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北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(83) 藤原俊成

83 皇太后宮大夫俊成 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞなくなる 〔評釈〕世の中には憂さ辛さを避ける道もない。せめて山の奥にでも隠遁しようと一途に思つてわけ入つて見たが、こんな山奥にも、鹿が、ああもの悲しい声で鳴いてゐる。 といふ意である。世の中をきらつて安楽地を山中に求めたが、悲しい鹿の鳴声を聞いて、やつぱり山中にも憂き事があるかと感じた厭世詩人の悲しい歎きが思はれる。全体の調子もゆるみなく調つて、すて難い趣がある。この歌は千載集雑に「述懐百首詠み侍りける時、鹿の歌とて詠める」と題して出てゐる。 〔句意〕▼世の中よ=歎息して呼びかけたのである。▼道こそなけれ=「道」は「道徳」ではなく、自分の世を遁れる道をいふ。世の中の憂いことを遁るべき道がないの意。▼思ひ入る=山の中へ入ることと、一途に思ひ込むこととを通はせて言つた詞。 〔作者伝〕 権中納言俊忠の第三子で、仁安二年正三位、承安二年皇太后宮大夫に任ぜられたが、安元二年六十二歳で出家し、元久元年九十一歳で卒した。五条三位とも称す。俊成は藤原基俊を師とし古今集の秘伝を受けた歌人で、二条家の和歌の祖になつた人である。人となり温厚で、よく人の言を容れ判者としての衆望もあり歌評などは世人が之を伝へて珍とした程である。後鳥羽帝に愛せられ仁和帝の御代に遍照に賀を賜ひし例にならひ御製及鳩杖を賜つたといふ光栄の人である。 〔補記〕 句意の二つ目「道こそなけれ」の解説の中にある「自分の世を逃れる道」は、昭和5年版には「自分の世と逃れる道」とありましたが、「と」は「を」の誤植と見て直しました。 作者伝には、今回も問題がありました。 まず、作者伝の冒頭近くの「仁安二年正三位」は、昭和5年版では「仁安三年正三位」とありましたので、「三年」を「二年」と直しました。 また、「珍とした程である。」のところは、昭和5年版では「珍とした程である、」とありましたので、読点を句点に改めました。 次に、作者伝末尾の「後鳥羽帝に愛せられ仁和帝の御代に遍照に賀を賜ひし例にならひ御製及鳩杖を賜つた」という部分は、「後鳥羽帝に愛せられ仁和帝の御代に御製及鳩杖を賜つた」とありましたので、佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』を参考にして、「遍照に賀を賜ひし例にならひ」を補いました。仁和帝は光孝天皇のことです。平安時代初期に光孝天皇が遍照に賀...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(82) 道因法師

82 道因法師 思ひわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり 〔評釈〕長い間恋人のつれないのを歎いて、消え入るやうな思ひをするが、それでも命だけは長らへてゐる。それだのに涙ばかりは堪へられないと見えて、乾く間もなく流れ落ちて来る。 といふ弱い心を持つた男の恋の未練をはかなく哀れに歌つたものである。命は堪へても涙は堪へぬといつたもので、調子は相当に整つてゐるが、強さが足りないのが惜しい。これだけの心持ちがあれば、もつと読者の胸に迫る筈だのに。とにかく恋の悲しみの哀れさはうかがはれる。これは千載集恋三に「題しらず」として出てゐる。 〔句意〕▼思ひわび=思ひの極り果てた事。即ち恋の物思ひに心を苦しめる事。▼さても=さありてもの約で俗にそれでもといふ意。▼憂きに堪へぬは=辛さに堪へられぬはの意。「絶え」の意ではない。 〔作者伝〕 俗名敦頼、内大臣高藤の裔で、治部丞清孝の子である。崇徳帝に仕へ従五位上右馬助を勤めたが後、出家して道因と改めた。非常に歌が好きで、七十歳頃迄、毎月住吉に詣で秀歌を得ん事を祈つたと云ふ。歌合の時判者清輔が道因の歌を負けとしたので悲傷して、わざわざ判者の家を訪ねて泣いて恨んだといふ。俊成が千載集を撰んだ時彼の歌を十八首入れたが、道因が感謝した夢を見て更に二首を加へ二十首入れたといふ。 〔補記〕 作者伝は、粉本である佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』を下敷きにしたものですが、いくつか修正したところがあります。なお、藤原高藤の末裔ですから、道因は藤原氏で、在俗時代は藤原敦頼だったわけであります。 まず、「治部丞清孝」の部分は、昭和5年版では「治部清孝」とあったので、「丞」を補いました。「丞」は治部省の三等官で「じょう」と読むものです。 次に、道因の在俗時の最終官歴ですが、「右馬助」については、注釈書によっては「左馬助」となっていたりします。『和歌大辞典』の「道因」の項(島津忠夫執筆)では「左馬助」ですが、角川ソフィア文庫『新版百人一首』(島津忠夫訳注)では「右馬助」とあって、混迷しているようですから、そのままにいたしました。信綱は「左馬助」、雅嘉は「右馬助」で、粉本でもばらばらです。 さらに、「彼の歌を十八首入れた」の部分は、昭和5年版では「彼の歌を十八首をいれた」と「を」が重複していましたので、後の方を削りました。粉本を抄出す...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(81) 藤原実定

81 後徳大寺左大臣 ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる 〔評釈〕ほととぎすが珍らしく鳴いたので、すぐ空を仰いで声のした方を眺めると、今鳴いたばかりのほととぎすの姿などは何処にも見えないで、ただ有明の月ばかりが白く暁の空に残つて見える。 といふ意で瞬間の実感をそのまま歌つたものである。何となく一読して一種の寂しさが空から涌いて来るやうである。この歌は千載集夏部に「暁聞郭公と云へる心を詠み侍りけるに」と題して出てゐる。が、なかなか興味のある歌である。百人一首雑談には「郭公歌の第一なり」と称へてゐる。 類似歌としては金葉集に、「ほととぎすあかですぎぬる声によりあとなき空を眺めつるかな」といふものもあるが、後徳寺の歌には及ばぬ。 〔句意〕▼鳴きつる方=鳴いた方の意。▼ただ=「のみ」又「ばかり」などの意、有明の月のみ。▼有明の月=あけ方の月で、夜が明けてもまだ空に残つてゐる月、既に前に説明した。 〔作者伝〕 藤原実定の事で、父は大炊御門右大臣公能、母は権中納言俊忠の女である。祖父が徳大寺左大臣実能であつたから後徳大寺と云つた。寿永三年内大臣に、文治二年右大臣に同五年に左大臣に進んだ。其後建久二年出家して如円と改めた。歌が巧みで嘉応二年住吉に於ける歌合に社頭月を題にして、「ふりにけり松ものいはばとひてまし昔もかくやすみの江の月」とよんだ。判者俊成も大いに賞し感服したといふことである。 〔補記〕 白秋の評釈に「百人一首雑談」を引用していますが、この書名について昭和5年版は「百人一雑談」となっていて、「首」が抜けていたので補いました。『百人一首雑談』は元禄5年(1692)に戸田茂睡が書いた注釈書で、実定の「ほととぎす」の歌に関しては、「郭公の歌の第一と云り」「かやうの歌よきに極りたるは、郭公の歌の第一と云にて心得らるべし」と高く評価しています。 作者伝には、今回も問題がたくさんありました。 まず、実定の母に関して「権中納言俊忠の女」とあるところは、昭和5年版では「中納言信忠の女」となっていて、「信」を「俊」に改め、官職についても俊忠の最終官歴に従いました。なお、この誤りは、白秋が粉本とした佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』から引き継いだものですが、近年の注釈書にも散見されるものです。実定の母である俊忠の娘は、豪子という名前も分かっておりますが、...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(80) 待賢門院堀河

 80 待賢門院堀河 ながからむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ 〔評釈〕末長く心変りはせぬやうにと言ひ交したけれど、男の心はどういふものか分りませぬゆゑ、起きて別れたそのあとでは、此の髪の乱れてゐるやうに、今朝はいろいろ心が乱れてゐる。 との意である。疑ひ深く、取越苦労のしがちな女性の真情をうまく詠みあらはして、読者を動かす秀作である。詞もあまり熱情的ではないが、黒髪の乱れを我が心の乱れに譬へた所などは巧妙な用例で、女性らしさが見えてうれしい。 〔句意〕▼ながからむ心も知らず=「長からむ心」は長持ちせんとする心で、長く女を愛しようとする心。即ち昨夜はじめて男と逢つたが、行末長く私を愛してくれる心があるやらないやら、甚だ覚束ないといふ意。▼黒髪の=黒髪の乱れたやうに。即ち乱れ心を黒髪にたとへたのである。大町桂月は乱れるの序であるといつてゐるが感じが弱くなる。▼乱れて=心がとり乱れての意。▼物をこそ思へ=心配をする意。物を思ふのを強く言つたのである。 〔作者伝〕 神祇伯顕仲の女で、鳥羽院の皇后待賢門院に仕へてゐた。別名堀河の君又兵衛の君と呼ばれ、当時女歌人として聞えが高かつた。その家集もある。その中に堀河の君の夫に別れた事が見えてゐる。即ち「具したる人の失くなりたるを歎くに幼き人のものがたりする」と題し、「云ふ方もなくこそものは悲しけれこは何事を語るなるらむ」と詠んでゐる。しかしその夫は何人であつたか分明でない。父の顕仲も名高い歌人で、歌合を主催したり、判者を務めたこともあった。 〔補記〕 評釈の末尾に「巧妙な用例で」とありますが、昭和5年版では「巧妙な、用例で」とありましたので、読点をはぶきました。あるいは、「巧妙な」のあとにもう少し修飾句があったのかもしれません。 作者伝には、いくつか問題がありましたので、大胆に修正いたしました。 まず、二箇所出て来る「堀河」が、昭和5年版ではどちらも「堀川」となっていましたので、作者名の「待賢門院堀河」と統一しました。 昭和5年版では、「父の顕仲も名高い歌人で、」という一節が、「その家集もある」の前に位置していて、一読すると「家集」が父の顕仲のもののようにも見える表現でした。そこで、「父の顕仲も名高い歌人で、」を作者伝の末尾に補い、本来存在しない「歌合を主催したり、判者を務めたこともあった。」という父の顕仲に関す...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(79) 藤原顕輔

79 左京大夫顕輔 秋風にたなびく雲の絶え間より洩れ出づる月の影のさやけさ 〔評釈〕秋風が吹いて来ると、棚引いてゐる雲が途切れ途切れになるが、その雲の隙間から、洩れ出た月の光の美しく明かな事よ、実に鮮かな月の光である。 との意である。秋の月は明かなものであるが、今まで雲のためにうすぐらかつたその反動で、一層明かに見えるところ、刹那の変化をうまくとらへ得て興味が多い。全体の調子もはつきりとして一読して品の高い感じのする歌である。 作者の著想、敏感、非凡といはねばならぬ。この歌は新古今集秋上に「崇徳院に百首奉りける時」とし題して出てゐる。 〔句意〕▼たなびく=なびくに同じで横さまに漂ふ事である。万葉には軽引と書いてある。▼洩れ出づる月=雲の間から月が現はれて下界を照らす事で、太陽のやうに自身はかくれてゐて光だけ雲間から投げるのではない。月自身があらはれて明るいのである。▼さやけさ=はつきりして明かな事。 〔作者伝〕 正三位修理太夫顕季の子で保延五年に左京太夫となつた。久安四年正三位に進み久寿二年出家した人である。歌は上手で殊に人麿を崇拝し万葉風を好んだ。この頃歌風が技巧に捉はれ純真味を失はうとするのに反対して古風の素朴を主張した。六条家の和歌一流の祖で、その子清輔、顕昭法師、重家、孫の知家、有家等皆すぐれた歌人が出てゐるのはこの人の影響であらう。 〔補記〕 白秋は句意の「たなびく」について、「万葉には軽引と書いてある」と指摘していますが、その意図は判然としません。たしかに、「雲居軽引」(万葉集460)を「くもゐたなびき」と訓じていたり、「霞軽引」(万葉集1844)を「かすみたなびく」と訓じていたりします。その一方、「棚引山乎」(万葉集287)を「たなびくやまを」、「霞棚引」(万葉集1845)を「かすみたなびく」と訓じ、さらに「霞霏霺」(万葉集1816)を「かすみたなびく」と訓じてもいます。また、「多奈引霞」(万葉集473)を「たなびくかすみ」と訓じることには余り抵抗がないと言えるでしょう。他にも「陳」(万葉集161)「田菜引」(万葉集321)「田奈引」(万葉集948)「多奈婢久」(万葉集1439)「多奈妣久」(万葉集1771)「霏」(万葉集1821)「蒙」(万葉集3188)「棚曳」(万葉集3329)「田菜引」(万葉集3791)など、「たなびく」と読ませる万葉仮名の表記の...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(78) 源兼昌

78 源兼昌 淡路島通ふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守 〔評釈〕ただ一夜の旅寝にも、夜は更ける、目はさめる、海を隔てて淡路島へ通ふ千鳥の鳴く声が憐れ深く心にしみる。ましてこの須磨の関を守つてゐる番人は、幾夜も幾夜もこの千鳥の声に目を覚して、さぞかし淋しい寝覚めをすることであらう。 といふ意で、人里離れた須磨の関所の番人の夜々千鳥の声をきく詩情哀感を歌つたものである。この歌は、金葉集の冬に「関路千鳥といふことをよめる」と題して出てゐる。中古の想像歌などの多い中にかうした実景を歌つたことは、この歌の生命であらう。 〔句意〕▼幾夜寝覚めぬ=幾晩眼をさましたかといふの意で、「ぬ」は打消のぬでなく、過去のぬでもない。ねざめぬらんの意である。▼須磨の関守=須磨の関所の番人の事で、此処に関所があつたのである。 〔作者伝〕 宇多源氏の系統、美濃守俊輔の第二子である。従五位下皇后宮の大進であつたといふ。伝の分明でない人で従つて当時世にあまり知られなかつたらしい。堀川院次郎百首によみ人の中に歌が見えてゐるだけで、他には見えて居らぬ。百人一首中に撰ばれたのもただこの一首が秀でてゐたからであらう。 〔補記〕 白秋は評釈の末尾のところで、「実景を歌つたことは、この歌の生命であらう」と言っていますが、金葉集の詞書に記されている「関路千鳥」という結び題を見る限り、歌会や百首歌の催しに参加して詠んだ題詠の可能性が高く、白秋が否定的に捉えている「中古の想像歌」の一つの可能性があると思われます。そういう点で、混乱した記述と考えてよいと思います。 作者伝に兼昌の出詠した百首歌として『堀川院次郎百首』とありますが、昭和5年版ではこれが『堀川院次部百首』となっていました。「部」は「郎」の誤植と見て改めました。『堀川院次郎百首』は、永久4年(1116)に鳥羽天皇の勅命で、兼昌を含む7人の歌人が、一人百首ずつ詠進した和歌を披露し、まとめたものです。『永久百首』あるいは『永久四年百首』とも呼ばれています。出詠した時の兼昌の官職は、従五位下の皇后宮小進でしたが、その後大進に昇進したことが他の歌合の官位記載から確かめられています。なお、兼昌の和歌で勅撰集に入った歌は7首、知られている和歌の総数は128首ですから、『堀川次郎百首』に見える100首を除けば、微々たるものと言っていいでしょう。 〔蛇足〕 白秋の解釈の...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(77) 崇徳院

77 崇徳院 瀬を早み岩にせかるる瀧川のわれても末にあはむとぞ思ふ 〔評釈〕流れの早い瀧川の水が、岩に堰き止められて両方へ分れて流れるが、又末は相合して流れるそのやうに、私の恋も今は他人の為に一旦別れて居るが、このはげしい思ひは、末にはきつと又より逢はうと思ふ。 との御意で、どこまでもといふ強い恋の情念が歌はれてゐる。この歌は詞花集恋上に「題しらず」として出てゐる。序の思ひつきなどは巧みに出来てゐるがわだかまりのない平調であると思はれる。 〔句意〕▼瀬をはやみ=瀬が早いによつての意、上の二句は「われても末に逢ふ」といふ為の序詞である。▼われても=岩が水中にあるのでそれに衝き当つて砕け左右に分れて流れてもの意で、たとへ人の為に恋を邪魔されて恋人と別れて居てもの内意にたとへたのである。 〔参考〕この歌は久安百首には「行きなやみ岩にせかるる谷川の」となつてゐて、百首異見には久安百首の方が正しいといつてゐる。 〔作者伝〕 御諱は顕仁、鳥羽天皇の第一皇子で御母は待賢門院璋子である。保安四年御年五歳で即位し給ひ、在位十八年で鳥羽上皇の御子体仁親王(近衛天皇)に譲位し給うた。保元の乱後出家なされ讃岐にお遷りになり、心ならぬ日を送り給ひ、長寛二年御年四十六で崩御遊ばされた。御境遇を詠み給うた御歌には読者に感動させるものが多い。 〔補記〕 白秋の評釈の訳出の部分に「末は相合して」とありますが、この「相合」は、旧仮名遣いでは「あひあひ」、現代仮名遣いでは「あいあい」で、「共有・共用」の意だと広辞苑に出て来ますが、ここは「合同・集結」などの意で使われているようです。「相合して流れる」で「合流する」の意になるのでしょう。この言葉で、現代に残っているのは「相合傘」です。 この崇徳院の歌については、珍しいことに〔参考〕という項目が白秋によって立てられて、香川景樹の『百首異見』の説に言及しています。念のため、引用してみたいと思います。勘所は、「瀧川の」という改作では、水勢の点で強すぎるので、原案の「谷川の」なら末に合流することもありうるというものです。なお、『百首異見』の紹介は、白秋が粉本にしている佐佐木信綱『百人一首講義』に出て来たものです。 此の御製『久安百首』に、「行きなやみ岩にせかるる谷川のわれて末にも逢はんとぞ思ふ」、と有り。これぞ正しかりける。 (中略)此の御製、詞花集に今の如くなほ...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(76) 藤原忠通

76 法性寺入道前関白太政大臣 わだの原漕ぎ出でて見れば久方の雲井にまがふ沖つ白浪 〔評釈〕海上遥かに漕ぎ出して見ると、海が果てもなく広々と続いて、大空と一つになつてゐる、沖の白浪も雲のやうに見える。 といふ意で、水天一碧、これ天、これ海の差別のない壮大な海上の景色を詠んだものである。巧緻に富んだこの時代の景色歌としては珍らしく大作で、大まかな叙景である。この歌は詞花集雑下に「新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませたまひけるによめる」と題して出てゐる。新院とは崇徳上皇の御事。 〔句意〕▼わだの原=広々とした海の事。既に前に説明した。▼こぎ出でて=舟を漕ぎ出るの意で舟といはずにその意を含めた。▼久方=雲の枕詞。▼雲井=空の意。万葉では広く空の事とあつて後には雲のおりて居る事にも用ひた。ここは空の意。▼まがふ=行き違ひ、入り乱れること、一所になる、の意に用ふ。ここは大海と空との区別のつかぬ意である。 〔作者伝〕 太政大臣忠通の事で、知足院関白忠実の子である。保安三年に右大臣従一位に叙せられ、四代の帝の関白となり二度も摂政になつた。応保二年には出家して法性寺に入り長寛二年六十八歳で薨じた。忠通は寛仁な人で能く人を愛した。文章も詩歌も書も巧みで才智もすぐれてゐた。和歌を特に好まれた事は八雲御抄に「歌の道無下にすたりて此道なきが如し、法性寺入道此道を好み、崇徳院の末つかたよりやうやう又和歌のこと沙汰あり」とある。 〔補記〕 評釈に引用されている詞花集雑下の詞書の中の歌題「海上遠望」は、昭和5年版では「海上眺望」とありましたが、これは佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』から引き継いだ誤りのようなので訂正いたしました。ちなみに、明治12年(1879)に浮世絵の「品川海上眺望図、大森朝乃海」(作者は小林清親)という作品が東京名所図の一つとして世に出ております。 作者伝の中に「法性寺」「法性寺入道」とありますが、昭和5年版では「法成寺」「法成寺入道」となっており作者名と矛盾していましたので、改めました。「法性寺」は、延長二年(924)頃に藤原忠平(貞信公)が創建したとされる寺院で、応仁の乱後衰退しました。「法成寺」は、寛仁三年(1019)に出家した藤原道長が発願して創建した寺院で、始めは無量寿院と称していたものですが、治安二年(1022)に法成寺と改称し...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(75) 藤原基俊

75 藤原基俊 契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も去ぬめり 〔評釈〕お約束になつたお言葉を命にかけてあてにして待つてゐたのに、ああ、今年の秋もそのかひなくむなしく過ぎてゆくのでせう。 俊基の愛子光覚が維摩会の講師になりたいと願つた時、「自分が生きて居る限りは当にして待つて居よ」といふお言葉であつたので、安心して待つてゐたのに、あはれ今年も亦撰に洩れて講師にもなれず、もう秋も暮れようとしてゐるといふのであつて詠んでゐると、子を愛する親の情が思ひやられ、哀れが感じられる。この歌は千載集雑上に「僧都光覚、維摩会の講師の請を度々洩れたれば、前太政大臣に恨み申しけるを、しめぢが原と侍りけれど、又その年も洩れにければつかはしける」と題して出てゐる。前太政大臣は忠通の事、しめぢが原は、ある歌の中の詞で大丈夫の想にたとへて用ひた。維摩会は維摩経を講ずる会で興福寺で毎年十月十日から一週間行ふ。 〔句意〕▼契りおきし=約束して置いたの意で、「おきし」は露にかかる縁語。▼させもが露の命=はかなき事をあてにするの意。「させも」はさしも草の略。忠通が「唯頼めさせも草」といつたのをそのまま取つたのである。 〔作者伝〕 堀川右大臣頼宗の孫で正二位右大臣俊家の子である。初め従五位左衛門佐であつたが、崇徳帝の保延四年に八十四歳で出家して覚舜といつた。歌文に長じ、古歌を唱へて新体の俊頼に対立した当代の名高い歌人である。しかし性資がやや傲慢で人を非難批評を好んで世の評判はよくなかつた。その為か官位も進まなかつた。著書には新歌仙、相撲立、新撰朗詠集などがある。 〔補記〕 白秋の評釈の末尾、「しめぢが原は、ある歌の中の詞」とありますが、これは『新古今集』巻二十・釈教 1916番の清水観音が詠んだという「なほたのめしめじが原のさせも草我が世の中にあらむ限りは」の二句目を指すようです。同集の1917番歌の左注に「此の歌は清水観音の御歌となんいひつたへたる」とあります。「衆生よ、私清水観音がこの世にいる限りは、今後も救済を期待せよ」というような、頼もしい内容の歌です。    作者伝の末尾、基俊の著書を並べたところに「相撲立」とありますが、昭和5年版ではここが「相模」となっていましたので、白秋が粉本とした佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』を参照して改めました。『相撲立』は、『相撲立詩歌...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(74) 源俊頼

74 源俊頼朝臣 うかりける人を初瀬の山おろしはげしかれとは祈らぬものを 〔評釈〕私につらく当つてゐた人の心が、やはらぐやうにと、初瀬の観音に願をかけて置いたのに、その人の心は、前よりもつらく、初瀬の山おろしのやうにはげしくあたるやうになつた。ああ、自分はかうひどくなるやうにとは祈らなかつたのに。 といふ意で、恋には神仏も頼みにならぬ事を歎いてゐる。この歌は千載集恋二に「権中納言俊忠の家に、恋十首の歌よみ侍りける時、祈不逢恋といふ心を」と題して出てゐるが、よみ難い心持を短い言葉の中に歌ひ込み得た技巧は、全く歌才の然らしむるところであらう。 〔句意〕▼うかりける人=憂い人の意。憂くありけるの約で、ここはつれなく当る人をさす。▼初瀬の山おろし=「初瀬」は大和の初瀬の観音。恋を祈つた意。「山おろし」は次のはげしの冠詞と見てもよい。▼はげしかれとは=はげしくあれの約で、つれなさの一層烈しくなれとは。▼祈らぬものを=祈らなかつたのにの意。 〔作者伝〕 大納言経信の第三子で、最初近衛少将に任ぜられ、木工権頭兼左京権大夫を経て従四位に進んだ。父経信と共に和歌に秀で、大いに新体を唱へて革新を叫んだ、旧体を唱へる基俊に対立した程である。しかしその改革はやや形式の方面に流れた事は惜しい事であつた。穏健な人で宮廷や公卿の歌合には判者役をつとめ、信用も厚かつた。天治の初め勅を奉じて金葉集を撰んだ。その子俊恵法師も亦歌名の高い人である。 〔補記〕 冒頭の和歌の三句目「山おろし」は、定家の秀歌撰や小倉色紙では「山おろしよ」とあって、百人一首としては「山おろしよ」がいいとされますが、白秋の句意では「初瀬のやまおろし」を「はげし」を導く枕詞(冠詞)と見ているようなので、訂正しないでそのままといたしました。 作者伝の俊頼の経歴の部分に「左京権大夫」とありますが、白秋の昭和5年版には「右京大夫」とありました。「右京大夫」というのは、尾崎雅嘉『百人一首一夕話』や佐佐木信綱『百人一首講義』から引き継いだもののようですが、現在は「左京大夫」であったと考えられているようです。根拠としては、源俊頼が企画した『堀河百首』が『祐子内親王家紀伊集』に「左京権大夫百首」と記載されていたという事実です。これは、石田吉貞『百人一首評解』が指摘していました。俊頼はこの左京権大夫の地位に二十年以上差し置かれたらしく、官位がいち...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(73) 大江匡房

73 権中納言匡房 高砂の尾の上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ 〔評釈〕あの高い山の尾に桜が美しく咲いてゐる。こちらの低いはしの山に霞が立つと、あの折角の桜が見えなくなるから、どうぞ霞が立たないで居てくれよ。 といふ意である。自然に向つてのべた美しい歌で少しの厭味もなく軽い調子で歌はれてゐる。この歌は後拾遺集春上に「内のおほいまうちきみの家に、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、遥に山の桜を望むといふことをよめる」と題して出てゐる。 内のおほいまうちきみといふのは内大臣の事で、即ち師通公をさす。後の二条関白とも云ふ。さけたうべは酒を賜はること。 〔句意〕▼高砂=山の事で普通小高い丘の意に用ふが、ここは丘でなくて高山をさしてゐる。▼尾の上=山の頂をさす。尾といふのは山の傾斜にそつて高く背の様になつた所をいふ。▼外山=たわ山の約で、こちらのたわんだ低い山の事をいふ。即ち山のふもとの小山。 〔作者伝〕 大江音人の裔で信濃守成衡の子である。寛治八年権中納言、永長二年太宰権帥を兼ね天永二年大蔵卿となつて同年七十一歳で薨じた。幼少から才智に勝れ、四歳の時書を学び初めた。八歳で史伝に通じ十一歳で詩歌をよくし神童と称へられた。歌も漢学に比しては劣るが佳作も多く一流の歌人であり、和琴なども巧みで、女官達を驚かしたといふ。しかし自分の才を恃んで、世を憤る風が見えてゐたのは惜しい。 〔補記〕 評釈の末尾、藤原師通について「後の二条関白」の部分は、昭和5年版では「後の三条関白」となっていました。「三条」を「二条」に改めました。寛治8年(1094)に関白に就任した師通は、親政を行おうとしていた堀河天皇に協力し、院政を志向していた白河院と対立するところがあったようです。そう言った中で、学問を大江匡房などから学び実務官僚と連携していったことが知られていますが、承徳3年(1099)数え38(満36歳)で急死、師通の政権は短期で終焉しました。 作者伝の「天永二年大蔵卿」の部分は、昭和5年版では「天永年大蔵卿」となっていて、「二」が抜けていましたので補いました。なお、作者伝も含めて、今回の大江匡房の歌に関する記述は、佐佐木信綱『百人一首講義』ならびに尾崎雅嘉『百人一首一夕話』に基づきそれらの抄出になっていて、やや不完全なところがあります。たとえば、作者伝末尾の「自分の才を恃んで、世を憤る風が見えて...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(72) 紀伊

72 祐子内親王家紀伊 音に聞く高師の浜のあだ浪はかけじや袖の濡れもこそすれ 〔評釈〕かねてから気の多いお方だといふ世間の噂を聞いてゐますから、何といはれても思ひをかけますまい。若し思ひをかけても、末にはきつとふりすてられて、悲しい恨み涙に袖を濡らすといふ憂目を見なければならないでせうから。 との意である。この歌は金葉集恋下に「堀川院の御時艶書合によめる」と題して出てゐるが、艶書合せは此頃宮中で行はれた遊戯の一種で、男の歌人が恋歌を作つて女官共に配ると、女官も亦之に返歌を作つて送るのである。此の歌もその一で、中納言俊忠に送つたものである。かけ詞や縁語が極めて上手に使はれて、そぞろに当時の優美な生活が思ひ遣られる。 〔句意〕▼音にきく=噂に聞いてゐるの意で、浪の縁語。▼高師の浜=和泉国にある名所。▼あだ浪=あだ人の意。あだ名といつて次に浪といつたのである。▼かけじや=思ひをかけまいの意。▼袖の濡れもこそすれ=袖を悲し涙に濡らすやうな事にならうの意。 〔作者伝〕 葛原親王八代の孫、三位平経方の女で、紀伊守重経の妹である。兄の受領によりて紀伊と呼んだ。後朱雀帝の第四皇女祐子内親王に仕へて内親王家紀伊とも言ひ中宮紀伊とも言つた。紀伊は二字で「き」とよむのであるといふ説があるがやはり「きい」とよむがよい。 〔補記〕 特に誤植のようなものは見当たりませんでした。 白秋の作者伝は、粉本の佐佐木信綱『百人一首講義』をほぼ引き写したものですが、それも尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』からの引き写しです。紀伊は祐子内親王の女房で、院政期初期の歌合に出詠したことが知られている以外は、生没年も家系も明確には分からない人物です。「音に聞く」の歌を詠んだときは70歳位と推定されています。紀伊の読み方に関する説は、『百人一首一夕話』に出て来るもので、元明天皇の勅諚によって、国名などを二文字で統一することになり、「津」「紀」「和」「泉」などがそれぞれ「摂津」「紀伊」「和泉」「大和」と改められ、その一方で「上毛野」「下毛野」が「上野」「下野」になったとあります。紀伊の読み方が「き」でなければならないとまでは、雅嘉は言っておりません。いろいろ問題のある作者伝ですが、そのままにいたしました。 〔蛇足〕 「かけじや」というところが、実はよく分かりません。白秋は「何と言われても思いをかけますまい」と訳出しておりま...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(71) 源経信

71 大納言経信 夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろ屋に秋風ぞふく 〔評釈〕夕暮になれば、秋の風が、門前の田に美しく茂つてゐる稲の葉にそよそよと訪れて、蘆で葺いた田舎家の中までその秋風がさわめいて行く。 といふ意で、如何にも秋の夕方、稲田を渡つて賤家へ吹く秋風の音が聞えるやうで、一幅の墨絵のやうな感じがする。全体を通して何処にも暗い厭味がなく、すがすがしい調子の歌で百人一首中の秀歌であらう。この歌は金葉集秋に「師賢朝臣の梅津の山里に人々まかりて、田家秋風といふことをよめる」と題して出てゐる。梅津の里は山城にある名所で、金葉集中に「梅津の梅は散りやしぬらん」などとある。 〔句意〕▼夕されば=夕暮になればの意。▼門田=門前の田の事。しかし門の前ばかりに限らず家の近くの田を云ふ事もある。ここは家の門の前の意である。▼蘆のまろ屋=田舎の家の事で蘆で葺いた棟の丸い家の事。ここは賤が家と思へばよい。 〔作者伝〕 権中納言道方の第六子で、永保三年権大納言に、寛治五年正三位大納言に進んだが、嘉保元年に何故か太宰権帥に貶され永徳元年八十二歳で太宰府に薨じた。資性敏捷で又博学多才、よく物事を断ずる明に富んでゐた。和歌も巧みで従来の歌風に一新味を与へた。管絃等も好み多芸の人で、宮中の歌合には必ず判者となつた。時の人は「天下判者」といつて称へた。桂の里に住んだので桂大納言ともいふ。その子基綱、俊頼も名高い歌人である。 〔補記〕 白秋の評釈の批評部分の「秋風の音が」の部分は、昭和5年版では「秋風の吾が」とありました。「吾」は、活字を拾う際に「音」という原稿の文字を「吾」と誤ったものが、校正段階でも見落とされた可能性が高いと思います。「音」と改めました。 次に評釈の末尾に近い所、『金葉集』秋の「夕されば」の歌の詞書が引用されていますが、その中の歌題「田家秋風」は、昭和5年版では「山家秋風」となっていましたので、他の注釈書や『金葉集』の伝本によって改めました。ついでに、詞書の引用の「と」が抜けていましたので、補ってあります。 また、評釈の最後に出て来る梅津にまつわる金葉集の歌は、連歌の下の句です。二奏本や三奏本の巻十・雑下に出て来る「連歌十一首」の中に見えるものです。その末尾の「しぬらん」は、昭和5年版には「しつらん」とありましたが、「つ」は誤りと見て「ぬ」に置き換えました。     ももぞの...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(70)  良暹法師

70 良暹法師 さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕ぐれ 〔評釈〕あまりもの淋しいので、家を出て、あちこちと眺めて見たが、やつぱり何所も同じやうに蕭条とした秋景色である。なんといふ寂しさの満ちた夕暮であることよ。 といふ意で、絶え難い寂寞の感じが充分あらはれてゐる。殊に「いづくも同じ」といつた処に限りない感じを与へる。秋の淋しさは多く歌に詠まれてゐるが、この歌も決して他の作に劣らぬものである。後拾遺集秋上に「題しらず」と題して出てゐる。 〔句意〕▼さびしさに=秋の夕方淋しくて堪へ難いのでの意。▼宿を立ち出でて=家を出でての意。▼ながむれば=方々を見廻すこと。 〔作者伝〕 父祖は分明でない。祇園の別当で、母は実方の家の女房白菊であるといふ説もある。山城の国大原の里に籠つてゐた頃、熱心に歌を作つたもので、「山里のかひもあるかなほととぎすことしもまたで初音ききつる」と障子に書き附けた事もある。その歌才の程も察せられよう。袋草紙に俊頼朝臣が大原通行中良暹の家の前では下馬して敬意を表して通つたといつてある。当時歌人中に重んぜられる事がわかる。 〔補記〕 和歌の前の作者名「良暹法師」、ならびに作者伝の後半に出て来る「良暹」、その両方とも「暹」の字が誤植をおかしていて「遷」となっていたので、訂正いたしました。「良暹法師」の「暹」の字は、学研の『漢和大辞典』によれば、日部12画に出て来る漢字で「太陽がのぼる。また、そののぼる太陽。日の出」の意味なのだそうです。また、読み方も呉音・漢音ともに「セン」となっておりました。近代の注釈書などでは、この作者名を「りょうぜん」と濁って呼んでいますが、はたして正しいのか、かなり疑問があります。白秋はこれを「良遷法師」「良遷」と誤っていましたが、読みは「りやうせん」と振り仮名で示してありました。なお、学研の『漢和大辞典』では、「しんにょう」の部の12画を見ると「暹」が出てくるんですが、それを日部に誘導してありましたので、「しんにょう」の漢字ではないようです。 ちなみに、「暹羅」(センラ)というのは、「シャム」の音訳だそうで、現在のタイ国を指すそうです。 〔蛇足〕 白秋の句意を見ると、「ながむれば」は「方々を見廻すこと」と説明してありまして、訳出では「あちこちと眺めて見たが」というふうに、この「ながむれ」を現代語の「眺める」と同義とし...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(69) 能因法師

69 能因法師 あらし吹く三室の山のもみぢ葉ばは龍田の川の錦なりけり 〔評釈〕嵐に吹き散らされた三室の山の紅葉が、はらはらと川水に舞ひこめば、そのままが錦の美々しさで、龍田の川を流れてゆく。 の意である。この歌は後拾遺集秋下に「永承四年内裏の歌合にて」と題して出てゐるが人麿の「龍田川もみぢ葉ながる神なびの三室の山に時雨ふるらし」とあるのを本歌として詠んだのだらうと言はれてゐる。 〔句意〕▼三室山=大和国高市郡にある山。▼龍田川=これも大和国にある名所であるが三室山とは大分隔つてゐる。 宇比麻奈備に「龍田川は龍田の麓に流れ平群郡で高市郡より遥に西北に当りて、川の流さへ異なれば、三室山のもみぢこれに流るべきにあらず、古へも地理によく考へられざりけるにやおぼつかなし」とある。多分内裏の歌合であるから地理の事よりも歌の調子ばかり考へて晴れの舞台を飾つたものであらう。 〔作者伝〕 俗名橘永愷と言つて、橘左大臣諸兄の十代の孫遠江守忠望の子であつたが、伯父肥後守元愷の養子となつた。文学を好み、初め文章生となつた。歌人藤原長能について歌を学びその成績も大いに進んだ。或時「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と詠んだが、都に居て詠んだ事にしては面白くないとして、都で炎天に顔をさらし、色黒くして旅から帰つたといつてこの歌を発表したといふ逸話もある。歌枕、八千島記、玄々集等の著もある。 〔補記〕 評釈の末尾にあります人麿の歌の三句目「神なびの」は、昭和5年版では「神まなびの」とありましたので「ま」が衍字と見て削りました。 句意の最初に出て来る「三室山」の説明に、「大和国高市郡にある山」とありますが、現在は「奈良県生駒郡斑鳩町にある山」と説明されています。「龍田川」も同じ町内を流れる川です。その結果、「三室山」と「龍田川」は同地域であり、『宇比麻奈備』の疑問は臆説として退けてよいと思います。この句意の説明は白秋の粉本である佐佐木信綱『百人一首講義』ならびに、さらにその粉本である尾崎雅嘉『百人一首一夕話』に沿ったものですから、修正せずに掲載しました。なお、平群郡は、明治13年(1880)に発足し、明治30年(1897)に生駒郡となって廃止されました。高市郡は奈良盆地南東部にあった郡で、今の橿原市周辺と考えてよいと思います。奈良盆地北西部の平群郡や生駒郡とは遠くへだったっておりますが、...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(68) 三条院

68 三条院 心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな 〔評釈〕かやうに不幸がつづき、その上病気の為に不自由で心も晴れぬ、長くはこの世に生き長らへられぬであらうが、若し生き長らへたら、定めし只今禁中で見る今夜のこの月の美しさを思ひ出して恋しく思ふことがあるであらう。 の御意で、再び御覧になる事のあるまいと、雲井の月を思ひ置かれ給うた院の御心中を忍び奉れば涙なくては居られませぬ。歌の調子もよくこの御心持にふさはしく御詠みになり給うたと拝誦し奉る。この歌は後拾遺集雑に「例ならずおはしまして、位など去らむと思し召す頃、月あかかりけるを御覧じて」と題して出てゐる。 〔句意〕▼心にもあらで=我が心に思つた事と違うての意で、早くこの世をお去りになるとお考へになつて見えたのが、違うての意。▼うき世=憂き世、この世の意。▼恋しかるべき=恋しくあるだらうの意。「べき」は予想の意を持つてゐる。▼夜半の月=今夜の此の月をさして仰せ給うたのである。 〔作者伝〕 御諱は居貞、冷泉天皇の第二皇子で一条天皇に次で御即位し給うた。御年三十六歳。在位僅五年で長和五年退位なされた。在位中皇居の炎上が二度もあり、御悩もいよいよ重らせ、その上御眼病も種種御治療遊ばされた甲斐もなく、誠に申すも恐れ多い御不運の御事であらせられた。寛仁元年出家し給ひ、同年五月四十二歳で崩御遊ばされた。 〔補記〕 句意の二番目に「うき世=憂き世、この世の意」とありますが、昭和5年版では「うき世=憂き世、」とあって読点で終わっておりましたので、評釈を参考に、脱落したと思われる訳を補いました。 作者伝の所には、問題が二つありました。 まず、「皇居の炎上」とある部分は、昭和5年版では「皇居の災上」とありましたので、「災」は「炎」の誤植と見て訂正しました。 次に、出家・崩御の年号となっている「寛仁元年」ですが、昭和5年版ではここが「寛和元年」と誤っていたので訂正いたしました。寛仁元年は1017年に当たります。 三条天皇が退位したのは長和5年(1016)正月で、翌年長和6年の四月に改元して寛仁元年となった時に出家しまして、五月に崩御しています。なお、寛和という年号は、985年から987年にかけての時期で、寛和二年に花山天皇が退位し一条天皇が即位しています。 なお、白秋の作者伝には即位の年が書かれていませんが、一条天皇が退位し...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(67) 周防内侍

67 周防内侍 春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たん名こそ惜しけれ 〔評釈〕枕になさいと言つては下さいますが、この短い春の夜の、しかもはかない夢ほどのたはぶれ事に、あなたのお肱を手枕にして、立ち甲斐のない浮名の立てられる事は口惜しいことに思ひます。 との意で、内侍が「枕があればよいなあ」といつたのに忠家が「これを枕になさい」と自分の肱を簾の下から差出したので詠んだ歌である。この返歌として忠家は、「契りありて春の夜深き手枕をいかがかひなき夢になすべき」と詠んだのは面白い。当時宮廷生活の自由で優美であつた様が思はれよう。千載集の雑上に出てゐる。忠家は大納言で俊成卿の祖父である。 〔句意〕▼春の夜の夢ばかりなる=短い春の夜の夢ほどなといふ意で少しの時間の事。▼かひなく立たん=俗に甲斐がないといふ意。甲斐のない事を、肱即ちかひなと通せて言つたのである。 〔作者伝〕 周防守平継仲の女で後冷泉院の女官となつて内侍の役をつとめたので周防内侍といつた。後拾遺集に、後冷泉院の崩御をいたく悲しまれ「さみだれにあらぬ今日さへ晴れせぬは空も悲しき事や知るらん」と詠んで歎いたと出てゐる。歌にかけては逸話も多く又書にも見えてゐる。彼の家は冷泉堀川の北西の隅にあつたが久しく残つてゐた事が山家集や今昔物語に見えてゐる。 〔補記〕 人物関係について、致命的な誤りと思われるものが二箇所ありまして、非常に不審です。 評釈の末尾、忠家についての記述で「俊成卿の祖父である」の部分は、昭和5年版では「俊成卿の父である」とありました。藤原俊成の父は、俊忠です。その俊忠の父が忠家なので、忠家は俊成の祖父というのが正しいことになります。なお、この忠家は藤原道長の孫に当たります。系譜としては、道長――長家――忠家――俊忠――俊成――定家――為家となります。この系統の長家以降を「御子左家」と呼びますが、歌道家として重きをなした一族です。 作者伝の中の「後冷泉院の崩御を」の部分は、昭和5年版では「三条院の崩御を」となっていましたが、後拾遺集の巻十・哀傷562番に出て来る周防内侍の歌の詞書を検討すると、これは「三条院」ではなく「後冷泉院」のことと考えられますので、訂正いたしました。詞書には「後三条院位に即かせ給ひての頃、五月雨ひまなく曇りくらし六月一日またかきくらし雨の降り侍りければ、先帝の御事など思ひ出づる事ぞ侍りけ...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(66) 大僧正行尊

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66 前大僧正行尊 もろ共にあはれと思へ山桜花より外に知る人もなし 〔評釈〕この奥山で思ひもかけず花の咲いてゐるのを見ると、ほんとに友達にでも逢つた様に思へる。わしがおまへを懐しく思ふ様に、お前も亦私を懐しく思つてくれ山桜よ。この山奥に来ては花より外にお互の心もちを知るものは誰一人としてないのである。 といふ意で、青葉の中に見た遅桜を知己に出会つた心地で詠んだ歌である。 花に向つて孤独を同情し、更に自分も孤独の寂寞から花に同情を要求した様、一人旅するものの姿が目に浮ぶ。修業のため山に入る僧の心にもかうした自然人の感情がやはり涌くものと見える。この歌は金葉集雑上に「大峯にて思ひかけず桜の咲きたりけるを見てよめる」と題して出てゐる。大峯へ登山するには春を順の峯入り、秋を逆の峯入りといつた。ここは順の峯入りである。 〔句意〕▼もろともに=相互ひにといふ事。▼あはれ=ああなつかしいの意。哀れの意ではない。▼山桜=もう青葉の頃唯一本遅桜の咲いてゐるのに向つて言ひかけたのである。 〔作者伝〕 小一条院の孫で、参議源基平の子である。十二歳で出家し、後保安四年に延暦寺の座主となり、天治二年大僧正に任ぜられた名僧である。又法力を有し、嘗て後朱雀帝の后の痼疾を法によつて治し、時の帝の腰疾を治め、越後で一女子を蘇生させた等といふ神妙なところがあつたといふ。歌にも書にも秀で彼の書いた仮名手本は後まで残つて賞せられた。保延元年入寂したが、新古今集以下千載集、詞花、金葉等に歌が出てゐる。 〔補記〕 作者伝の冒頭に「小一条院の孫」とありますが、昭和5年版では「少一条院の孫」となっていましたので、単純な誤植と見て「少」を「小」に改めました。 なお、小一条院は、三条天皇の第一皇子敦明親王のことですが、母は皇后・藤原娍子(大納言・藤原済時の女)。尊号は小一条院で、これは「こいちじょういん」と読むのがよさそうです。自ら皇太子の身位を辞退し、その見返りに道長の女寛子を后妃の一人とし、准太上天皇としての待遇を得ました。『源氏物語』の主人公でありました光源氏も、晩年に准太上天皇として待遇されて事になっています。これは、天皇に即位しないで、上皇の待遇を受けることです。 〔蛇足〕 白秋は、和歌の五句目の「知る人」を、「友達」「お互いの心持ちを知るもの」そして「知己」といろいろなことばで表現しておりまして、修行のた...

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(65) 相模

65 相模 恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなん名こそ惜しけれ 〔評釈〕私はつれない人を恨みあぐんで、悲しい涙に袖は乾くひまもない。私の袖はそのために朽ち果てようとする、その上世間から、この恋のために浮名を立てられ、私の名の朽ちてしまうのはまことに口惜しいことである。 との意で、思ふ恋さへかなはず泣き悲しんでゐる上に浮名を立てられて徒らに人に騒がれるのを悲しんだのである、叶ふ恋なら得意であらうに空評判はつらいものと見える。この歌は後拾遺集恋四に「永承六年内裏の歌合に」と題して出てゐる。歌合に左近少将源経俊と競つて勝つた歌で、負歌は「下もゆるなげきをだにも知らせばやたく火のかげのしるしばかりに」といふのであつた。 〔句意〕▼恨みわび=つれなき人をうらみつくして、恨みあぐむ事。▼ほさぬ袖=常に袖が涙に濡れてゐること。▼あるものを=涙のためにわが袖が朽ちるのであるに、の意。▼恋に朽ちなん名こそ惜しけれ=叶はぬ恋に浮名を流し名の朽ちることは口惜しい。 〔作者伝〕 源頼光の子で本名を乙侍従といつた。後冷泉院の頃一品宮に仕へたが後、相模守大江公資の妻となつたので相模といつた。夫と共に和歌が上手でその上夫婦間が睦まじかつた話は有名である。八雲御抄に「赤染衛門、紫式部、相模上古に恥ぢぬ歌人也」と出てゐる。 〔補記〕 評釈の訳出の末尾あたり「朽ちてしまう」は、昭和5年版では「朽ちてしまふ」とありましたので、「ふ」を「う」と改めました。 句意の三つ目「あるものを」は、昭和5年版では「恋に朽ちなん」とあって、解説と不整合なので、三句目の解説と見て差し替えました。また、その解説の末尾に「の意」を補いました。 句意の四句目「恋に朽ちなん名こそ惜しけれ」という下の句は、昭和5年版では五句目の「名こそ惜しけれ」だけでしたが、解説を見る限り下の句の訳ですから、下の句に差し替えました。 作者伝の「後冷泉院」は、昭和5年版では「冷泉院」となっていましたので、「後」の脱字と見て補いました。なお、一品宮は一条天皇と藤原定子の間に出生した脩子内親王(しゅうしないしんのう)のことです。 作者伝末尾の「八雲御抄」は、昭和5年版では「八重御抄」となっていました。「雲」を「重」と誤っていたようです。順徳院の著書である『八雲御抄』の言葉をもう少し長く引用すると、「女歌には赤染衛門、紫式部、相模上古に恥ぢぬ歌人也...