北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(77) 崇徳院
77 崇徳院
瀬を早み岩にせかるる瀧川のわれても末にあはむとぞ思ふ
〔評釈〕流れの早い瀧川の水が、岩に堰き止められて両方へ分れて流れるが、又末は相合して流れるそのやうに、私の恋も今は他人の為に一旦別れて居るが、このはげしい思ひは、末にはきつと又より逢はうと思ふ。
との御意で、どこまでもといふ強い恋の情念が歌はれてゐる。この歌は詞花集恋上に「題しらず」として出てゐる。序の思ひつきなどは巧みに出来てゐるがわだかまりのない平調であると思はれる。
〔句意〕▼瀬をはやみ=瀬が早いによつての意、上の二句は「われても末に逢ふ」といふ為の序詞である。▼われても=岩が水中にあるのでそれに衝き当つて砕け左右に分れて流れてもの意で、たとへ人の為に恋を邪魔されて恋人と別れて居てもの内意にたとへたのである。
〔参考〕この歌は久安百首には「行きなやみ岩にせかるる谷川の」となつてゐて、百首異見には久安百首の方が正しいといつてゐる。
〔作者伝〕
御諱は顕仁、鳥羽天皇の第一皇子で御母は待賢門院璋子である。保安四年御年五歳で即位し給ひ、在位十八年で鳥羽上皇の御子体仁親王(近衛天皇)に譲位し給うた。保元の乱後出家なされ讃岐にお遷りになり、心ならぬ日を送り給ひ、長寛二年御年四十六で崩御遊ばされた。御境遇を詠み給うた御歌には読者に感動させるものが多い。
〔補記〕
白秋の評釈の訳出の部分に「末は相合して」とありますが、この「相合」は、旧仮名遣いでは「あひあひ」、現代仮名遣いでは「あいあい」で、「共有・共用」の意だと広辞苑に出て来ますが、ここは「合同・集結」などの意で使われているようです。「相合して流れる」で「合流する」の意になるのでしょう。この言葉で、現代に残っているのは「相合傘」です。
この崇徳院の歌については、珍しいことに〔参考〕という項目が白秋によって立てられて、香川景樹の『百首異見』の説に言及しています。念のため、引用してみたいと思います。勘所は、「瀧川の」という改作では、水勢の点で強すぎるので、原案の「谷川の」なら末に合流することもありうるというものです。なお、『百首異見』の紹介は、白秋が粉本にしている佐佐木信綱『百人一首講義』に出て来たものです。
此の御製『久安百首』に、「行きなやみ岩にせかるる谷川のわれて末にも逢はんとぞ思ふ」、と有り。これぞ正しかりける。 (中略)此の御製、詞花集に今の如くなほして入れられたるはあやまり也。「岩にせかるる」といふには、「行きなやみ」と有るこそことわりととのひて、かつめづらしくも聞こえ侍れ。「瀬をはやみ」といひ、「瀧川」などあらんには、岩に砕くるとか何とか、強きさまならではかなはず、もとより、瀬がはやさにせかるるといふべきいはれなし。行きなやむまで水勢のよわきが故に、せきわけられて、やうやう末にてあふにてこそあれ、瀧川ならんには、われもあへず落合ひて、流れ行かん末を待つべきにあらず。(香川景樹『百首異見』文政六年刊)
作者伝にいくつか誤りがありました。
「保安四年」の部分は、昭和5年版には「條安四年」とありましたが、「條」は「保」の誤植と見て訂正しました。また「保元の乱後出家」の部分は、昭和5年版で「保元の乱御出家」とありましたので、これも「御」は「後」の誤植と見て直しました。以上二つは、似た字形を誤っていますので、校正が不十分だったと思われます。
〔蛇足〕
白秋の評釈のはじめにある和歌の訳出部分で、後半に出て来る「このはげしい思ひは」を受ける叙述がなく、文脈がもう一つ明確ではないように見えます。よって、「このはげしい思ひは」のあとには、「誰も妨げようもないので」とか、「他人によって止められるはずもないので」というような表現を補う必要があるでしょう。なお、尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』では、この歌を次のように訳しています。
浅瀬の流れが早き故、川中にある岩にせかるる水が両方へ分れて流るれど末にはまた一つに流れ合ふやうに、人を恋ひ侘ぶる心の切なきに、その中をさまたぐる人ありて、一旦別るるとも、末にはまたもとの如くより合んと思ふ事ぞ
この解釈を白秋が下敷きにしたとすれば、「人を恋ひ侘ぶる心の切なきに」の部分を取り入れようとして「このはげしい思ひは」として、表現に詰まったのかもしれません。だとすれば、「人を恋ひ侘ぶる心の切なきに」をもう少し砕いて、「そなたを恋い慕う思いがはげしいので」とでも言い換えれば、文章としての辻褄は合ったのかもしれません。不倫によって訴えられて警察署に収監されたという経験を持つ白秋からすると、人妻との恋を妨害されたときの憤懣やるかたない気持ちを表現しようとして迷っているうちに、「このはげしい思ひは」の述語部分を失念したのかもしれません。
〔蛇足の蛇足〕
『詞花集』巻第七・恋上 228番
題知らず 新院御製
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ
※新院は、崇徳院のこと。
これは、三島由紀夫の小説を原作とした映画『春の雪』(監督・行定勲)に出て来る歌でありまして、原作の小説中に出て来ない歌ですから、あれこれ詮索したことがありました。面白いのは、急流であるとか、流れがあとで合流するだとか、なんとなく注釈書が大河の流れのようなものを想定しているのに対して、どうもそうではないようで、岩場を流れるしょぼい流れを想定する必要があると言うことを、探り当てました。そういうことを指摘する向きもありまして、そちらのほうが理にかなっていると思います。江戸末期の香川景樹が気が付いて、佐佐木信綱経由で白秋も理解を深めていたようです。
問題点はいくつかありますが、焦点は「われても」の解釈になるでしょう。普通に説明すると、序詞という技法が使われていまして、「瀬を速み岩にせかるる滝川の」は、「われても」を導く序詞ということになりまして、これがイントロでありますから、歌の内容は「われても末に逢はむとぞ思ふ」がメインのボーカル部分となるのです。ただこれは、滝川に関連する言葉をわざと使っての「割れて」「合はむ」という表現ですから、恋の歌として理解するためには、解釈上飛躍が必要なんですね。だから、世間の注釈の多くは、ここから「別れてもいつかは再会したいと思う」というような、永遠の別れを想定し、それに対して再会を希求するという、非常に芝居臭い大げさなものになるわけですね。
そこで問題にしたいのは、四句目のところに出て来る「末」という言葉がちゃんと吟味されてきたのかどうかということです。言い換えると、「末」という言葉が、時間的な流れの中で、どのようなニュアンスで使われるか、これまで注釈者が理解できていなかった可能性があるということです。つまり、この歌の「末」が「遠い将来」「不確定の未来」を指すのかどうかと言うようなことですが、辞書を見るとそんな方向の解説しか無いんですけれども、どうも違うようだと気が付きました。この言葉というのは、「本」と「末」とペアにすることが多くて、始まりがあって終わりがすぐに来るような時の、その終わりを「末」と言うようです。つまり、「有限の結末」「既定の結果」を示すもので、「遠い」とか「不確定」ではないのでしょう。
辞書というのは、人が作っているのであって、完璧な辞書などと言うものは存在し得ないはずです。まだまだ発展途上のところがあるということは、心得ておきたいものです。
考えたら、私は「末っ子」なんだけれども、いつかそのうち生まれるかも知れない子供のことではないですよね。もう生まれないし、作る予定もなくなると、この子が末っ子ですって紹介するんですよ。樹木の「梢」というのも、字を当て代えれば「木末」なわけで、樹木の先っぽの目に付くところを言うわけです。樹木の先っぽは「梢」だけれど、折り取ると「枝」になっちゃうんではないでしょうか。地面に落ちている木の枝を、「梢が落ちている」とは言えないと思います。「行く末が心配だ」という時も、こんな状態では将来が大変だと分かった時に言うわけで、実は確定的な未来をいうのでしょう。「行く末、頑張ってね」とは言わないな。「末は博士か大臣か」というのも、できのいい神童に使うわけで、はなたれ小僧には言わない言葉でしょう。和歌の世界では、上の句の五七五の部分を「本」と言い、それに続く下の句の七七を「末」というわけで、「本」と不即不離の関係にあるものを「末」と呼ぶわけです。丸見えの先っぽ、後のほうが、どうやら「末」ってことでしょうね。だったら、崇徳院の歌も、こんなに愛し合ってるから、何か妨げになる事情があるけれど(お仕事とか、夜明けとか、疲れたとか)、また逢おうねって言っている可能性は高いと思います。
崇徳院の歌は、遠い未来のことではなく、おそらく「今夜も逢おう」とか、「明日も逢おう」というホットな歌でしょう。
もちろんそれを敷衍して、……ふえんしてというのは、広げていってってことですが……転生した来世にも必ずお会いしましょうねという力強い再会を確約する歌として理解するのは、非常に自然で適切な使い方になることでしょう。逢えるかどうかも分からない、というような自信のない解釈をしていたら、序詞の部分が実は読み解けていないという証拠になってしまいますね。そう思って、角川ソフィア文庫『新版百人一首』(島津忠夫さん)とか、ちくま文庫『百人一首』(鈴木日出男さん)を見たら、保元の乱後の境遇に引っかけすぎて、遠い将来の再会を期待する歌になっちゃってますね。これらに対して、講談社文庫『百人一首』(大岡信さん)のは、「ああ、何としてでも、私はあなたと抱き合う」なんて訳してあって、大正解。詩人のほうが、学者さんより読み込んでいたということでしょうか。やっぱり恋の歌ですから、この場合は今日明日の肉体的な接触を前提とした解釈のほうが、序詞にはうまくかみあってしまうでしょう。たいした違いは無いけれどね。同じだからこそ、違う違うと言いつのっているだけで、違いを探せば探すほど、同じような解釈に見えて参りますけれども、この微妙な差を感知していただけますでしょうか。
この歌の焦点は、「われても末に逢はむ」の部分が、永遠の愛を誓う歌なのかどうかと言う点です。崇徳院という天皇は、保元の乱(1156年)に敗れまして、その時が37歳くらいくらいですが、讃岐の国に流されて、8年後の長寛2年8月26日(1164年9月14日)にかの地で亡くなっているんですね。崩御されたということです。死後に怨霊になったとされていまして、西行法師がそれを鎮めに乗り込んだなんて話があったような気がします。ともかく壮絶な人生ですから。怨霊の歌だと思って見ると、おどろおどろしいんですね。今手元にある『私の百人一首』(新潮選書)という本を見ると、これは白州正子さんの本なんでありますが、そこには「崇徳院の悲劇の一生を想う時、恋の歌に寄せて、『世に逢うこと』を切望されたのではあるまいか。緊迫した詞の烈しさに、私はそういうものを感じる」と言ってまして、純粋な恋の歌じゃないんだと主張しています。歴史的なその後の顛末から見て、ずっと前に詠まれた歌を解釈するという、荒業なんですが、ご本人は自覚があったのでしょうか。それもこれも、「末」という詞を、曖昧な未来を指す詞として、「いづれそのうち」などと理解しているところから生じるのではないでしょうか。「末」っていう言葉は、歴然とした結果みたいなものですからね、クーデターを起こした末に失敗した、のように因果関係があるんですね。滝川なら、すぐに合流いたします。流刑に処せられたけど、出来たら将来再会したいという解釈は、実は滑っていると申し上げました。
ゆきなやみ 岩にせかるる 谷川の われてすゑにも あはんとぞおもふ (久安百首・恋)
百人一首の歌は、実は元々が『久安百首』という崇徳院が主催した歌の催しに、自分で提出した歌です。この百首というのは、一人の歌人が出題にしたがって、季節の歌や恋の歌をまとめて百首詠んで、それを集めたもので、完成したのは久安6年(1150)のことですが、翌年に作った詞花集のための素材提供の催しのつもりだったのでしょう。つまり、崇徳院の歌だけで百首もあります。その中に恋の歌が二十首ありますが、そのひとつに過ぎないのが「われても」の歌です。もちろん、実体験の中で詠んだ歌ではありません。詠み方としては、いろんな恋の歌を構想する中で、川を比喩にして詠んでみようかと思いつき、山奥の谷川を想像して詠んでみた、ということです。
誰が改作したのか不明ですが、百人一首と同じ形に修正して、あるいは添削してもらって、それで詞花集に入れたというわけです。このもとの形を見ると、いろいろ分かって面白いところがあります。「ゆきなやみ」というのは、もはや恋心を表明する詞ですから、景色とはあんまり関係ありませんよね。川の流れが勢いを失ってちょろちょろ流れますので、いきなりしょぼくなってしまいますから、三句目に「谷川の」とあるのがうなづけます。この歌を見る限り、白州正子さんの言うような「世に逢うこと」を切望するなどという元気のよさはみじんもないわけです。緩やかな谷川の流れを、滝川にすりかえて激情を明白にしたのはもちろんですが、だとしても国家・天下の話には残念ながらならないのではありませんか。
二、三注釈書をめくってみますと、それぞれに有益な情報が載せられています。まず、面白いことを教えてくれたのが、『小倉百人一首新釈』(白楊社・昭和29年・1954年)という注釈書で、これは小高敏郎さんと犬養廉さんの共著ですけれども、上の久安百首の方が百人一首の「瀬を速み」よりも断然いいと言うことを、江戸時代の香川景樹が主張していると指摘しています。信綱や白秋と着眼点が一致したわけです。その要点は、滝川なんかじゃ水がすぐに落ち合って「末」って詞がおかしいと指摘していると言うんですね。ああ、なるほど、水勢が弱くないと成り立たないという指摘はごもっともでありますね。この辺は想像力の問題ですけれども、二つの形を突き付けたら、「末」という詞に多少の意味を込めるなら、久安百首の方も捨てがたいと言うことですが、香川景樹さんというのは幕末のアジテーターですから、断定するのが上手です。香川景樹(かがわかげき)は、明和5年(1768)から天保14年(1843)まで生きた江戸時代後期の歌人ですが、桂園派という流派をなして、明治時代の主流派の創始者です。犬養廉さんは大正11年(1922)うまれの研究者、シベリアに抑留されていたという経験があるはずです。お兄さんが万葉の犬養孝さんだそうですが、お兄さんは明治40年(1907)生まれと言いますから、年の差のあるご兄弟です。
まとめますと、特に「末に逢はむ」というのを、遠い将来に設定するのは間違いで、岩に阻まれた流れは岩場の下ですぐに一つになりますから、「今夜もよろしくね」というような、なかなか色っぽい歌なのであります。讃岐に流刑にされてしまいましたから、それとひっかけて壮大なロマンを空想してしまいそうですが、それはおそらく誤り。なぜなら、この歌が入っている『詞花集』という第六代勅撰和歌集は、崇徳院が下命して藤原顕輔に編纂させまして、保元の乱の5年も前に成立したものですから、そんなロマンとは無縁なのであります。『詞花集』の成立が、仁平元年(1151)のことで、保元の乱が起きたのが保元元年(1156)なのであります。ですから、「岩」というのは、政治的な敵であるとか流刑だとか、そういうものではなくて、昼間のお仕事とか、夜の宴会とか、その程度の差し障りのことと考えるべきですね。後で来るからね、待っていてね、ということです。
コメント
コメントを投稿