北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』を読む(65) 相模

65 相模


恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなん名こそ惜しけれ


〔評釈〕私はつれない人を恨みあぐんで、悲しい涙に袖は乾くひまもない。私の袖はそのために朽ち果てようとする、その上世間から、この恋のために浮名を立てられ、私の名の朽ちてしまうのはまことに口惜しいことである。

との意で、思ふ恋さへかなはず泣き悲しんでゐる上に浮名を立てられて徒らに人に騒がれるのを悲しんだのである、叶ふ恋なら得意であらうに空評判はつらいものと見える。この歌は後拾遺集恋四に「永承六年内裏の歌合に」と題して出てゐる。歌合に左近少将源経俊と競つて勝つた歌で、負歌は「下もゆるなげきをだにも知らせばやたく火のかげのしるしばかりに」といふのであつた。


〔句意〕▼恨みわび=つれなき人をうらみつくして、恨みあぐむ事。▼ほさぬ袖=常に袖が涙に濡れてゐること。▼あるものを=涙のためにわが袖が朽ちるのであるに、の意。▼恋に朽ちなん名こそ惜しけれ=叶はぬ恋に浮名を流し名の朽ちることは口惜しい。


〔作者伝〕

源頼光の子で本名を乙侍従といつた。後冷泉院の頃一品宮に仕へたが後、相模守大江公資の妻となつたので相模といつた。夫と共に和歌が上手でその上夫婦間が睦まじかつた話は有名である。八雲御抄に「赤染衛門、紫式部、相模上古に恥ぢぬ歌人也」と出てゐる。


〔補記〕

評釈の訳出の末尾あたり「朽ちてしまう」は、昭和5年版では「朽ちてしまふ」とありましたので、「ふ」を「う」と改めました。

句意の三つ目「あるものを」は、昭和5年版では「恋に朽ちなん」とあって、解説と不整合なので、三句目の解説と見て差し替えました。また、その解説の末尾に「の意」を補いました。

句意の四句目「恋に朽ちなん名こそ惜しけれ」という下の句は、昭和5年版では五句目の「名こそ惜しけれ」だけでしたが、解説を見る限り下の句の訳ですから、下の句に差し替えました。

作者伝の「後冷泉院」は、昭和5年版では「冷泉院」となっていましたので、「後」の脱字と見て補いました。なお、一品宮は一条天皇と藤原定子の間に出生した脩子内親王(しゅうしないしんのう)のことです。

作者伝末尾の「八雲御抄」は、昭和5年版では「八重御抄」となっていました。「雲」を「重」と誤っていたようです。順徳院の著書である『八雲御抄』の言葉をもう少し長く引用すると、「女歌には赤染衛門、紫式部、相模上古に恥ぢぬ歌人也。其外にも道綱母、馬内侍やうの歌人おほく侍りしも皆うせにし後は天下に歌人なきがごとし」などとあります。


〔蛇足〕

白秋の昭和5年版は、句意のところに混乱がありましたが、解説部分をもとに、本来あるべき状態を復元してあります。復元したものによって推測すると、白秋は「だに」の解説を避けているようです。これを訳出の部分で見ると、おそらく「その上」という部分が、「だに」に相当するようです。それでも、さすがに悲恋の経験のある白秋だけに、言葉を補って解釈しており、非常に分かりやすい解釈になっていると思います。「私はつれない人を」「悲しい涙に」「世間から」「浮名を立てられ」という部分が、白秋の補いですが、それらを除いて和歌に即して再構成すると、こんな解釈であります。こうしてみると、どうやら「だにあるものを」という表現は、「朽ち果てようとする、その上」となっていることが判明いたします。

恨みあぐんで、乾くひまもない袖は、朽ち果てようとする、その上恋のために私の名の朽ちてしまうのは口惜しい。(白秋の評釈から再構成した解釈)


『後拾遺集』巻第十四・恋四 815番 

    永承六年内裏の歌合に  相模

恨みわび 干さぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ


相模の歌を唱えてみると、すんなり胸に納まるんですが、よく考えてみると、首尾呼応していない歌のような気がいたしますね。三句目の「あるものを」が曲者でありまして、これが「惜しくあるものを」ならば、すんなり解決するんでありましょうか。そういう解釈をする注釈書は多くありますが、さすがにそんな補いは変だと感じます。眉唾ものですよね。涙の塩を袖でぬぐうと、塩分で布地が傷むと言うことが古典常識なのでありまして、振られて朽ちてしまう袖も惜しいが、振られ女だよという評判が立つのはもっと惜しいというようなことなのです。「捨てないで」ってことなのでしょうけれども、さてほんとにそんな意味なのかどうか。

本棚の中のあまたの本と相談してみた結果、案の定、三句目の所が難しいのでありまして、この「あるものを」を、「惜しくあるものを」をするのは近年の注釈書でありまして紹介済みですが、そのほかに白秋のように「朽ちてあるものを」と解釈する場合と、それに対して「朽ちずあるものを」と反対に解釈するものがあるのであります。そこが面白くもあり、この歌の弱点でもあるのでありましょう。

単語や語法について少し考えますと、「恨み」は、相手に文句を言うことでありまして、「わび」は、どうすることも出来ずに困り切ることで、現代語とはニュアンスが違うのであります。「干さぬ袖」によって「こらえきれずに流れ落ちる涙」を表現しているわけであります。「朽ちなむ名」というのは、「な」が強意の助動詞、「む」が婉曲の助動詞ですから、実は解釈の必要がなくて「朽つる名」、すなわち現代語では「朽ちる名」でありまして、名前が地に落ちるということであります。


この相模の歌は、要するに身分違いの恋愛、道ならぬ恋が暗示され、鑑賞者が子供ではとても教育的ではないとも言えますし、大人になりたい若者が鑑賞者なら本質的には非常に教育的かも知れませんね。平安時代の貴族の生活を考えると、重婚は可能ですが、基本的には婿取りが基本でありまして、自由な恋愛は夢のまた夢であります。それだけに、身分を越えた恋愛、熱烈な愛情表現に飢えていたとも言えるわけです。その代表である、和泉式部と敦道親王の恋愛ですら、実は打算に満ちた演技であったわけですから、現代人も自由な恋愛結婚に対する過剰な期待を誡める時期に来たのかも知れません。そうしないと、結婚できない人、離婚する人だらけということになるでしょう。人様のことですから、とやかく言うのもおかしいんですけれども。


〔蛇足の蛇足〕

「だに」という単語は副助詞と呼ばれるもので、これが現代語に残っていないという点に注意がいるでしょう。どう訳しても、「だに」本来のニュアンスには届かないはずなのであります。副助詞というのは、微妙なニュアンスを付け加えるわけですから、逆に言うとなくてもいいものでありまして、一回「だに」のような単語を消去して考えるといいのであります。改めてもう一度指摘すると、「朽ちなむ」の「な・む」も、強意の助動詞「ぬ」の未然形に婉曲の助動詞の連体形「む」が付いたものなので、実は消去しても意味は変わりません。さらに、「こそ~已然形」の係り結びも、強意ですからこれも消去できるんですね。「惜しけれ」は形容詞の已然形というだけですから、ここには過去・詠嘆の「けり」なんかありませんから、時制の助動詞は使われておりません。以上を踏まえると、相模の歌は次のように変形できてしまいます。「だに」と「こそ」の位置には、係助詞の「は」を補い、「朽ち」は連体形にするわけです。


恨みわび 干さぬ袖(は) あるものを 恋に朽つる 名(は)惜し


この状態だと「だに」のニュアンスが抜けているので、この場合「だに」は類推用法と呼ばれるものですから、普通は「だに~、まして~」と呼応するものですから、「だに」に代えて「まして」を補って見ることにいたします。白秋のように、「まして」ではなく「その上」を使うのも可能だと思います。そして、ここが一番肝心ですが、「ある」を「惜しくある」の省略だとか、「朽ちてある」や「朽ちずある」の省略だとかという妄説を斥けるために、いたずらをいたします。


恨みわび 干さぬ袖(は) あるものを (まして・その上)恋に朽つる 名(もあるは)惜し


分かる方はもうこれで分かったと思うんですが、この相模の歌というのは失恋における「惜し」いもの、もったいないというか残念というか、そういう被害損失を並列して、被害の小さいものの後に、被害の大きいものをならべた一般論という可能性が高いのであります。どうせだから、以上を『枕草子』の「ものは」型に変形すると、次のようになるでしょう。


恋をして人に忘られて後に、惜しきもの、あまたあるべけれど、恨みわび干さぬ袖。かてて加へて、朽ちなむ名。これらに尽きぬべし。(粗忽捏造)


「あるものを」の部分は、例えば佐々木信綱さんだとか、石田吉貞さんだとか、そういう方の注釈では、何も手を加えずにそのままなのであります。不思議だなあと思ったのでありますけれども、考えて見れば、「あるものを」というフレーズ自体が忘れ去られつつあるのかもしれません。以上を踏まえて、相模の歌を解釈するうえで、補いをするとすれば、次のようになることでしょう。


(恋をして人に忘られて)恨みわび 干さぬ袖だに あるものを (ましてや)恋に朽ちなむ 名(もある)こそ惜しけれ


今風に言えば、「干さぬ袖(が朽ちてしまうの)」は一次的な被害でありまして、これに対して「恋に朽ちなむ名」は二次的な被害ということになるのでありましょう。袖が朽ちるのは人には内緒にできますけれども、世間で話題になり面白おかしく取沙汰されて評判が地に落ちるのは、非常に残念ということでありましょう。何でもかんでもすごく惜しいということにするのは、たぶん間違いか、間抜けな勘違いなのであります。失恋して涙を流して袖が朽ちるのは、実はたいして惜しくはないのかもしれないってことなんでしょうね。もちろん、「干さぬ袖」は「朽ちなむ袖」と同義でありまして、これを「朽ちなむ名」と入れ替えたら面白そうであります。この場合は、評判なんかどうでもよくて、袖が駄目になるという金銭的損失のみが痛いということになりますが、いかがでしょうか。


忘られて 朽ちなむ名だに あるものを 涙に干さぬ 袖こそ惜しけれ(粗忽謹製)


今回は、ほんの数時間考えて、近年の注釈書の誤りをぎゅっと改めまして、100年くらい前の正常な解釈に戻したのであります。どうでもいいことでありますが、実は昔の注釈書も読み解けていないというような問題もありそうですね。「あるものを」というところは、何もいじらなくてもよいというのは、なかなか難しいことかもしれません。つまり、分かりやすくするために、言葉を補ったり、言い換えたりするのは構わないということから、本来の表現の意味するところが蒸発してしまうわけです。漫画の実写化とか、小説の映画化なんかで生じている現象かもしれません。


「朽ちず・惜し」 変な訳だに あるものを 故意に朽ちなむ 歌こそ惜しけれ(粗忽謹製)

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