北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(71) 源経信
71 大納言経信
夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろ屋に秋風ぞふく
〔評釈〕夕暮になれば、秋の風が、門前の田に美しく茂つてゐる稲の葉にそよそよと訪れて、蘆で葺いた田舎家の中までその秋風がさわめいて行く。
といふ意で、如何にも秋の夕方、稲田を渡つて賤家へ吹く秋風の音が聞えるやうで、一幅の墨絵のやうな感じがする。全体を通して何処にも暗い厭味がなく、すがすがしい調子の歌で百人一首中の秀歌であらう。この歌は金葉集秋に「師賢朝臣の梅津の山里に人々まかりて、田家秋風といふことをよめる」と題して出てゐる。梅津の里は山城にある名所で、金葉集中に「梅津の梅は散りやしぬらん」などとある。
〔句意〕▼夕されば=夕暮になればの意。▼門田=門前の田の事。しかし門の前ばかりに限らず家の近くの田を云ふ事もある。ここは家の門の前の意である。▼蘆のまろ屋=田舎の家の事で蘆で葺いた棟の丸い家の事。ここは賤が家と思へばよい。
〔作者伝〕
権中納言道方の第六子で、永保三年権大納言に、寛治五年正三位大納言に進んだが、嘉保元年に何故か太宰権帥に貶され永徳元年八十二歳で太宰府に薨じた。資性敏捷で又博学多才、よく物事を断ずる明に富んでゐた。和歌も巧みで従来の歌風に一新味を与へた。管絃等も好み多芸の人で、宮中の歌合には必ず判者となつた。時の人は「天下判者」といつて称へた。桂の里に住んだので桂大納言ともいふ。その子基綱、俊頼も名高い歌人である。
〔補記〕
白秋の評釈の批評部分の「秋風の音が」の部分は、昭和5年版では「秋風の吾が」とありました。「吾」は、活字を拾う際に「音」という原稿の文字を「吾」と誤ったものが、校正段階でも見落とされた可能性が高いと思います。「音」と改めました。
次に評釈の末尾に近い所、『金葉集』秋の「夕されば」の歌の詞書が引用されていますが、その中の歌題「田家秋風」は、昭和5年版では「山家秋風」となっていましたので、他の注釈書や『金葉集』の伝本によって改めました。ついでに、詞書の引用の「と」が抜けていましたので、補ってあります。
また、評釈の最後に出て来る梅津にまつわる金葉集の歌は、連歌の下の句です。二奏本や三奏本の巻十・雑下に出て来る「連歌十一首」の中に見えるものです。その末尾の「しぬらん」は、昭和5年版には「しつらん」とありましたが、「つ」は誤りと見て「ぬ」に置き換えました。
ももぞののはなを見て 頼慶法師
ももぞののもものはなこそ咲きにけれ
公資朝臣
むめづのむめは散りやしぬらん
さらに、作者伝の末尾、「その子基綱、俊頼も」の部分、昭和5年版では「その子基綱、俊綱も」と、俊頼を「俊綱」と誤っていましたので、訂正しました。非常に不審な誤りです。
誤字・脱字以外の訂正箇所を考えて見ますと、単純な誤植とは考えられませんので、原稿作成段階で、わざと誤りを紛れ込ませているような悪意が感じられます。白秋が気の毒です。
〔蛇足〕
白秋の評釈を見ると、「如何にも秋の夕方、稲田を渡つて賤家へ吹く秋風の音が聞えるやうで、一幅の墨絵のやうな感じがする。全体を通して何処にも暗い厭味がなく、すがすがしい調子の歌で百人一首中の秀歌であらう」と言っています。彼がこの経信の歌が大好きだったことが分かりまして、ちょっと意外な気がしたのでありますが、少しだけ調べて見ても、白秋の遺した詩集の中に、彼が言う「一幅の墨絵」のような詩が見付かりますので、影響関係はともかく、この詩人の感性になにか響くものがこの歌にあったのは間違いないようです。
古注釈などでは、「夕されば」の意味であるとか、「まろ屋」がどんなものを実際指すのかなど、多少揉めるところがあったようですが、白秋は「夕されば」を「夕暮になれば」、「まろ屋」を「田舎の家の事で蘆で葺いた棟の丸い家の事。ここは賤が家と思へばよい」と句意で説明しておりまして、この理解は近年の標準的なもののはずで、白秋の解釈にも特に問題はないのでありましょう。一応そう結論付けまして、そういうものを認めた上で、ちょっと違うのではないかと提案して見たくなります。というよりは、相当違っている、あるいは何にも分かっていないのではないかと、百人一首を愛する現代人の皆様に問い質したくなります。
〔蛇足の蛇足〕
『金葉集』巻第三・秋 183(163)番
師賢の大納言の山里に人々まかりて、田家秋風と
いへることをよめる 大納言経信
夕されば 門田の稲葉 おとづれて 葦のまろ屋に 秋風ぞふく
『百人一首』の一つ前の「さびしさに」の歌について、恋の歌の可能性というのを提示いたしました。まあ、仮にその70番の良暹法師の歌について、恋の歌の可能性を否定する人がいるとして、不思議でも何でもありません。普通に受け止めたら、あれはどう見ても季節の歌であります。ただ、そういう鈍い方が、次のこの「夕されば」の歌を見てみたら、顔面蒼白、『アバター』の主人公並みに青くなるのは間違いありませんね。少し言葉が荒くなっておりますが、育ちが悪いと思ってお許しください。
秋の夕暮れという状況はまったく一緒でありまして、三句目に「おとづれて」とありますから、当時の結婚の形態である、通い婚ということを意識するには充分なのであります。「稲葉」というところに「往なば」を掛け、「秋風」のところに「飽き」を掛ければ、道具立ては70番の歌も71番の歌も、まったく同じだと言えるでしょう。良暹法師も大納言経信も、実はそういうことを意識しながら、プロとして歌を作っていたはずなのであります。仮に意識していなかったとしても、時代の方向はそっちを向いていたと穏やかに考えてもいいかもしれません。
大納言経信は、源氏でありまして、だから源経信なんですが、平安時代後期、いわゆる院政期に登場する歌道家の祖と言っていいのでしょう。歌壇の大御所ですが、それなのに不思議なことに勅撰集の撰者になれませんでした。『後拾遺集』というのは、白河院が下命したものですが、その側近の藤原通俊という、歌に関してはいまいちの人物が編纂しましたので、この源経信さんはたいそうお怒りになり、批判の書をしたためたのであります。それは、『難後拾遺』というような、ある意味まがまがしいタイトルの本であります。『後拾遺集』に入った歌で、駄目な歌を痛烈に批判した本であります。その執念は、ご子息の源俊頼が次の『金葉集』の撰者になることに結びつきましたので、ある意味無駄ではなかったと言えるでしょう。親子二代の歌人ということであります。孫が俊恵法師でありまして、それが鴨長明のお師匠さんに当たります。
ともかく、この「夕されば」の歌は、もはや新しい息吹が感じられる歌なわけでありまして、それはどの辺にあるかというと、季節の歌であるにもかかわらず、そこに人事というか恋愛が潜められているわけです。「夕方になると女を訪問してその住まいに男がやってくる」ということが、微妙な約束事によって隠し味になっているんですね。インドカレーを食べたら、ものすごくおいしいんだけれども、そこにはお醤油であるとか梅干しだとか、鰹のダシが効いているというようなことでしょうか。チョコレートでもいいと思います。ですから、めちゃめちゃうまいということですね。表面的には秋の歌で、平安貴族の田園趣味だとか、山里趣味といったものが背景にあるのは間違いなのでしょうが、隠し味が秋の夕暮れの男の訪問という人事でありまして、恋の影のないところでは、この歌は薄っぺらい風景画でしかないのであります。つまり、恋が隠し味ですから、これはうまみがたっぷり。ふむ。
でもって、諸注釈を見て見ると、当然白秋もそうですが、この歌をまるっきりの叙景歌として受け止めていて、すがすがしいとか清新だとか、そんなふうな歌と称賛するんであります。ふむ、ふむ。「往なば」「おとづれ」「飽き」というような言葉の響きについて、何一つ気付かないというようなことが生じております。不思議の極みですね。「技巧を全く用いず、すっきりと詠みあげたところに、経信の新しさがある」と言い切っている注釈書もありまして、本当にその通りだと同感する一方で、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叱りたくなったりする今日この頃なのであります。
うらやまし 門田の稲葉 見るまろや 飽きずに通ふ まめ男かな(粗忽)
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