでは、従来の注釈書などが指摘する「染め」と「初め」の掛詞を否定しておりまして、どちらも「染め」であると主張し、〔釈義〕でも「私の心もそのように、忍ぶ恋にすっかり思い乱れて、乱れ模様に染めてしまった」と訳していたりします。これはもはや、初二句の序詞が恋の歌の内容にまで絡んでおりまして、いわゆる有意の序とも言うべき解釈ですけれども、やはりちょっと受け入れがたいところがあります。「初め」を認めないとして理由がのべられておりますけれど、「初め」を採用すると、心が乱れた最初だけに詠作主体が関わることになると著者は断じていますが、こうした論法は謎であります。「あなたのせいで乱れはじめた」というのは、恋の始まりに付いて述べていて、それなら今も継続中の恋の事だと思いますから、従来の説で充分この歌は味わえるはずです。著者の〔義趣討究〕の結論にある表現の「染め」を「初め」に変更すると、「あなた以外の誰のせいで乱れ初めにし私なのか、そんな私でもないのに(ないのだから)」となりまして、どこも変ではないような気がいたします。
この歌は、「乱れ染め」を導く序詞が、上二句の「陸奥のしのぶもぢずり」でありまして、その序詞を省くと、「誰ゆゑに乱れ初めにし我ならなくに」でありまして、これは歌の相手に対するなぞかけでありまして、その下に趣旨を「汝ゆゑに乱れ初めにし我なり」と補えばよいのかと思います。それでも、分かりにくいところがありますので、「誰ゆゑに」で始まる疑問文を最初に補うといいのかもしれません。つまり、
我は誰ゆゑに乱れ初めにしことか。誰ゆゑに乱れ初めにし我ならなくに、汝ゆゑに乱れ初めにし我なり。
ということでありまして、実は河原の左大臣が詠んだ下三句を省いて、補った最初の疑問文と、補った結論部分をくっつけて「我は誰ゆゑに乱れ初めにしことか。汝ゆゑに乱れ初めにし我なり」とすれば、簡潔になってしまうのであります。ここで、江戸時代の尾崎雅嘉『百人一首一夕話』の解釈を引用してみたいと思います。
奥州の信夫郡より出づるもぢ摺りといふものは、髪を乱したるやうにしどろもどろに模様を摺りつけたる衣なるが、我も誰故に心が乱れ始めしぞ、皆そこ許故の事にて、我と思ひ乱れたるにはあらず。
二人称を「そこ許(そこもと)」とするところに趣がありまして、序詞の部分を訳出している点にも特色があります。また、分かりにくい「乱れそめにし我ならなくに」の部分を「我と思ひ乱れたるにはあらず」と改めていて、なかなか上手です。これに対して、明治時代の佐佐木信綱『百人一首講義』の解釈も引用してみたいと思います。
誰ゆゑに、思ひみだれそめたる我なるぞ、他の人の為にはあらで、君ゆゑなるに、なほいつまでも、しかつれなきぞ。
信綱は、序詞をばっさりと切り落とし、最初に疑問文を補い、左大臣の詠んだ下三句を省いて、「君ゆゑ」という答えだけを提示しております。「君ゆゑ(思ひみだれそめたる我なるぞ)」と容易に分かります。これはこれで、大胆で上手なのであります。そして、「なほいつまでもしかつれなきぞ」と相手を責める言葉を補っておりまして、呪文みたいな河原左大臣の歌が、明瞭すぎると思うくらいのメッセージになっております。佐佐木信綱の「なほいつまでもしかつれなきぞ」というのは、訳して見ると「(ずっと口説いているが)それなのにいつまでもそのように冷淡なのか」ということで、成就していない恋のような解釈に取れてしまいそうです。さすがに、白秋はこれを受け入れなかったようです。北原白秋の訳も掲げておきます。
奥州の信夫郡から出るもぢ摺りの模様の乱れたやうに、自分の心は乱れてゐる。これはいつたい誰の為であらう。みんな君故である。自分がかつてに思ひ乱れたのではない。
深い関係になっても、時折愛情を疑われるというような状況を普通は考えるわけで、その返事としては「なほ今でも(我は汝のみを)思ひては乱るることかな」と首ったけであることを主張するほうがよいと思います。桑田明氏は、この歌の詠作主体は女性だとしているんですが、なんとなく男性が詠作主体の方がしっくりくるような気がしますが、今説得材料は何もありません。
〔蛇足の蛇足〕
源氏と言うのはこの人河原左大臣あたりから始まったものです。嵯峨天皇は蔵人制度を作ったり、皇子たちを貴族にしたり、いろいろなアイディアを持っていたようです。左大臣に上り詰めた融というのは、なかなか手ごわい政治家で、藤原氏を困らせていたらしく、陽成天皇が廃帝となった際には、自ら天皇になりたいという意志を表明し、そうなる可能性は高かったのではないでしょうか。藤原基経がそれを阻止しましたが、その言い分は臣下に下ったものが皇位に就いた例はないというもので、それはそれで当時説得力があったようです。その結果、老皇族だった光孝天皇が即位しましたが、後継ぎとなる光孝天皇の子供は源氏になっていたので慌てて皇族に戻ったようです。それが次の宇多天皇ですが、それなら融が天皇になっていてもよかったのです。あれほど恋慕した国王の地位なのに、その場しのぎの藤原氏の言い分が通ってしまったということ。
政治なんてそんなものでありまして、舌の根も乾かぬと言います。
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