北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(68) 三条院

68 三条院


心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな


〔評釈〕かやうに不幸がつづき、その上病気の為に不自由で心も晴れぬ、長くはこの世に生き長らへられぬであらうが、若し生き長らへたら、定めし只今禁中で見る今夜のこの月の美しさを思ひ出して恋しく思ふことがあるであらう。

の御意で、再び御覧になる事のあるまいと、雲井の月を思ひ置かれ給うた院の御心中を忍び奉れば涙なくては居られませぬ。歌の調子もよくこの御心持にふさはしく御詠みになり給うたと拝誦し奉る。この歌は後拾遺集雑に「例ならずおはしまして、位など去らむと思し召す頃、月あかかりけるを御覧じて」と題して出てゐる。


〔句意〕▼心にもあらで=我が心に思つた事と違うての意で、早くこの世をお去りになるとお考へになつて見えたのが、違うての意。▼うき世=憂き世、この世の意。▼恋しかるべき=恋しくあるだらうの意。「べき」は予想の意を持つてゐる。▼夜半の月=今夜の此の月をさして仰せ給うたのである。


〔作者伝〕

御諱は居貞、冷泉天皇の第二皇子で一条天皇に次で御即位し給うた。御年三十六歳。在位僅五年で長和五年退位なされた。在位中皇居の炎上が二度もあり、御悩もいよいよ重らせ、その上御眼病も種種御治療遊ばされた甲斐もなく、誠に申すも恐れ多い御不運の御事であらせられた。寛仁元年出家し給ひ、同年五月四十二歳で崩御遊ばされた。


〔補記〕

句意の二番目に「うき世=憂き世、この世の意」とありますが、昭和5年版では「うき世=憂き世、」とあって読点で終わっておりましたので、評釈を参考に、脱落したと思われる訳を補いました。


作者伝の所には、問題が二つありました。


まず、「皇居の炎上」とある部分は、昭和5年版では「皇居の災上」とありましたので、「災」は「炎」の誤植と見て訂正しました。


次に、出家・崩御の年号となっている「寛仁元年」ですが、昭和5年版ではここが「寛和元年」と誤っていたので訂正いたしました。寛仁元年は1017年に当たります。


三条天皇が退位したのは長和5年(1016)正月で、翌年長和6年の四月に改元して寛仁元年となった時に出家しまして、五月に崩御しています。なお、寛和という年号は、985年から987年にかけての時期で、寛和二年に花山天皇が退位し一条天皇が即位しています。


なお、白秋の作者伝には即位の年が書かれていませんが、一条天皇が退位し三条天皇が即位したのは寛弘八年(1011)のことです。内裏が炎上したのは、長和3年(1014)2月9日と長和4年(1015)の11月17日ことで、このころは内裏だけではなくて、貴族の邸宅などもしばしば焼亡していたようです。三条院が「ながらへば」の歌を詠んだのは、長和4年の10月に造営が終了した内裏が11月に焼けた直後の、師走12月の10日過ぎだったそうです。翌月の長和5年正月29日に退位していますから、不運の中で詠まれた歌であることは間違いありません。


〔蛇足〕

白秋の訳出したものや句意の解説をもとに、和歌の表現に即した部分を抽出すると、「我が心に思つた事と違うて」「この世に」「若し生き長らへたら」「定めし・恋しく思ふことがあるであらう」「今夜のこの月の美しさ」という訳になると思います。これに対して、白秋が和歌の表現を超えて補うために加えた部分を指摘すると、まず「かやうに不幸がつづき、その上病気の為に不自由で心も晴れぬ、長くはこの世に生き長らへられぬであらう」という部分です。「不幸」というのは二度の内裏焼失のことで、これは『栄花物語』やそれを受けた先行注釈書からの情報ですが、「病気」は「例ならず」という詞書からの情報を反映したものです。さらに、「只今禁中で見る(この月)」「を思い出して」というのも加えてありまして、詞書にある退位前の明月の鑑賞ですから、禁中(内裏・宮中)という指摘は妥当なものです。白秋がポイントとして挙げているのは、「(禁中で月を)再び御覧になる事のあるまい」ということで、その結果「院の御心中を忍び奉れば涙なくては居られませぬ」と深い同情を寄せているわけです。佐佐木信綱『百人一首講義』も、同様の事を次のように述べていますから、白秋はここから影響を受けております。


ふたたび御覧ずまじき禁中の月を、今しもおぼしおかせ給ふ御心をしのび奉るも、いとあはれにかしこくなん。

   (『百人一首講義』)


たぶん、近年の注釈書も同じような見解だと思いますが、気になるのは、神聖にして冒すべからずと思われる天皇に、摂関家の藤原道長が圧迫を加えて退位を迫っているという状況を、近世の国学者や近代の国文学者は事前知識として知っていたということです。それを前提に、火災と病気で精神的にも肉体的にも限界を迎えている三条天皇に同情するわけですから、涙無くしては味わえないし、気の毒で恐れ多いということになります。私もずっと、そう思っておりましたので、退位したり出家したりしたのちの余生における追憶となる宮中の月なのだというのは動かないことでしょう。本当にそれだけなのか、そういう解釈で万全なのか、と世の中の百人一首を愛するすべての人に聞いて見たくなりました。


もし、この歌に疑義を挟むとしたら、『栄花物語』においては、この歌は中宮の藤原妍子に三条天皇が詠みかけた歌なんですけれども、彼女は返歌をくれなかったのであります。『和歌文学大辞典』というものを見てみたら、藤原妍子は歌の詠める人でありますから、返歌がないのは不思議であります。同時代人の赤染衛門が執筆者なら、どう考えても藤原妍子の返歌を見落とすはずはないので、詠まなかったと考えられます。三条院の置かれた状況は、中宮であった彼女も分かっていたわけで、だったら卒なく同調すればいいわけでありまして、私が藤原妍子ならこう詠みます。彼女がその程度の返歌を詠まなかったなら、三条院の歌には何か返歌をしにくい問題があるということではありませんか。


  げにやげに ともにうき世に ながらへば 忘るはずなき 夜半の月かな(妍子に代わりて粗忽謹製)

    ※「忘る(わする)」は四段活用動詞の連体形。


長和4年(1015)12月10日過ぎの明月の晩に、三条天皇が決断を迫られているのは、詞書にもあるように「位などさらむ」という退位でありまして、そうなると上皇となりますが、どこかに上皇御所を設置して内裏を去るということになるわけです。ただし、内裏焼亡の折ですから、今いる邸宅が上皇御所になって、新築なった内裏にはもう戻らないというのが真相ではないかと思います。そうなると、「禁中で見る月」というのはすでに滑っているわけで、正しくは「自分が天皇の位にいて見る月」はこれが最期かもということです。10日過ぎの月というのは、要するに満月ですから、次の満月にはもう退位していて、上皇とは言いながら本人からしてみたらほぼ「ただの人」としてしか月を見られないので、これが見納めだというのでありましょう。


〔蛇足の蛇足〕

後拾遺集』巻第十五・雑一 861番

      例ならずおはしまして位などさらむと思し召しけるころ、

      月のあかかりけるを御覧じて     三条院

心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな


三条院という天皇については、『大鏡』であるとか『栄花物語』に出てきますから、そういった話を読むと、非常に気の毒な帝王であります。目が見えなかったというのが晩年の悩みの種でありまして、末娘の髪の毛さえ見えない事よと言って嘆くんであります。やがて不本意に退位したという経緯を知っていると、この歌は味わい深いものがあるわけで、メランコリーの極地のような内容であります。将来うかうかと長生きしたら、今夜の月が恋しいだろうなあ、というんですが、その時点ですでに不本意に長生きをしているという自覚があると見るべきでしょう。時々は目が見えることもあったと言うんですから、この時は月が見えたのかも知れませんが、もしかしたらすでに見えなかったかも知れないんですね。「憂き世に」のところは、しばしば「この世に」となっていることもあるんだそうで、『百人一首』というのは本文の異同が案外多いのであります。あんまり本気で暗記しててはいけないのかも知れませんね。思いつきで申し訳ないのですが、ちょっと、いたずらをした歌を掲げて見ます。


   意のままに くらゐを去らで ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな(三条院に代わりて粗忽謹製)

※我が意のままに、退位などしないで、天皇として居座り続けたら、(ますます道長のいじめがエスカレートして)定めて恋しく思うはずの、(まだ平穏無事であった)今宵の明るい月であることよ。


もう一度状況を確認いたします。『後拾遺集』の巻第十五・雑一に載っているんですが、それだと「ご病気でおられて、退位しようと決心なさったころ、明月をご覧になり」というような詞書きなんですね。ところが『栄花物語』を見ると、師走の月夜に后の一人に詠みかけたことになってるんですが、かわいそうなことに返歌がないのであります。どうして后は返歌をしてくれなかったのか、そこを先ほどから問題視しております。素直に読めば、退位した後に帝王として皇居で見た月を恋しく思うと言うのですから、退位を覚悟して退位後のわびしい暮らしを想像したと言えるでしょう。そこで、上に掲げましたように、「もし仮に退位を拒んで帝位に就き続けたら」という歌であったら、どうなるんでありましょう。ひねくれた解釈は、百害あって一利なしでありまして、次の歌に参りましょう。でも、居座ってると何されるか分からない、というような歌としてとれないこともありません。もっと露骨にすると、次のような本音はないのでしょうか?


  心にも あらでくらゐに ながらへば 厭はれ続けて 運の尽きかな(粗忽)

※「くらゐ」は「位」と「暗き」の掛詞。「厭はれ」は「いと晴れ」との掛詞。「運の尽き」は「雲の月」との掛詞。「暗き」「いと晴れ」「雲の」は「月」の縁語。


そろそろ、思いついたことを明らかにしたいと思うのですが、よろしいでしょうか。従来の三条院の歌に対する解釈というのは、実は、その後の三条院の退位・出家・崩御という結果に従って導き出されているような気がいたします。つまり、すでに退位を決意していて、今後は不本意な上皇として生き長らえて行くので、もはや満月を見ても心は満たされず、今宵の月が天皇として見る最期の月だという解釈で、ほらやっぱり三条院の予想通りになったんだと誰もが思ったのでありましょう。ここで問題にしたいのは、「憂き世」「この世」という言葉がまだ天皇だった三条院にとって退位後の上皇としての「憂き世」や「この世」だったのかどうか、どうしてそう断定できるのか不思議であります。ひょっとしてなんですけれども、三条院にとっては「憂き世」「この世」は天皇のままでいることを意味していたのではないかと提案いたします。一歩推し進めて、今宵の「夜半の月」というのは、皇位に就き続けることを決意して眺めた月だったら、どういうことになるのでしょう。月を見て何かを決心するなどというのは、古典でよくあることです。最後の仕上げですが、三条院にとって「憂き世にながらへ」ることが今宵の意のままの決断だとすると、「心にもあらで」=不本意なのは、三条院ではなく退位を迫る道長ですから、三条院の歌に余計な補いを試みると、次のようになることでしょう。


   (藤原道長めの)心にも あらで(朕が)憂き世に (帝として)ながらへば 

           (思ひ掟てしつる故に)恋しかるべき (今宵の明き)夜半の月かな


あの憎き藤原道長の意に背いて、朕がこの世に天皇として政治的に生き長らえるならば、「天皇に居座ろう」と決心したがゆえに、定めて恋しく思うはずの今夜の明月であることよ。(三条院に代わりて粗忽謹訳)


こういう内容なら、藤原道長の娘である藤原妍子は、開いた口が塞がらなくて返歌に困るということが生じるのではないでしょうか。藤原妍子から道長に三条院の情報は筒抜けだったはずですから、譲位の意向が天皇の口から洩れるのを今か今かと道長は待っていたはずで、「心にも」の歌が譲位の内容なら、それから一カ月半も時間がかかるはずがないような気がいたします。三種の神器を移すのは藤原氏の得意技ですから、おそらく譲位の意図が漏れたら一日二日で事は動いたはずです。土壇場のところで、三条院は粘りに粘り、玉虫色にどうとでも意味が汲み取れるような歌で、道長を煙に巻いたのではありませんか? 後の出来事から、発信された内容を決め付けてしまうということは、現代でも生じます。そうしたフィルターを一度外して、ありのままに表現を吟味してはいかがでございましょうか。「憂き世にながらへば」を、皇位への執着を示すものというのは、ここだけのお話ですが、もしや的を射ていたら、天下の大手柄でございます。


すべて冗談ですから、良い子はこの説をコピーアンドペーストしたり、SNSに載せたりしてはいけません。

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