北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(73) 大江匡房
73 権中納言匡房
高砂の尾の上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ
〔評釈〕あの高い山の尾に桜が美しく咲いてゐる。こちらの低いはしの山に霞が立つと、あの折角の桜が見えなくなるから、どうぞ霞が立たないで居てくれよ。
といふ意である。自然に向つてのべた美しい歌で少しの厭味もなく軽い調子で歌はれてゐる。この歌は後拾遺集春上に「内のおほいまうちきみの家に、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、遥に山の桜を望むといふことをよめる」と題して出てゐる。
内のおほいまうちきみといふのは内大臣の事で、即ち師通公をさす。後の二条関白とも云ふ。さけたうべは酒を賜はること。
〔句意〕▼高砂=山の事で普通小高い丘の意に用ふが、ここは丘でなくて高山をさしてゐる。▼尾の上=山の頂をさす。尾といふのは山の傾斜にそつて高く背の様になつた所をいふ。▼外山=たわ山の約で、こちらのたわんだ低い山の事をいふ。即ち山のふもとの小山。
〔作者伝〕
大江音人の裔で信濃守成衡の子である。寛治八年権中納言、永長二年太宰権帥を兼ね天永二年大蔵卿となつて同年七十一歳で薨じた。幼少から才智に勝れ、四歳の時書を学び初めた。八歳で史伝に通じ十一歳で詩歌をよくし神童と称へられた。歌も漢学に比しては劣るが佳作も多く一流の歌人であり、和琴なども巧みで、女官達を驚かしたといふ。しかし自分の才を恃んで、世を憤る風が見えてゐたのは惜しい。
〔補記〕
評釈の末尾、藤原師通について「後の二条関白」の部分は、昭和5年版では「後の三条関白」となっていました。「三条」を「二条」に改めました。寛治8年(1094)に関白に就任した師通は、親政を行おうとしていた堀河天皇に協力し、院政を志向していた白河院と対立するところがあったようです。そう言った中で、学問を大江匡房などから学び実務官僚と連携していったことが知られていますが、承徳3年(1099)数え38(満36歳)で急死、師通の政権は短期で終焉しました。
作者伝の「天永二年大蔵卿」の部分は、昭和5年版では「天永年大蔵卿」となっていて、「二」が抜けていましたので補いました。なお、作者伝も含めて、今回の大江匡房の歌に関する記述は、佐佐木信綱『百人一首講義』ならびに尾崎雅嘉『百人一首一夕話』に基づきそれらの抄出になっていて、やや不完全なところがあります。たとえば、作者伝末尾の「自分の才を恃んで、世を憤る風が見えてゐたのは惜しい」の部分は、『百人一首講義』では、学問に通じていた故に世を憤り、出仕しないで山林に姿をくらまそうとしていたものの、源経信に諫められ、隠遁を止めて後三条天皇以降の代々に使えた、というような文脈です。
〔蛇足〕
作者は大江匡衡の曾孫なんだそうでありまして、だとすると赤染衛門の曾孫でもあるのでしょうか。ものすごい学者でありますが、歌人としてもたくさん歌を詠んで、勅撰集にもばりばり入った人なのであります。分からないところはない歌でありますが、これを見て今感動できるかというと、さほどでもないような気がいたします。しかしながら、白秋の評釈を見ると、「自然に向つてのべた美しい歌で少しの厭味もなく軽い調子で歌はれてゐる」と高評価でありまして、自然を見てその美しさをスケッチした点を嫌味がないと褒めているのです。自然を詠んだ歌と言う点がひっかかります。
問題になるのは、五句目すなわち末句の「なむ」でありまして、これはダメ元で相手にお願いする終助詞であります。つまり、桜が咲く頃には、周囲の山々に霞が立ち上りますから、お願いしても駄目なんでありまして、霞のせいでせっかくの桜が見えなくなると言うことなのであります。これは、そういう体験を重ねた人が、この歌を歌いますと気分いいと言いますか、共感する歌なのであります。あくまでも現実が先にあり、それを言葉で押さえているわけで、その押さえ方がうまいと言うことですね。大臣の邸で酒を飲みまして、それから「遙望山桜」という題で詠んだ歌なのだそうですが、適度にアルコールが入って、大胆な歌が飛び出したということでしょうか。これを、四角四面の学者肌の歌だと評する人もいるんですが、さて、どうしてそんなふうに感じてしまうんでしょうか。そっちのほうが四角四面だなと、思ってしまします。
さて、この歌の前三首ついて、妙なことを言って来ましたが、おさらいすると「秋の歌」が実は恋の情趣を裏に含んでいたり、「恋の歌」が実は海岸の風景というか、旅先の歌というか、そういう道具立てであったり、というようなことを指摘しました。この匡房さんの歌は、単純な桜の歌なのでありましょうか。歌われた場を見たら、そうじゃない可能性の方が高いのであります。たぶん。例の『百人一首』61番にあった伊勢大輔の「いにしへの」の歌だって、宮廷の場を汲んだ歌だったわけですから。
角川ソフィア文庫の『百人一首(全)』(谷知子さん編)が、酒席で主人を寿いでいる歌であるという指摘をしておりまして、それが大手柄なのではないでしょうか。山のてっぺんで咲いている桜というのは、宴の主人である内大臣藤原師通の比喩でありまして、それでいいと思います。ここからは、私の憶測を言うならば、周辺の山々の霞というのが、招かれた大江匡房を含む支持者たちでありまして、「立たずもあらなむ」というのは、帰らないで欲しい、腰を落ち着けて飲もうではありませんか、と呼びかけたのでありましょう。この憶測は、ひょっとすると大手柄でありまして、「桜」を栄花を極めている人にたとえるのは、61番伊勢大輔の「いにしへの」の歌でも感じ取れるわけでありまして、それに家来というか、追従する人たちを加えて嫌みなくまとめたところに手腕があるわけですね。
高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ(大江匡房)
師通の 内大臣は のび盛り われら取り巻き 囲んで飲まなむ(粗忽謹製)
まあ、要するに、こんな歌を見て純粋な季節の歌などというのは、注釈する方々の妄想でありましょう。めちゃめちゃお追従の恥ずかしい内容を、春の桜の歌として仕立て上げたわけで、昔神童で、今は実務官僚の秀才であった匡房であれば、これくらいの内容は簡単だったということなんですね。これを「自然に向かってのべた美しい歌」とか「学者の歌」とか、そういうふうに切り捨てるのは非常に不思議です。むしろ、交際術にたけたこなれた人物の宴会芸であるとか、平安時代後期院政期の歌を巡るなまなましい現実を垣間見させる歌であるとか、そんなふうに指摘すべきものだと思います。
お暇なら、世間の注釈書というものをご覧いただきたいのですが、宴会芸だとかお追従の歌だとか、そういう指摘はほぼありません。香川景樹の『百首異見』は、これは題詠に過ぎなくて実景じゃないというようなことを江戸時代の終りに言っていたようですが、突っ込みどころはそこじゃないのであります。題詠をよい機会と捉えて、師通のもとにはせ参じている官僚を、派閥化しようと企む歌でありまして、季節の歌は実景を詠むのが一番だなどという評価は、はっきり言ってどうでもよいことでしょう。
題の遥かに望むといふにかかはりて、実景を忘れられしものか。此の卿の歌にはさしも秀逸の多きを、中にも此の歌を出だせるは撰者のあやまちなり。(香川景樹『百首異見』)
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