北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(83) 藤原俊成

83 皇太后宮大夫俊成


世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞなくなる


〔評釈〕世の中には憂さ辛さを避ける道もない。せめて山の奥にでも隠遁しようと一途に思つてわけ入つて見たが、こんな山奥にも、鹿が、ああもの悲しい声で鳴いてゐる。

といふ意である。世の中をきらつて安楽地を山中に求めたが、悲しい鹿の鳴声を聞いて、やつぱり山中にも憂き事があるかと感じた厭世詩人の悲しい歎きが思はれる。全体の調子もゆるみなく調つて、すて難い趣がある。この歌は千載集雑に「述懐百首詠み侍りける時、鹿の歌とて詠める」と題して出てゐる。


〔句意〕▼世の中よ=歎息して呼びかけたのである。▼道こそなけれ=「道」は「道徳」ではなく、自分の世を遁れる道をいふ。世の中の憂いことを遁るべき道がないの意。▼思ひ入る=山の中へ入ることと、一途に思ひ込むこととを通はせて言つた詞。


〔作者伝〕

権中納言俊忠の第三子で、仁安二年正三位、承安二年皇太后宮大夫に任ぜられたが、安元二年六十二歳で出家し、元久元年九十一歳で卒した。五条三位とも称す。俊成は藤原基俊を師とし古今集の秘伝を受けた歌人で、二条家の和歌の祖になつた人である。人となり温厚で、よく人の言を容れ判者としての衆望もあり歌評などは世人が之を伝へて珍とした程である。後鳥羽帝に愛せられ仁和帝の御代に遍照に賀を賜ひし例にならひ御製及鳩杖を賜つたといふ光栄の人である。


〔補記〕

句意の二つ目「道こそなけれ」の解説の中にある「自分の世を逃れる道」は、昭和5年版には「自分の世と逃れる道」とありましたが、「と」は「を」の誤植と見て直しました。


作者伝には、今回も問題がありました。

まず、作者伝の冒頭近くの「仁安二年正三位」は、昭和5年版では「仁安三年正三位」とありましたので、「三年」を「二年」と直しました。

また、「珍とした程である。」のところは、昭和5年版では「珍とした程である、」とありましたので、読点を句点に改めました。

次に、作者伝末尾の「後鳥羽帝に愛せられ仁和帝の御代に遍照に賀を賜ひし例にならひ御製及鳩杖を賜つた」という部分は、「後鳥羽帝に愛せられ仁和帝の御代に御製及鳩杖を賜つた」とありましたので、佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』を参考にして、「遍照に賀を賜ひし例にならひ」を補いました。仁和帝は光孝天皇のことです。平安時代初期に光孝天皇が遍照に賀を与えた例を参考に、後鳥羽院は俊成に九十の賀を下賜したことは、よく知られたことです。


〔蛇足〕

白秋の評釈の特徴を考えるために、元の俊成の表現に即した訳出部分を抽出すると「世の中には道もない。一途に思つてわけ入つて見た山奥にも、鹿が鳴いてゐる」となりますが、これだけシンプルにしてみると、実は白秋の訳出が矛盾に満ちたものであることが分かります。「道もないのに分け入った山奥」というのは、果たして世の中に通じるのでありましょうか。ふざけているわけではなくて、この歌の理解の根本が実は厄介だということを述べております。


では、白秋はどんな味付けというか、深い理解を示しているのか探って見ると、「憂さ辛さを避ける道」とありますので、まず「道」が人生の辛苦を避ける「方法」というような解釈でありまして、山奥に通じる「道」という理解ではないことが分かります。次に、白秋は「せめて山の奥にでも隠遁しようと一途に思つて」と補っておりますから、俊成が隠棲・隠遁を願っているとみなすわけで、世の中と違って「山奥」には辛苦の種がないかもしれないという常識が見て取れます。結局、鹿の鳴く声は「山奥にも辛苦がある」と教えてくれる教材でありまして、この世には「安楽地」が存在しないと気が付いた「厭世詩人の悲しい歎き」を、この俊成の歌から白秋は学んだということになりましょう。


白秋は、句意のところで「思ひ入る=山の中へ入ることと、一途に思ひ込むこととを通はせて言つた詞」と解説していまして、「思ひ入る」に二重の意を認めておりますが、実は佐佐木信綱『百人一首講義』は違う理解を示しています。信綱は「思ひ入るは、俗に思ひ込むといふ意にて、しか思ひて山に入るといふには、あらざるなり」と、白秋のような理解をきっぱりと否定しているのです。ただ、信綱もこの歌の結論としては、「世の中のうき事を、のがるる道は、なきものなり」と言いますので、彼も「道」は「方法」とか「生き方」という解釈です。尾崎雅嘉『百人一首一夕話』の解釈は、白秋に相当近くて、「思ひ入る」を「心に深く思ひ入り」と「分け入りたる」と解していますが、上の句と下の句の関係を、結論とその根拠のように捉えていて、実は信綱や白秋より分かりやすい内容になっています。


ああ、儘ならぬ世の中よ、いづ方へなりとも引込まんと思ふその道もなき事かな、それをいかにといふに心に深く思ひ入りて世を逃れんと分け入りたる山の奥にも、物悲しげに鹿が鳴いて居る

 (尾崎雅嘉『百人一首一夕話』)


「それをいかにといふに」というのは「何故なら」ということですから、山奥の鹿鳴を根拠にして、世の中には実は隠遁のすべはないと結論付けているようです。面白いのは、雅嘉も信綱も白秋も、歌の末尾の「なる」についてはまたく言及しないのでありまして、昔はこの「なる」の文法はよく分からないものだった可能性があります。現在では、この「なる」は伝聞推定の助動詞というのが定説で、そのうえで「声が聞こえる・音がする」という聴覚を表す例と取るわけです。山奥に分け入っているので、「鹿の鳴く声がする」と解釈しますから、結論としては白秋などの理解と同じになるようです。「鹿」に副詞の「しか」を掛詞にしているという説も、従来あったようです。


問題点を整理すると、①「世の中」とは、儘ならぬ辛苦の世の中でいいのか。②「道」を山奥に通じる道とは取らずに「方法」と理解していいのか。③「思ひ入る」は、「一途に思う」と「山奥に入る」の二重表現でいいのか。④「鹿」に副詞の「しか」はかかるのか。⑤「なる」は、断定の助動詞ではなく、伝聞推定の助動詞の用法とするにしても、伝聞ではなく聴覚でいいのか。以上のような点に絞られることでしょう。ちなみに、池田弥三郎さんは、「鹿の鳴き声」はオス鹿がメス鹿を求める妻恋の声だと普通に解説していますが、これをもとにすると、白秋の解釈などはいきなり危機にさらされるような気がします。妻恋の声だと、なんとなく、生真面目な修行者が山奥で頑張るんですが、鹿鳴を聞いてしまって、欲情を刺激されるので、修行に失敗してしまうというような話になるでしょう。注釈者はそういう解釈にならないように、なるべく真剣で厭世的な内容にしようと訳しているような印象です。さて、本当はどうなんでしょう。


解脱する 術こそなけれ 修行する 山の奥にも 妻を恋ふ声(粗忽)

世の中に 逃げ道はなし 熟慮して 入る山にも 遭難者(諸注釈に代わりてその心を詠める 粗忽)


〔蛇足の蛇足〕

千載集』巻第十七・雑中 1148番 

        述懐百首の歌よみ侍りけるとき、鹿の歌とてよめる

                     皇太后宮大夫俊成

世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞなくなる


俊成の歌は、「鹿」の歌でありまして、『百人一首』の鹿の歌ということになると、猿丸大夫の「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」(5番)という歌や、喜撰法師の「我が庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人は言ふなり」(8番)などを思い浮かべてしまいまして、本歌取りのようなそうでないような、微妙な関係が見えて参ります。初句切れ、二句切れですから、非常に変な歌でありますが、これを簡単に言うと「道なき世」というだけのことで、何を言っているのか不明瞭極まりないわけです。鹿が鳴くというのは「鹿鳴」ということですから、「鹿鳴館」などという言葉にもなる哀切極まりない牡鹿の求愛の声のことであります。近年の諸注釈は、修行の道とか遁世とかみなさん言うんですけれども、これが釈教すなわち仏教の歌であるという証拠がどこにあるのか聞いてみたいものです。 


これは、『述懐百首』という百首歌のなかで読まれたものですから、素直にとるなら、不遇をかこつ歌であります。不遇と言うのは何のことかと言えば、宮廷人ならみんな抱いていた「思ったほど出世できない」という嘆きであります。誰かに昇進したいと申し出るんですが、そこで滲み出て来るのは、政道批判なんでありますね。出世が無理だとなれば、出家しようとか、隠棲しようということになります。出家や隠棲をしようというのが意味を成すのは、元気なうちでありますから、元気がなくなれば老いを嘆くのであります。注釈書を見ると「勅撰集に入ったんだから、絶対政道批判じゃない」という論法があるんですが、院政期の政治的混乱を見たら、そんなこと言ってられないでしょう。少なくとも、どの上皇に付くかによって出世は左右されたんですから、不遇を嘆く歌と考える方が、いいはずなのであります。「山の奥にも」の「も」がありますから、「都にも」「内裏にも」という仕掛けが裏に見えまして、「鹿が鳴くように我も泣く」という寓意があるはずなのであります。牡鹿は牝鹿を慕いますが、廷臣は帝王を慕うのでありましょう。そう取らない理由というものを考えてみると、解釈というのは時代の子なのでありまして、注釈書に書かれていない時代精神が隠れている可能性はあるはずです。


「千載集撰ばれける時分に入れたくおもひ給ひしかども、道こそなけれとあるところに俗難ありてはと斟酌ありしを、別勅にていりたり。名誉なり。〇俗難とは世の中に道なしといへば、君の政道のあしきを諷したるやうなればなり」(北村季吟『百人一首拾穂抄』)


別勅というのは、特別に後白河院から「入れていいよ」とご指示があったということかと思うのですが、じゃあお墨付きの歌ではないですか。この歌が詠まれたのは保延六年(1140)の頃でありまして、時は崇徳院の時代で、ちょうど平家が出世をしてのし上がって来た時代です。保元の乱の負け組の崇徳院に対する不満をその昔述べたのなら、保元の乱の勝ち組の後白河院が構わないと判断することも不自然ではないのであります。『千載集』ができたのは文治三年(1187)で、もう平家は駆逐されて朝廷にはいない頃であります。定家も『千載集』を手伝っていたわけですから、北村季吟の説に信憑性があるような気がします。


都落ちの途中で引き返して来た平忠度から、来たるべき勅撰の撰集の時にはよろしくと俊成が和歌の草稿を託されたという、あの例の『平家物語』の一節なんかを思い出すといいのかも知れません。俊成は、朝敵となった平家の人だけど、せっかくだからと「詠み人知らず」にして入れたわけでありまして、宮廷の人はみんな分かっていたけど許したんでしたね。


世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞなくなる

  (『百人一首』第83番・皇太后宮大夫俊成)


うっかりしたんですが、この歌の三句目「思ひ入る」というのが曲者でありますね。『日本国語大辞典』(第二版)には、「思い入る(おもいいる)」という形で項目を立てているんですが、それは実は古語の形なわけです。現代語にはありませんから、困ってしまって採用したのでしょうね。「入る(いる)」というのは、現代語では、表記は同じですが「入る(はいる)」のはずでありまして、考えてみると微妙な言葉です。「入り口」というのは、「入り口(はいりぐち)」と言わなくもないが、やはり「いりぐち」であります。では「出口」はどうかというと、これは「でぐち」でありまして「いでぐち」ではないのです。ともかく、「思い入る」という動詞が、現代にあるのかないのか、というものですが、辞書の方は、「深く考える」というのと「思いながらどこかに入る」というような説明になっていまして、よく見ると意味がよく分かりません。なんとなく、この俊成の歌などを解釈したものを参考に、適当に二つ目の意味を考えたということのようです。この動詞の所に何か仕掛けがあったのではないでしょうか。何か思い付いたら、書き込むことにいたします。


思いつきましたので、蛇足を加えて見ます。「思ひ入る」は四段動詞の連体形でありまして、終止形も「思ひ入る」と言うことです。現代語には、「思い入れ」という言葉がありまして、辞書を見ると「自分の思いをこめること」のような説明が出てきます。演劇の方面では「台詞を言わないで素振りで感情を表すこと」らしいのでありますが、この場合「思いを入れる」でありますから、「入れる」は他動詞と言うことになりまして、今は下一段活用、古くは下二段活用の「入る」と言うことになります。ここからすると、四段活用の方は自動詞で「思いが入る」「深く思う」ってことですから、こんなことは辞書と同じ指摘です。「思ひ入る」の二つの活用から何となく分かるのは、「入る」が補助動詞であって、主体は「思ふ」の方だということですね。下に「山の奥」があると、「入る」が動作のような気がするところから、「山に入る」すなわち「出家する」という解釈が入り込む余地があったということなんでしょう。


「思ひ入る」の「入る」が単に補助動詞だとすると、詠作主体は「山の奥」に「強い願望を抱いている」だけと言うことが出て来るでしょう。そうなると、「なくなる」の助動詞「なる」を諸注釈は聴覚の用法だと解説して「鳴く声がする」とか「鳴くらしい」と訳し、実際に詠作主体が山の奥に入山した結果鹿の声を聞いていることにしているんでありますが、それは怪しいということになりますよね。助動詞「なる」は伝聞の用法とみなして、「鳴くということだ」「鳴くと噂に聞いている」としたほうがよさそうです。へそ曲がりですから、世の注釈書が聴覚だというなら、とりあえず伝聞に出来ないかというだけのことですが、よろしうございますか?


世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞなくなる(俊成)


ああ、我が身を置く政道の乱れに乱れた世の中よ。ここには、我を受け入れ正しく認めんとする道など微塵もないことだ。我が心よりお慕い申す、宮中、大内山の奥におはします帝も我と同様、忠実なる廷臣を求めて窮状を訴えなさっていると聞くではありませんか。(若き俊成に代はりて粗忽謹んで訳す)

※ 〇「道」は理想的な政道。〇「思ひ入る」は、心より慕っているの意。〇「山」は、大内山のことを言う。宮中・皇居・禁裏の別称。〇「鹿」は、帝・天皇の比喩と解する。帝はのちの崇徳院。〇「鳴く」は、オス鹿がメス鹿を求める鹿鳴のことだが、ここは帝王が忠臣を求め愁訴すること。〇「なる」は、伝聞の助動詞。


※この歌が詠まれた保延六年(1140)なら、俊成は27歳位、従五位下のまま10年以上が経過し、遠江守だったころで、とても公卿への道が見えなかった頃です。一方の崇徳院は、そのころ天皇に即位して17年ほど在位していたころだがまだ22歳位の青年でした。鳥羽院の圧迫が次第に強まってやがて譲位を迫られることになり、2年後実際位を下りました。


ひょっとして、奇抜な解釈が成立してしまったかもしれません。くれぐれも忠告いたしますけれども、上に述べたような解釈は、まったく一般的ではありませんので、取扱注意、他に漏らしてはなりません。それにしても、粘っていろいろ考えていたら、とんでもない大手柄を挙げてしまったように思うんですが、どうでしょうか? 自分でもびっくりしました。


世の中は 道こそなけれ 恋慕ふ 大内山にぞ 院は泣くなる(粗忽謹製)

公卿への 道こそ遠けれ 鄙びたる 遠江にぞ 俊成泣くなる(粗忽謹製) 

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