北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(75) 藤原基俊
75 藤原基俊
契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も去ぬめり
〔評釈〕お約束になつたお言葉を命にかけてあてにして待つてゐたのに、ああ、今年の秋もそのかひなくむなしく過ぎてゆくのでせう。
俊基の愛子光覚が維摩会の講師になりたいと願つた時、「自分が生きて居る限りは当にして待つて居よ」といふお言葉であつたので、安心して待つてゐたのに、あはれ今年も亦撰に洩れて講師にもなれず、もう秋も暮れようとしてゐるといふのであつて詠んでゐると、子を愛する親の情が思ひやられ、哀れが感じられる。この歌は千載集雑上に「僧都光覚、維摩会の講師の請を度々洩れたれば、前太政大臣に恨み申しけるを、しめぢが原と侍りけれど、又その年も洩れにければつかはしける」と題して出てゐる。前太政大臣は忠通の事、しめぢが原は、ある歌の中の詞で大丈夫の想にたとへて用ひた。維摩会は維摩経を講ずる会で興福寺で毎年十月十日から一週間行ふ。
〔句意〕▼契りおきし=約束して置いたの意で、「おきし」は露にかかる縁語。▼させもが露の命=はかなき事をあてにするの意。「させも」はさしも草の略。忠通が「唯頼めさせも草」といつたのをそのまま取つたのである。
〔作者伝〕
堀川右大臣頼宗の孫で正二位右大臣俊家の子である。初め従五位左衛門佐であつたが、崇徳帝の保延四年に八十四歳で出家して覚舜といつた。歌文に長じ、古歌を唱へて新体の俊頼に対立した当代の名高い歌人である。しかし性資がやや傲慢で人を非難批評を好んで世の評判はよくなかつた。その為か官位も進まなかつた。著書には新歌仙、相撲立、新撰朗詠集などがある。
〔補記〕
白秋の評釈の末尾、「しめぢが原は、ある歌の中の詞」とありますが、これは『新古今集』巻二十・釈教 1916番の清水観音が詠んだという「なほたのめしめじが原のさせも草我が世の中にあらむ限りは」の二句目を指すようです。同集の1917番歌の左注に「此の歌は清水観音の御歌となんいひつたへたる」とあります。「衆生よ、私清水観音がこの世にいる限りは、今後も救済を期待せよ」というような、頼もしい内容の歌です。
作者伝の末尾、基俊の著書を並べたところに「相撲立」とありますが、昭和5年版ではここが「相模」となっていましたので、白秋が粉本とした佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』を参照して改めました。『相撲立』は、『相撲立詩歌合』のことで、長承2年(1133)に関白の藤原忠通の命で藤原基俊が撰した歌合。同一の題で右に和歌と左に漢詩を配して、その優劣を競ったものです。 なお、『百人一首講義』は、著書を列挙した部分に、五文字程度の欠損が見られます。欠損を、ほぼ同文と思われる『百人一首一夕話』で補うと次のようになります。
基俊著述の書は、悦目抄、新歌仙、新撰(朗詠集、相)撲立等なり。
〔蛇足〕
白秋の評釈にあるように、千載集の詞書を手掛かりにすると、歌の内容はだいたい分かるというようなものなのであります。しかしながら、気になるのは、歌の贈り手の基俊と、歌の貰い手の忠通の間では光覚の話題がありますから、白秋の訳のような理解になるのは当然ですが、無関係の第三者が見た時にこの歌はどのように成立するのでしょうか。実は、諸注釈もその点にはまったく触れずに済ませているように見えるんですが、それでいいのでしょうか。やはり、百人一首を愛する方々に問いたいのですが、親バカの歌として解釈するのを一旦差し止めたら、この歌はどういう内容の歌なのでありましょうか?
結びおきし させもが露を 命にて あなきりぎりす 秋も去ぬめり
基俊の歌の、人事を連想させるところを、連想させないものに置き換えて、きりぎりすの歌にしてみました。キリギリスは、今の「コオロギ」らしくて、『百人一首』では91番の良経の歌に出て来たりしますけれども、夜鳴く虫の代表で哀愁をかもす昆虫のはずです。「契りおき」を「結びおき」に差し替え、「あはれ今年の」というところを「あなきりぎりす」と入れ替えましたが、いかがでございましょうか。秋になって「させもぐさ=さしもぐさ=よもぎ」に露が付きますが、それらを昆虫が命の水として生き長らえますけれども、さすがにその秋も去って行けば、やがて冬となって絶命するわけです。これに対して、人事を連想させる言葉を復元させまして、基俊の個人的な事情などを一旦無視したなら、これは恋の歌として成立するのではないでしょうか。
契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋も去ぬめり
たとえば、国守階級などが任地に赴きまして、妻や愛人を都に残しているような場合、四年くらいは帰ってこないはずですから、指折り数えてあと何年で戻るというような場合、その妻や愛人が浮気をするでもなく、相手を待ち続けているという状況なら、この歌は成立するのではないでしょうか。二人の間に身分違いというようなことがあれば、「させもぐさ=さしもぐさ=よもぎ」という雑草は意味をなすような気がいたします。「私のような賎・山がつの類に目を掛けていただいたことを命の支えとして、あなたのお帰りをお待ちしておりますが、ああ逢えぬまま今年の秋も去ることでしょう」などと解釈してよろしいでしょうか。これが成立するなら、千載集の詞書や、太政大臣忠通の言葉の背景にある清水観音の言葉なしでも、十分通用する歌でありますから、注釈書の中には理解しにくい歌だとか難解な歌だとか、この歌を否定するんですが、さて、それほどひどい歌だったのでしょうか。それにしても、詞書や清水観音の歌抜きでこの歌を読解するという手間を省いていたのは、歌にちゃんと向き合っていたのか疑問であります。「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と5歳くらいの女の子に叱ってもらっていいでしょうか。
〔蛇足の蛇足〕
『千載集』巻第十六・雑上 1023番
僧都光覚、維摩会の講師の請を申しけるを、たびたび漏れにければ、
法性寺入道前太政大臣に恨み申しけるを、しめじが原と侍りけれど、
またその年も漏れにければ遣はしける 藤原基俊
契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり
基俊の歌は、二句目が難解でありまして、にわかに分からないところがあります。そのキーワード「させも」は詞書にあるように、関白の言葉の引用です。関白の言葉には由来がありまして、どうやら清水寺の御本尊の歌が元だったらしく、おおもとの歌が知られております。歌学書の『袋草子』から採用されて『新古今集』に入集したようでありまして、『新古今集』の巻20・釈教というところに1916番として入集しています。それを踏まえないと二句目が不明です。僧侶を務めている我が子が、大きな行事の講師になれるようにと、関白にお願いをして「しめじの原の」という回答を得て安心しきっていたら、選に漏れたという親ばかな状況で、文句を和歌にして関白に贈った歌というのであります。やれやれ、とんだ歌であります。つまり、「あんたの色よい返事を頼みの綱にしていたら、あれあれ今年も選から漏れてしまいましたよ、どうしてくれるの?」という内容のようです。『基俊集』にも見えませんから、ひょっとして内緒の歌だったのでしょう。それを、『千載集』の巻十六・雑上・1023番に撰者の藤原俊成が入れたんですね。基俊さんというのは、俊成さんのお師匠さんであります。つまり、お弟子さんが、よかれと思って内緒の歌を公開したのでありましょう。
なほたのめ しめじが原の させも草 我が世の中に あらむ限りは
(『新古今集』巻二十・釈教 1916番 清水観音)
「しめじの原の」って言われたって、今ではなんのことか分からないんですが、下野の国の歌枕だそうでありまして、現在の栃木市から都賀町あたりにかけての「標茅原」というもので、湿地帯だったらしく、今は白地沼という小さな沼が昔を偲ぶよすがらしいのです。それを京都東山の音羽山清水寺のご本尊である清水の観音様が詠んだ歌がありまして、その歌を引いて関白が返事をしたのが大本なんであります。「しめじが原のさせも草」というのは、もちろん草餅なんかにする蓬のことなんですが、雑草でありまして、我々衆生を指す言葉なのだそうです。和歌の世界での通説ではモグサでありますから、胸を焦がして祈願に来る参拝客を、比喩したというのですが、「ああそうですか、わかりました」なんてとても言えませんが、「それは違うだろう」と強く否定する根拠もありません。でも、前に実方の歌(『百人一首』51番)で確認しましたが、『枕草子』や『古今和歌六帖』を参照する限り、治療用のモグサではなくて生えている植物のようです。ともかく、「おいらがこの世にいる限り、任せておきなよ、衆生よ」という歌を、当時は連想したと言うことでしょう。関白様から「しめじが原」って言われたんで、「任せておけ、しもじも」って言われたと合点して、あてにしていたんですが、結局ほったらかしになっちゃったんですね。関白からしたら、そんな依頼はいくらでもあって、そういう時は「しめじが原」と唱えるのが効くよと、どこかで会得したのでしょう。権力者には、権力者の間で権力を維持するための細かな技が代々伝えられていたことでしょう。
私にもあります。「泰然自若としていて下さい」と言われて、それならと任せていたら、ほったらかしにされっちゃったことがあるんですね。いや、まてよ、ちゃんといろいろ世話を焼いてもらった気もいたします。もとは、超有名企業の人事部の人だったらしいのでありまして、リストラを敢行して、最後に辞表を叩きつけて転職したんじゃなかったかしら。……あの方、その後さらに転職した先で急死なさったらしいです。冥福を祈ります。「泰然自若」って、たぶんあの方の仕事の際の決め台詞だったんでしょうね。こちらをくすぐっておいて、ほったらかす時に便利だった可能性は高いのです。
『私の百人一首』(新潮選書)の末尾で、白州正子さんが「なまじ面倒な詞書がなければ、失恋の歌として味わえたろうに、残念なことである」と指摘したので、我が意を得ました。この歌は、恋の終わりの歌としても通じるからこそ選抜されているわけで、それが実は相手のセリフというか引き歌が引用されていて、人事に配慮をしてくれなかった相手に対する愁訴になっている点が面白いのでありましょう。要注意なのは、二箇所の動詞でありまして、これを読み解くことが、どうやら必要のようです。上の句の主要部分は、「契りし露を命にて」と言うことでありますから、恋愛なら「交わした情を命として」という、一夜の契りに命をかけている人物の覚悟が示されております。ここに、例の「露を置く」が絡みまして、蓬の葉末に置く夜露または朝露という光景がオーバーラップするのでありますね。
〔蛇足〕のところで、キリギリスを無理やりねじ込んで分かりやすくしてしまいましたが、この歌には実は昆虫は出てこないわけで、だとすると、問題は、「蓬(よもぎ・させも・さしもぐさ)」と契りを交わしたのは誰か、誰が蓬に情けの露を掛けたのかということになるでしょう。たぶん歌の内部で考えると、これが「秋」なのでありまして、実は「蓬」が女であり、「秋」が男の比喩になる擬人法なのであります。よって、五句目が「秋も行くめり」ではない理由が少し分かります。「行く」なら戻って来るんですが、「いぬ」だともう行方知れずになるわけです。よって、男が女に「飽きて音信不通になる」というニュアンスになるでしょう。
諸注釈は、「秋も行くめり」のつもりで解釈していて、ちっとも「いぬ」に注目しないのでは?
「いぬ」というのはナ変動詞というものでありますが、漢字を使って「去ぬ」とか「往ぬ」などと表記いたしますが、行ったきり戻ってこないことを表します。片道切符の動詞なんですね。「行く」が「来(く)」とペアなのに対して、対になる動詞が思い当たりません。あえて言うなら「帰る」とか「戻る」ということであります。現代語には生き残れませんでした。「いにしえ(いにしへ)」という言葉の中に、なごりがある程度でしょうか。ともかく、蓬に露をもたらした訪問者の秋が、待つ女にたとえられる蓬に「飽き」て戻ってこない、という擬人法が全体を支えているのであります。この擬人法の指摘が、諸注釈には欠けていまして、「いぬ」を「行く」のようにしか訳していないのです。冬がやってくると、蓬は霜枯れするわけでありまして、秋のくれた情けの露がとても恋しいのであります。そうすると、歌の中で浮くのが「今年も」というフレーズでありまして、この言葉が叙景歌ではないことの証拠だと思います。でも、限りなく叙景歌に見える材料を恋の風情に仕立てたわけで、それが息子の人事に対するいちゃもんですから、複雑というよりもはや怪奇な歌であります。
基俊の歌って、「なまじ期待を持たせてくれたけど、今年も駄目じゃん」という、権力者への痛烈な皮肉ということで、いいんでしょうね?
〔蛇足の蛇足の蛇足〕
いろんな注釈書を参照していたら、それぞれ基俊の歌に関していろんな資料を出しているので、面白く詠みました。例えば、『百人一首一夕話』などは、説話集や歌学書を探索して基俊が人を批判ばかりするので、みんなで意地悪をして鼻を明かした話なんかをいくつも挙げておりました。また、別の物は、基俊が息子の光覚を溺愛していて、お寺に出して心配して詠んだ歌なんかを紹介していました。さらには、維摩会というのは興福寺の催しで、これに選ばれると自動的に宮中の仏事に招かれて名誉だなんてことを教えてくれまして、その興福寺の維摩会の主催者は藤原氏の氏の長者だと言いますので、まさしく法性寺入道すなわち藤原忠通さんが牛耳っていたことが分かります。
歌道家の人々というのは、結構親子の情が篤くて、定家さんも宮中で喧嘩をして出勤停止になっていたのを、俊成父さんの嘆願の和歌で救われたなんてことがありますので、この基俊の歌が『百人一首』に入ってくるのは割と当たり前なのかもしれません。そして、基俊の歌がどういう歌を元にしているのかを探ると、それなりに面白いのであります。
しもつけや しめつのはらの さしもぐさ おのがおもひに 身をややくらん
(『古今和歌六帖』3589番)
例の『百人一首』第51番実方の「かくとだに」の歌の「さしも草」に関連して出て来た歌でありまして、伊吹じゃなくて下野のほうの歌ですが、この歌が仏教的には、煩悩に苦しむ衆生の歌ということになりまして、「さしも草」は衆生の比喩ってことですね。「しめつのはら」は「しめじがはら」のことでいいようです。この歌、どう見ても野焼きの歌でありまして、治療のための「もぐさ」の歌には見えませんね。悩める衆生は、煩悩の炎で「身を焼く」でいいと思うんですが、「もぐさ」はもっと限定的に燃やして治療するんじゃないでしょうか。野焼きなら、枯れ草はまる焼けですから比喩が成立するような気がいたします。
なほたのめ しめじが原の させも草 我が世の中に あらむ限りは
(『新古今集』巻二十・釈教 1916番 清水観音)
ありがたい清水寺の御本尊である観音様のお歌ということですが、なるほど「煩悩まみれの衆生よ、さしも救済に御利益のある私がこの世にいる限りは、変わらず当てにしてくれ」という頼もしい歌でありまして、「させも草」というのが、なんとなく「さしもの」を響かせるんでしょう。どこにでも生えている蓬ですから、雑草の代表でありまして、その有名な繁殖地が平安時代には下野の国だったということかと思います。
僧都光覚、維摩会の講師の請を申しけるを、たびたび漏れにければ、
法性寺入道前太政大臣に恨み申しけるを、しめじが原と侍りけれど、
またその年も漏れにければ遣はしける 藤原基俊
契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり
(『千載集』巻第十六・雑上 1023番)
法性寺の入道は、「しめじが原」というフレーズで、頼みごとをして来た基俊に対して、「なほたのめ」と言いたいわけで、これは「今後も、もっとずっと変わらずあてにしていいよ」という頼もしいお答えなんであります。「たのめ」は、「頼む」という四段活用動詞の命令形ですが、この動詞は今と使い方が違います。今なら「人に物を頼む」なんですが、昔は「人を頼む」という言い方で、「あてにする・期待する」なのであります。基俊の歌は、「させも」を「下々である自分」に例えておりまして、「露」は法性寺入道の「しめじが原=なほたのめ」というお恵みを言った物でありましょう。
それでも、分かったような分からないような、そういう歌ですね。ともかく、この歌は秋の歌として表面的に理解し、次に、「何年かしたら戻って来るよ」と約束した男の言葉にすがって待ち続ける女の歌として理解を深め、その上で大人の事情というものを前提に解釈するという、三段階の理解が必要な歌だったのではないでしょうか。いきなり、千載集の詞書を持ち出したり、清水観音の歌を引き合いに出されたら、はたして誰が納得するのでしょうか。注釈する人が、季節の歌、恋の歌としての解釈を示さなかったところに、『百人一首』享受の問題が凝縮されていると思います。要するに、コピーアンドペーストの集積によって、もっともらしく解説を施して来たってことでしょうね。ただ、それって、学問の基本かも知れませんから、本当に駄目かどうか、軽々しく判断してはいけないかもしれません。
コメント
コメントを投稿