北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(76) 藤原忠通
76 法性寺入道前関白太政大臣
わだの原漕ぎ出でて見れば久方の雲井にまがふ沖つ白浪
〔評釈〕海上遥かに漕ぎ出して見ると、海が果てもなく広々と続いて、大空と一つになつてゐる、沖の白浪も雲のやうに見える。
といふ意で、水天一碧、これ天、これ海の差別のない壮大な海上の景色を詠んだものである。巧緻に富んだこの時代の景色歌としては珍らしく大作で、大まかな叙景である。この歌は詞花集雑下に「新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませたまひけるによめる」と題して出てゐる。新院とは崇徳上皇の御事。
〔句意〕▼わだの原=広々とした海の事。既に前に説明した。▼こぎ出でて=舟を漕ぎ出るの意で舟といはずにその意を含めた。▼久方=雲の枕詞。▼雲井=空の意。万葉では広く空の事とあつて後には雲のおりて居る事にも用ひた。ここは空の意。▼まがふ=行き違ひ、入り乱れること、一所になる、の意に用ふ。ここは大海と空との区別のつかぬ意である。
〔作者伝〕
太政大臣忠通の事で、知足院関白忠実の子である。保安三年に右大臣従一位に叙せられ、四代の帝の関白となり二度も摂政になつた。応保二年には出家して法性寺に入り長寛二年六十八歳で薨じた。忠通は寛仁な人で能く人を愛した。文章も詩歌も書も巧みで才智もすぐれてゐた。和歌を特に好まれた事は八雲御抄に「歌の道無下にすたりて此道なきが如し、法性寺入道此道を好み、崇徳院の末つかたよりやうやう又和歌のこと沙汰あり」とある。
〔補記〕
評釈に引用されている詞花集雑下の詞書の中の歌題「海上遠望」は、昭和5年版では「海上眺望」とありましたが、これは佐佐木信綱『百人一首講義』や尾崎雅嘉『百人一首一夕話』から引き継いだ誤りのようなので訂正いたしました。ちなみに、明治12年(1879)に浮世絵の「品川海上眺望図、大森朝乃海」(作者は小林清親)という作品が東京名所図の一つとして世に出ております。
作者伝の中に「法性寺」「法性寺入道」とありますが、昭和5年版では「法成寺」「法成寺入道」となっており作者名と矛盾していましたので、改めました。「法性寺」は、延長二年(924)頃に藤原忠平(貞信公)が創建したとされる寺院で、応仁の乱後衰退しました。「法成寺」は、寛仁三年(1019)に出家した藤原道長が発願して創建した寺院で、始めは無量寿院と称していたものですが、治安二年(1022)に法成寺と改称しました。
作者伝の末尾で引用されている「八雲御抄」は、昭和5年版では「八雲抄」とありましたが、広く知られているタイトルに合わせて「御」の字を補いました。諸本の中には「八雲抄」とする伝本もありますので、そのままでもよかったかもしれません。また、引用の中で「末つかたよりやうやう」の部分は、昭和5年版には「末つかたやうやう」とありましたが、伝本から「より」を補いました。
〔蛇足〕
白秋の評釈の訳を、元の和歌の表現に即したところだけを抜き出すと、「海上遥かに漕ぎ出して見ると、沖の白浪も雲のやうに見える」ということになるでしょうか。「まがふ」という表現のニュアンスを示すために、「海が果てもなく広々と続いて、大空と一つになつてゐる」と補足してあります。粉本とすることの多い二書を引用して比較してみましょう。
海上に舟を漕ぎだして、はるかに見わたせば、限なき大空のはてに、浪のたちつづきてひとつに見ゆる(佐佐木信綱『百人一首講義』)
海上へ船を漕ぎだして向こうを見れば、その海が果てもなく遠き故、雲のかかりてある空と一つにまがひて見ゆる沖の白波(尾崎雅嘉『百人一首一夕話』)
古注釈の解釈について、有吉保氏の『百人一首全訳注』(講談社学術文庫)が整理していまして、何と何が「まがふ」のかについて、どうも三つの解釈があるようです。
(1) 「雲」と「波」がひとつに「まがふ」
(2) 「空」と「波」がひとつに「まがふ」
(3) 「空」と「海」がひとつに「まがふ」
白秋の場合は、直訳部分が(1)ですが、補足で(3)を採用しています。信綱の場合は、(2)と判断してよさそうです。なぜかというと、信綱は「雲ゐは、雲のかかりゐるよしにて、やがてただ大空といはんが如し」と判断しているからです。これに対して、雅嘉は(2)ではありますが、「雲のかかりてある空」と言っているので、(1)の要素もあるような解釈です。三者が微妙に違っている点が面白いと思います。元の忠通の歌を改作して、現代語でも分かるようにすると次のようになるでしょうか。
大海原 漕ぎ出して見れば 大空の 雲かと見まがう 沖の白浪(粗忽改変)※下線部が改変したところ
こうして改変してみると、この改変では雲と波が見まがう状態ですから、(1)の説に沿った改変ということになるでしょう。空の彼方の水平線に生じている白い雲、それと見まがうような白波という、青い空と青い海の果てで、白雲と白波が区別がつきにくいということになるでしょう。(2)や(3)は、実は不可ではないかという気がいたします。そもそも、「まがふ」と表現している段階で、実は海の白波と空の雲は区別できているのであります。「見まがうほど似ている」ということは、結局「似てはいるが違うものだと識別できた」ということではないでしょうか。
〔蛇足の蛇足〕
『詞花集』巻第十・雑下 380番
新院位におはしましし時、海上遠望といふことを詠ませ給ひけるに
詠める 法性寺入道前関白太政大臣
わたの原 漕ぎ出て見れば 久方の 雲居にまがふ 沖つ白波
空約束をしまして、基俊さんから「契りおきし」の歌を突き付けられたのが、今度の歌の作者でありまして、肩書きが長いんですけれども、藤原忠通さんというえらい人であります。この方も歌人ですから、基俊さんの歌をすぐさま理解して、あれこれ願いを叶えようと尽力したことでしょう。息子の光覚僧都は、おそらく維摩会の講師に加えられて、基俊さんは溜飲を下げたのではないでしょうか。この歌は、崇徳院の時代に内裏で催された歌合わせの時に詠んだ歌なのだそうですが、「海上遠望」という題で詠んだそうでありまして、実感でも何でもありません。平安時代の歌の作り方は、だいたい歌会で出された歌題に沿って詠む題詠でありまして、実感よりはそれまで詠まれた歌の中でのお約束事にかなうかどうかなのであります。
しかし、題詠にもかかわらずなのか、それとも題詠だからこそなのか、現代のコマーシャル・フィルムのような鮮やかさでありまして、見事な叙景歌なのであります。ヨットを操る屈強な若者が腕を組んでファイトイッパーツ!とか、初々しいアイドルが額の汗を拭って冷たい飲み物を飲んで初恋の味!とか、そういうCMの夏の部の背景にぴったりですね。歌の内部の季節は分かりませんが、初夏あるいは盛夏、湧き上がる入道雲なんかをバックに、旬の俳優さんや女優さんがヨットやボートで沖にこぎ出すさまが浮かびます。
久方に 漕ぎ出て見れば わたの原 ただ雲と波 ファイト一発
白波を 漕ぎ分け見れば 積乱雲 二人きりなの 初恋の味
ここでも、問題なのは「まがふ(紛ふ)」という動詞でありまして、「雲かと紛う白い波」と言うだけのことですが、遠くの雲と見分けの付かない波という、遠近法の混乱がテーマでありますね。そう言えば、「雲居」には「空・雲」のほかに宮中であるとか天皇という比喩がありますし、「白波」は、盗人のことを指しますね。ピンとキリが、似ているということかもしれません。ともかく、雲かと思ったら波で、波かと思ったら雲だったというような混乱ですが、目が慣れてくれば水平線も分かりますし、紛れたままにはならないことでしょう。空と海が一つに見えるというのは、水平線という存在を知らないことから生じる誤読ではないかと思います。
関白藤原忠通というこの作者は、保元の乱の勝利者でありますが、学者さんであり、詩歌に優れていて、字もうまいというような、優秀な文化人でもあります。時代は院政期という、上皇が最高権力を握った時代なんですが、この人は後白河院の側について勝利を収めた人であります。平安時代半ばと違って、摂関家の大臣も実力がないと駄目な時代ですから、和漢の学問に通じていた人が多いのであります。それが、複数いる上皇の誰かを担いで、同じ藤原氏同士でも熾烈に争うのであります。忠通は崇徳上皇とは敵になりまして、勝った後で讃岐に流したんですね。そうなるとは思わないで新院と呼ばれていた崇徳上皇の御前で詠んだ歌が、『百人一首』に採られた歌であります。冗談を言うと、上皇様かと思ったら、とんだ大盗人だったのね、というようなことなら、とんでもない皮肉として解釈してもいいのかもしれません。少なくとも、定家の頃にはその解釈には気付いていたかもしれないのであります。
気になるのは「わたの原」でありますが、11番参議篁の歌にもありまして、「大海原」を意味する言葉なんですが、何でもその語源はまったく不明なんだそうでありまして、だからなのか現在普通にはこの言葉は通じません。観光船に載っていわき沖の太平洋に出たことがありましたけれども、「わーい、わたの原だ」なんて誰一人口にしなかったと思います。「漕ぎ出(こぎいで)」というのは、「漕ぎ出づ」という動詞ですが、そのまま変化したら「こぎでる」のはずですが、いまは「漕ぎ出す」ということばがありまして、微妙な違和感が存します。「漕いで外海に出てみる」というような感じでしょうか。貴族は自分では船を漕いだりしないでしょうけれども、京都の上級貴族は海が好きでありまして、こういうのが好まれたんですね。
こうしてみると、「漕ぎ出る」とか「まがふ」とか、今でもありそうな動詞が微妙に現代では通じないのであります。
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